10 撃退
「愛してるわ、多々良」
甘い声と温もりに、多々良の心が蕩けていく。
その誘惑にもはや抗えない。布越しに感じる温もりがもどかしい。
多々良は、乳房を包み隠す布に手をかけた。
女は、頬を赤く染めて目を閉じた。
だが、多々良はその手を動かすことができなかった。
リィーン!
鋭い鈴の音が、甘く蕩けた多々良の心をひっぱたいた。
やばい、と訳もなく冷や汗が出る。布にかけていた手を慌てて引っ込め、絡みつく細腕から逃れようと体を起こした。
「多々良?」
「お前は……誰だ?」
ようやく気付いた。
この女、玲ではない。口調が違う。ずっと感じていた違和感の正体はこれ。こんなにわかりやすいのに、どうして気付かなかったのか。
「ひどい」
女が、ひどく傷ついた顔になった。
多々良の首に回した両腕に力を込め、逃がすまいと抱き着いてくる。
「私を忘れたの? あんなに愛してくれたのに。ひどい、そんなのひどい」
「くっ……」
普通の女の力ではなかった。
多々良の全力をもってしても離れられない。ならばと、渾身の力を込めて身を起こそうとしたら、不意に力を緩められて体がのけぞった。
「いや、逃がさない」
のけぞったところに抱き着かれ、そのまま押し倒された。
女が馬乗りになっり、尋常ではない力で多々良を押さえつけた。見えない何かが全身に絡みつき、地面に貼り付けられているようだった。
「ずっと私のそばにいて。もうどこにも行かないで。もう一度私を愛して」
女が、咲いている赤い花に手を伸ばし、地面から引き抜いた。
炎のような形の花の、丸く膨らんだ根。ついた土を払い、口に入れる。
くちゅり、と女が口を動かす。二度、三度と咀嚼し、球根をかみ砕く。
「もう、離れない……」
「ぐっ……」
女が身をかがめ、多々良に口づけした。
もがく多々良に抱き着き、逃さぬよう拘束する。女の口から、かみ砕かれた球根が流れ込んでくる。
飲み込むのは、まずい。
そう思ったが、多々良の力をもってしても女を引きはがせず――ついに、ごくりと飲み込んでしまった。
「ふふ、飲み込んだね」
女が、蕩けるような目で多々良を見つめ頬を撫でた。
「これで私のものよ、多々良」
◇ ◇ ◇
ビシィッ、と。
何かが割れるような、鋭い音が響いた。
稲妻のような光が、天を切り裂いた。
大地が揺れ、衝撃と共に土埃が舞った。
「うおっ!?」
「きゃっ!」
すさまじい音と衝撃に、多々良も女も身をすくませた。いったい何が起こったのかと、土埃が収まるのを待って目を向けると。
大きな瓢箪を持つ、美しい巫女が立っていた。
巫女は、じろりと多々良の方を睨んだ。
巫女の顔からすうっと表情が消える。真冬を思わせる冷たい怒気が立ち上り、多々良にしがみついていた女がびくりと身を震わせた。
巫女が、ゆっくりと歩み寄ってくる。「容赦はしない」と言わんばかりの鋭い目で、多々良と多々良に抱き着いている女を射貫く。
「おぬし」
多々良と女。半裸で抱き合う二人のすぐ側まで来た巫女――玲は。
怒気を孕んだ目で女を睨みつけ、冷たく言い放った。
「そこから降りよ」
「嫌よ。多々良は私の……」
女が言い返そうとした、その瞬間。
玲の手が伸び、女の髪をつかんで力任せに多々良から引きはがすと。
スパァンッ!
女の頬を、したたかに平手打ちした。
「な、なにするのよ!」
ぶたれた頬に手を当て、女は憎々しげに玲を睨んだ。
だが。
「おだまり」
玲は、女の怒りなど足元にも及ばぬ、怒髪天を衝く形相で睨み返した。
その、鬼のような形相に女はたじろいだ。
たじろいだ女を見て、玲は、ふっ、と笑みを浮かべると。
「さっさと……そこからどかぬか!」
女を怒鳴りつけ、くるりと回転し、渾身の力で女を蹴り飛ばした。
女の体が宙に浮いた。
かなりの距離を飛んで落ち、それでも勢いが殺されず地を転がった。
「多々良。おぬしはそこでじっとしておれ」
目を丸くしている多々良にそう告げると、玲はひらりと多々良を飛び越え、女のところへ向かった。
「やだ、やめて……いや……」
目の前に立った玲が瓢箪の口を開いたのを見て、女は顔を青ざめさせた。
玲は冷たい表情で、腰に差していた扇を手にし、はらりと広げて瓢箪の中身を垂らした。
「お願い、お願いよ。私は多々良と……あの人といっしょに……」
「諦めい」
多々良をちらりと見て――玲が静かに告げる。
「あれは、妾のものじゃ」
玲が手首を翻した。
扇がくるりと回り、瓢箪の中身が女に降りかかった。
その途端。
女の体が淡く光り、ぼろぼろと崩れ始めた。
「いや、いやぁ! 私は、多々良と……多々良と一緒に……」
「おぬしが生者であれば、話の余地はあったがの」
静かな眼差しで、玲が女に告げる。
「黄泉の住人に多々良はやれぬ。あれには、現世でやるべきことがあるのじゃ」
「そんなの知らない。そんなのどうでもいい。私は……私には、多々良だけが……」
「もう行くがよい」
「いや……多々良、多々良……多々良ぁ……」
「贄にはせぬ。おぬしは……多々良が愛した者ゆえな」
安らかに眠るがよい。
なおも多々良の名を呼ぶ女にそう告げると。
玲は瓢箪を傾け、鎮魂の酒を女に注ぎかけた。