11 花言葉
飲み込んだ球根をどうにか吐き出すと、多々良はやれやれと寝転がった。
「いや、参った参った」
胸のムカつきと吐き気がまだ残っている。だがこれ以上吐く物はない。落ち着くまで、少し横になっている方がよいだろう。
静かな足音が近づいてきて、止まった。
目を向けると、巫女姿の玲が無表情で多々良を見つめていた。
目が合っても、玲は無言のまま。ゆっくりと腰を下ろすと、多々良の頭の横に正座し、じーっと見つめている。
いたたまれない。
真冬を思わせる冷たい怒気は消えていたが、その目は何か言いたげ。見つめられていると、見られてはいけないものを見られてしまったような――有り体に言えば、浮気現場を見られてしまったような、そんな気分になってくる。
(うーむ、どうしたものか)
謝るべきかと思ったが――多々良と玲は、夫婦でもなければ恋人でもない。戯れに肌を重ねる、そんな男女の仲ですらない。
ゆえに、多々良が他の女と戯れたとしても、謝る筋合いはないのだが。
どうやら玲は、お怒りのようである。かなり。
「もてる男はつらいのう」
さてどうしたものかと悩んでいたら、玲が険のある声で言った。
「自業自得ではあるがな」
「自業自得? なんのことだ?」
「なんじゃ、まだ思い出しておらぬのか?」
「思い出す?」
多々良が首をかしげると、玲は眉をひそめ、非難がましい目になった。
「いや、なんだ……目が覚めてからというもの、どうにも頭が働かなくてな」
「神の力のせいか。思い出してももらえぬとは、ちとあの女が哀れじゃな」
妾も少々やりすぎたか、と独り言ち、玲は多々良を見据えた。
「ま、なんじゃな」
それはそれとして、と言わんばかりに、玲が言う。
「あれほど一途に、殺したいほどに愛してもらえるとは。男冥利に尽きるのう」
「いや、さすがにあれは遠慮したいのだが」
「ほう? 仲よう着替えて、庭で抱き合って。実に楽しげであったが?」
「いや、それは……」
言葉の端々に棘がある。見つめられているというよりは、睨まれている。
これはもう、謝罪の一択だ。
「その、すまん。悪かった」
「ほう、なにゆえに妾に謝るのかの?」
「いや、それはだな……」
お前が怒っているからではないか、と思いながら、玲をまっすぐに見上げたとき。
目の前の玲に、ほんのわずかな違和感を覚えた。
「お前……玲、だよな?」
「なんじゃ、他の誰かに見えるのか?」
「いや、玲なんだが……その、なんというか……ずれている、というか」
「ずれている?」
「なんというか、その……」
姿形、話し方、細かな仕草。そのすべてが記憶にある玲と、ほんのわずかだけずれているような、そんな気がしたのだ。
「うーむ、例えるなら、長年会っていなかった者と久しぶりに再会したと言うか……そんな感じだ」
「ほう」
玲は、わずかに感心したような色を浮かべた。
「面白いことを言うのう。そうか、ずれているか」
玲の顔がようやくほころび、クククッ、と喉の奥で笑った。
「なるほどの。さすがは妾の……」
何かを言いかけた玲だが。
思い直したように口を閉ざし、静かに首を振った。
「どうした?」
「なんでもない。妾は正真正銘、玲じゃよ。おぬし、少し毒にやられているのではないか?」
「毒? 毒があるのか、この花は」
「球根にの。毒抜きせずに食べれば、死ぬこともある」
「そうか」
多々良は手を伸ばし、咲いている花にそっと触れた。
「初めて見る花だが、なんという名なのだ?」
「曼珠沙華。彼岸花ともいうが……その名は少し後の時代じゃったかな」
「後の時代?」
「……なんでもない」
玲は静かに首を振り、瓢箪を差し出した。
瓢箪の口は開いていた。「どういうことだ?」と目で問うと、一口飲めと言われた。
「大丈夫なのか?」
「お主はまだ死なぬ。飲んだところで、ただの水じゃ」
「ふむ」
瓢箪の中身を口に含み、驚いた。
まろやかでうまい水だった。ゴクリと飲み込むと、胸のムカつきが消え、すっきりとした気分になった。
「うまいな」
「良い酒は、良い水から作られるからのう」
笑いながら瓢箪の口を閉じると、玲は正座して多々良に向き直った。
「楽になったであろう?」
「ああ」
「とはいえ、少し休んだ方がよい。ほれ、ここへ頭を乗せよ」
玲が、ぽんぽんと太ももを叩いた。
「は?」
「膝枕してやる、と言うておるのじゃ」
「い、いや、別に膝枕などせずとも……」
「いいから早うせい」
玲は、戸惑う多々良の頭を強引に抱き寄せ、膝に乗せた。
「おい、お前は本当に玲か!? 玲はこんなこと……」
「せぬであろうな……まだ」
にこりと笑い、玲はゆっくりと多々良の頭を撫でた。
「ほれ、しっかり乗せよ。おぬしが寝たら現世に戻るでな」
「ここは現世ではないのか?」
「現世から黄泉へと向かう道の途中じゃ。ちと力を使うのでな、おぬしが寝ていた方が戻りやすい」
「そういうことか」
とはいえ、膝枕をする必要はないのではと思ったが。
多々良とて男だ、女の――それも玲の膝枕が、嫌なわけではない。
「お眠り、多々良。妾がきちんと送り届けるゆえ」
顔をのぞき込む玲にうなずき、多々良は目を閉じた。
玲の手が、ゆっくりと動く。
慈しむように頭を撫でられ、多々良は次第に眠りの泉に沈んでいく。
(ああ、これは……いかん……)
心が、凪のように静かになっていく。
こんなにも心安らかになったのは、いつ以来か。
「お休み、多々良」
玲の優しい声に包まれて、多々良は深い眠りについた。
◇ ◇ ◇
寝息を立て始めた多々良を、玲は愛おしそうに撫で続けた。
「またこうして、おぬしに会えるとはのう」
永劫の咎人として、時の理を外れてしまった玲。
それゆえに、過去も現在も未来もなく、自在に時を行き来できるのだが。
唯一この時間――多々良と出会い、同じ時を過ごしたこの時間だけは来ることができなかった。
それは、玲が仕える神による制約。この時間だけ、玲は時の理に縛られている。
なぜそんな制約を課されているのか、理由はわからない。
「じゃが、どうやらここは例外のようじゃな」
現世と黄泉の間に作られた神域。
幾重にも重なった世界だから、時間の流れがおかしいのか――それとも、神の気まぐれか。
「考えるだけ、無駄じゃな」
なにせ相手は、創世の神。この宇宙そのものであり、人の理解など及ばぬ究極の荒神。
真剣に考えたところで気が狂うだけだ。
「ふふ。おぬしとはまだ恋仲ですらないというのに。意地悪してすまなんだな。ちょっとした嫉妬じゃ」
玲は笑顔を浮かべると、身をかがめ、多々良に口づけした。
「妾が素直になるのは、もう少し先。素直になったらなったで、ちと重い女になるが……」
ぽろりと一粒、涙が落ちた。
「永劫の時の中、妾が夫と呼ぶのはおぬしだけじゃ。少しばかり重いのは、許しておくれ」
想うはあなたひとり。
この時代、花言葉なんてものはまだないが――玲は曼珠沙華を一輪摘むと、想いを込めて多々良の胸元に忍ばせた。