美徳の寓意
「美徳の寓意」という絵画をご存知でしょうか。
ルネサンスを代表する画家の1人であるコレッジョが描いた絵画と言われています。
私は、あまり芸術に詳しいわけではないのですが、縁あって先日、この絵を美術館にて、みさせていただきました。
その時の感想をエッセイとしてかかせていただこうと思います。
その絵を見た瞬間、私の中に衝撃が走った。
美しい光沢、きめ細やかな塗り方、まるで浮き出ているかのようなエロティックな体たち。あるひとつを除いては、すべてが完璧のように見えた。
あるひとつ、それは、この絵の主題である知恵の女神アテナの姿である。線のみで描かれた彼女には、橙色以外の色が無かった。影がなかった。2次元だった。
そう、この絵は未完だったのだ。しかも、ど真ん中にいる主人公の姿のみが完成していないのである。(実際には、女神の上にもう3人ほど他の天使が飛んでいる絵を描く予定だったようなので、未完成の責任がアテナ1人にあるという訳ではないのかもしれない。しかし、天使3人が入り込めるような空白の隙間は無く、その絵は絵自体として彼女以外は完璧だったと言えよう。)
「彼女さえ描いとけばね、もったいないね。」
と、ある人が呟いていたのが聞こえた。
そんな絵を立ち止まってゆっくり眺める人はいなかった。みんな、完璧を求めるのである。ただ、私だけがずっとぼんやりその絵を見ていた。
「芸術は、かいた人と、みた人の間で成り立つ。」
作者がどんな理由でこの作品を最後まで描かなかったのかを、勝手に想像した。
実際は、知らん。飽きたのかもしれない、病気になったのかもしれない、死んだのかもしれない。ただ、私はこの未完成に理由をこじつけた。
未完の美しさ。
完璧なものには、もう飽きた。じゃあいっそのこと、この真ん中の人を描かなければいいのだ。完成させなければいいのだ。主人公が剥奪されたこの世界で彼女はどうやって生きるのか。本当に彼女は女神アテナなのか。彼は彼女を描かずに、まわりの人だけを一生懸命創り続けた。その意味。未完成だから、想像が膨らむ。未完成だから、目をひく。未完成だから、残念。この気持ちは、なんとも言えない気持ちは、残念なんだ。だけど、それが心を引いていく。アテナがこの絵の世界に存在しないのなら、その隣の女性は、一体誰を見ていて、誰に寄りかかっているのだろう。この気持ち。この気持ちが美しいのだ。楽しいのだ。
ひとしきり、妄想が終わったとき、この絵に覚えがあると感じた。
「これは、小説だ。」
少し、言い過ぎかもしれない。しかし、当たっていないことも無い。小説に出てくる主人公について、知らないことが多いのだ。主人公の周りにいる人のことは詳しく書いてあっても、主人公のことは全くわからないことがある。名前を知らない時すらある。あんなに自分と同化して、感情を共有しているのに、その主人公のことは何も知らない。
主人公をぼやかすことで、主人公と自分の境目を無くす。この絵は、もしかしたら……。
絵は妄想が膨らむので好きです。ぜひ、「美徳の寓意」見てみてください。