価値
サラッとお読み下さい。
「シュリナ……本当にすまない。君の事は大事だ。だが……妹としてしか見れない……本当にすまない」
「アーベスト様、私は妹ではないですよ?今日、神に誓った『夫婦』ではないですか。何故今仰るのですか?妹としか見れないのなら、何故婚約を続けたのです?」
アーベスト様は確かに私と十歳離れているが、ちゃんとした婚約者であり、今日式をあげて正式に夫婦となった。私は無機質な目でアーベスト様を見つめる。
「すまない……。妻として大事にはする。だが、シュリナを抱く事は出来ない。情夫を作っても良い。君の自由にして良い」
私はその言葉を聞き、鼻で嗤う。本当に馬鹿で残酷で優しい人。誰に聞かなくても知っている。公爵家の別邸でアーベスト様が愛する女を囲っていることなんて。
「……本当に残酷な人。何方か片方も切り捨てられないなんて」
家族の表情も他人の表情も、アーベスト様の申し訳ない顔も場の空気も、もう限界。私がわからないような人達に上辺だけ大事にすると言われても無意味。だから私はもう、誰かの為の努力は辞めるの。
「好きにすれば良いと言うのなら、そうさせてもらいます」
私はネグリジェを脱ぎ捨て、アーベスト様を押し倒す。アーベスト様は戸惑って私を退かそうとするが、全く力が無い。寧ろ優しく私を気遣う手だ。
「『旦那』様は動かなくて宜しいわ。『妻』の私がしたい様にするんだもの」
軋んで悲鳴をあげる心は気の所為だ。傷つけられても此れは私の所為じゃない。惨めな女なんてレッテルを貼られるのは私が許さない。
アーベスト様は戸惑ったまま、私の言うがままに好きにさせた。
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「……何が妹としか見れないよ。ちゃんと抱けるじゃない」
朝方、私を起こさない様に静かにアーベスト様は寝室から出ていった。寝たふりをしながら薄目で見たアーベスト様は罪悪感で頭を抱えていた。
私はゆっくりと枕に顔を埋める。私は嗚咽を殺して心の傷を噛み締める。大丈夫、結局の所は自分の傷は自分で癒すしか無いのだから。誰かに縋ったりしても無駄。私はそのまま一日中寝室に篭って涙を零した。
私の価値は私が決める。そう言い聞かせて。
次の朝、痛む体を起こして侍女を連れて図書室に足を運ぶ。その途中に窓から見えたアーベスト様と愛人が睦ましい姿を見て、また心が軋む。私はその場を目に焼き付けて深呼吸をする。心配そうにする侍女に笑いかけ、私はそのまま図書室で自分の好きな事に一日中耽った。
周囲の目など気にしない。
汚い思いも、憎しみも、傷つけられる心も、後悔も全て遠い思い出に変わるまで。少しだけ前に進んで、休みたい時は休んで。
「……良いのよ、シュリナ。私の事は私が知ってるんだもの。私は泣いてばかりの子供じゃないのだから」
誰も居ない図書室で私の独り言が寂しく響いた。
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数ヶ月後、私は中庭のベンチに座って本を読んでいた。すると別邸からアーベスト様の愛人が勝ち誇った顔で歩いてくる。決して褒められない歩き方で侍女達の制止の言葉も聞かず、私を見下す。
「あら、隠れ蓑でしか無いお飾りの妻であるシュリナ様じゃありませんか」
私はその言葉を無視し、手元の本に視線を戻してパラっとページを捲る。それに苛立った愛人が私の持っていた本を掴み投げ捨てた。私は溜息を吐き、紅茶を淹れる様に侍女に言う。
「その余裕、いつまで持つかしら?アーベスト様の寵愛は全部私のものよ?」
「紅茶をありがとう、イブリナ」
愛人を無視して私専属のイブリナに微笑みかける。お気に入りの紅茶の香りを堪能しようとして、とてつも無い不快感と気持ち悪さがせり上がって来て、私はティーカップを落として口元に手を当てる。
「きゃあ!!汚い事!!貴族の女は皆んなこんなのかしら?」
愛人の言葉が耳障りだが、気持ち悪さが止まらない。
「奥様!!今すぐに医者をお呼びします!!」
使用人の男の人に抱え上げられ、私が一人だけで寝ている寝室へと運ばれる。直ぐに医者が来て私の症状を診て、おめでとうございますと言った。
「月のものは確かに来てはいないけど……一度で出来るものなの?」
「奥様、子は授かり物ですぞ。一度だけでも出来る可能性はあります」
「そう……そうなのね」
私は平なお腹を優しく撫でる。心の穴を埋めるものが出来た様な気がして優しく微笑む。私達の歪な生活を知っている使用人達は泣いて喜んでくれた。
すると、寝室まで響く早足の音を立てて寝室にアーベスト様が入ってきた。アーベスト様が驚愕の表情で私を見た後、ゆっくりと私のお腹を見た。
「……私の子か?」
ああ、まただ。心が軋む音がして、私はイブリナの手を借りてアーベスト様の前に立って、思い切りアーベスト様の頬を打った。床に落ちる涙も気にせず、私は無言でアーベスト様を睨みつけた。
イブリナが目を吊り上げ、アーベスト様に怒鳴る。
「奥様は旦那様を一度たりとも裏切ってはおりません!!信じられないのなら他の使用人達にも聞いて貰えば分かる事です!!いつまで奥様から目を逸らす気ですか!!」
「……子供。私とシュリナの……子供」
「出て行って。出て行ってよ!!愛人の所にずっといてもらっても構わないわ!!だけど、『私』のお腹の子を侮辱するのは許さない!!」
「シ、シュリナ、落ち着いてくれ」
「出て行け!!お腹の子は私が守る!!『旦那』様は必要無いわ!!」
怒鳴った事で目が回り、息が苦しくなり倒れそうになる私をアーベスト様が壊物を扱う様に抱きとめた。鳥肌が立ち、イブリナに手を伸ばす。イブリナは直ぐに、私とアーベスト様を引き離してベッドへと寝かせてくれる。使用人達が戸惑うアーベスト様を寝室から追い出してくれた。
「……イブリナと皆んなには感謝しないとね」
「奥様……大丈夫です。使用人一同、奥様とお腹の子は私達がお守りします」
「ふふっ、そうか、そうね……私は恵まれているわね。……あり……がとう」
私は涙腺が決壊した様に涙を流し続けた。
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それから、アーベスト様の様子がおかしくなった。別邸に入り浸っていたのが嘘の様に本邸で過ごす様になった。心配そうな顔をして私に声を掛けようとしては、黙り込む。私はアーベスト様など必要無いとでもいうように、アーベスト様を空気として扱った。
どんどん大きくなってくるお腹を撫でながら、私は私室で産まれてくる赤ん坊の産着を縫っていた。すると、アーベスト様が部屋にノックして入って来た。イブリナがアーベスト様を睨みつけ、間に入る。
「奥様は今大事な時期でございます」
「……分かっている。シュリナ……少し話を聞いてくれないか」
私は黙り込んだまま何の返事もしない。ただゆっくりと産着を縫っていく。
「シュリナ、君にして来た事を謝りたかった……。最初からやり直してくれないか?マドリーとも別れる。産まれてくる子供に恥じない父親になりたい……」
クスクスと思わず嗤いが溢れる。誰がその口で戯言を。
「最初から?『旦那』様が仰ったのですよ?私の自由にして良いと。私とお腹の子には……貴方は要らない」
「シュリナ……すまなかった……すまない……すまない……」
泣きながらアーベスト様は部屋から出て行った。私はアーベスト様が出ていたドアを無機質に見つめていた。
次の日、医者から動く事も大事だと言われてイブリナと散歩がてらに庭を歩く。すると目を血走らせた愛人が使用人達が押さえ付けても、暴れて逃れ、私に向かって走ってくる。イブリナが私の前に立ちはだかったが、愛人はイブリナを突き飛ばし、私に馬乗りになる。
「うっ……!!」
「あんたのせいよ!!あんたに子供さえ出来なければ!!この腹にいる糞ガキが!!アーベスト様の寵愛は全部私のものだったのに!!」
「!?やめっ……!!」
愛人が私のお腹を両手で殴ろうとして、私は顔を青くする。だが、走って来たアーベスト様が愛人を間一髪押さえつけて、お腹の赤ちゃんは守られた。
「アーベスト様!?何故!?何故なの!?」
「シュリナとお腹の子には何も罪は無いだろう!!私が愚かだったのだ!!」
修羅場なのに、正にその通りだと何故か冷静に思う自分がいた。暴れる愛人をそのまま護衛兵に受け渡し、アーベスト様が私を優しく抱きしめるが、鳥肌が止まらない。
気持ち悪い。心が軋む音がする。
私はそのまま意識を暗闇に飛ばした。
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暗闇の中、小さな光がポツンとある。私はこの光を守らなければ。守りたいものを守れる強さが欲しい。でも、私の弱い心が私を襲う。でも、私は目を見開いて全て受け入れて前に進む。
小さな光に手を伸ばせば、あの夜を思い出す。
信じていたものが、築き上げたものが崩れ落ちて何も信じられなくなる感情。立てなくなっても、それでも……もう知っているから。
「シュリナ、シュリナ……すまない、すまない」
「アーベスト様……この手を離して下さい」
ベッドに横になっていた私の手を握り、泣き縋るアーベスト様を冷たい目で見る。
「……シュリナ」
「私は貴方の知っている、小さな女の子ではありません。もう母になるのです。何も知らない子供のままじゃない」
私は弱々しい力でアーベスト様の手を振り払う。アーベスト様は悲しい表情になり私の大きなお腹を見る。
「はぁ……アーベスト様。私は貴方が嫌いです。……だけど、お腹の子の『父親』なんです。これまでの事をちゃんと理解して反省なさるなら、撫でても良いですよ」
アーベスト様は目を見開き泣きじゃくりながら私のお腹を震える手で撫でる。すると、お腹からぽこぽこと赤ちゃんがお腹を蹴る。アーベスト様は泣きじゃくったまま嬉しそうに笑った。
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私は今し方、命懸けでお腹にいた子を産んでいる最中だ。その部屋の前をアーベスト様がウロウロして、私の呻き声に一々『大丈夫か!?』と叫んで使用人達に何度も宥められているみたいだ。
私はあまりの痛みに、淑女とは思えない口調で叫んでしまった。
「馬鹿アーベスト!!浮気野郎!!屑が!!こっちがどんな思いで過ごして来たなんて知らないくせに!!何が大丈夫だこの野郎!!大丈夫じゃないわよ!!お前が産んでみろ!!そして土下座しろ!!去勢しろ!!」
「おぎゃあ!!おぎゃあ!!」
私の渾身の叫びと一緒にアーベスト様にそっくりな男の子が産まれた。顔を青くしたアーベスト様が部屋に入って来て産まれた子を見て泣く。
そして、疲れ切ってる私と赤ん坊に土下座した。
「シュリナ、有難う……!!有難う……!!すまなかった!!」
「……もう、良いですよ。全て遠い思い出に変わるまで。少しだけ前に進んで、休みたい時は休んで……そう決めていたので」
「シュリナ、一生君を裏切ったりはしない……!!」
「煩い」
そう言って私はあまりの疲労で眠りについた。
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「お母様!!僕、お母様に似た女の子が良い!!」
「アーシス、性別関係無く可愛がって頂戴」
「……うん」
しょんぼりする息子の頭を撫でる。アーベスト様と違ってハツラツとした性格に元気に成長している。
「シュリナ、あまり無理するな。いつ産まれるか分からないのだから」
「あ、お父様いたの?ねぇ、お父様もお母様に似た女の子が良いよね?お父様に似てほしく無いなぁ……」
「そ、そうだな……」
次はアーベスト様がしょんぼりする。私は溜息をつきアーベスト様を撫で、手を取ってお腹に手を当てる。するとぽこぽことお腹で赤ん坊が暴れている。アーベスト様はデレデレと嬉しそうにする。本当に手の掛かる大きな子供だ。
アーシスも嬉しそうに私のお腹を撫でる。
大丈夫、私の傷は塞がったから。涙の果てにやっと光を手に入れたから。そう心に置いて私は微笑んだのだった。
有難うございました!!