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少女の幻夢



少年はその手に似つかわしくない買い物袋を持ってマンションのエレベータに乗った。夕飯の献立がなかなか決まらず、食材を買い込んでしまったため買い物袋はずっしりと重量感がある。やはり先に美都に決めておいてもらうべきだったと少し後悔した。

美都を先に送り出した直後、冷やかしのメッセージを送ってきた秀多と遭遇した。やられたな、と思ったのは隣にあやのがいたことだ。

「なんだよ、月代帰っちゃったの?」

「お前があんなメッセージ送ってくるからだろうが」

「悪かったって。よーやく四季の片想いが実ったもんだからつい」

ついってなんだと秀多の言葉に青筋を立てそうになる。彼の隣にいたあやのがどうどうと四季を諌めた。そして嬉々として彼に提案する。

「ね、ね。今度ダブルデートしようよ」

「はぁ?」

「美都にもお礼言いたいし。夏休み入ればイベント盛りだくさんだし!」

「……お礼?」

あやのの言葉に目を瞬かせる。お礼とは何のことだろうかと首を傾げているとすかさず秀多が口を挟んだ。

「月代、修学旅行の時の立役者なんだよ。俺たちにとってのな」

「そうそう。美都が最初に班をセッティングしてくれたんだよ。あの時は渋々だったらしいけど」

「四季は俺に感謝しろよー。ちゃんと友情をとったんだから。説得するの大変だったんだぞ」

「ちょっと待て、説得って何だ」

自分の預かり知らぬところで何やら話が進んでいたようだ。修学旅行前に美都と秀多が話し合っていたのは目撃している。問題は彼らが呟いた単語にあった。渋々やら説得やら不穏な言葉が聞こえたのだ。

「あー……まあもう付き合い出したから言うけど、あんとき月代お前と一緒の班になるの嫌がってたんだよ」

「はぁ⁉︎ なんで……」

「えーっと『四季は女子にモテるから距離を取っておきたい』って言ってたな。まあもう時効だろ?」

ガンっと鈍器で頭を殴られたような感覚だった。よもやそこまで距離を置かれようとしていたとは。確かに思い返せば似たようなことを美都自身呟いていたかもしれない。あまり遡りたくもないので記憶から抹消していたが。その事実に頭を抱える。

「気にすんなって。結果オーライじゃん」

確かに秀多の言う通りだが、複雑なのには変わりない。だから修学旅行中あんなに差が激しかったのかと納得も出来るが。

その後秀多たちに別れを告げ、一人で買い物を終え帰路についた。四季はエレベータ内で秀多たちと交わした会話を思い出していた。

しかし人のことを「モテるから」とは良く言ったものだ。どういう評価でその感想を抱いたのか知らないが、今でも自分は女子生徒から遠巻きに見られているのだ。クラスメイトに関しては概ね話せるようになってきたが、他のクラスの生徒からは今でも度々奇異な目で見られることが多い。恐らく彼女はそれを勘違いしているのだろう。

それにモテるというなら美都自身だろう。自分なんかよりもよほど人見知りせず周囲からの評価も高い。彼女はそのことについて「八方美人なんだよ」と卑下していたことがあったが実際にそうでないことは見ていればわかる。美都が纏う雰囲気は他者を惹きつける。誰とでも仲良くなれるのは才能だ。彼女に敵意がないため相手も心を許すのだろう。彼女自身はそれに全く気付いていないようだが。

気付いていないからこそ危ないのだ。彼女の優しさは一つ間違えれば他人の悪意に付け込まれる恐れがある。

(そんなことさせないけどな)

心配しすぎなのは分かっているがあの奔放な少女を見ているとどうしても過保護にならざるを得ない。今まで周囲の人間がそうだったように。自分が見ていてやらねばと妙な使命感を芽生えさせるのだ。

目的の階に止まりエレベータから降りてマンションの廊下を歩く。ふと妙な違和感に気付いた。

「────?」

自分たちの家の奥の部屋の扉が開いているのだ。今までそんなことは一度もなかった。時期外れだが内見という可能性もある。何にせよこの時世だし誰が入居しようが関係ないか、と自分を納得させ鍵を開けて玄関の扉を開いた。

「ただいま」

ギィと鈍い音が響き、玄関の扉が閉まる。返事が無いということは自室にいるのだろうか。てっきりリビングにいるものだと思っていたため、迎え入れる言葉がなかったことに少しだけ落胆した。まあ人の気配がすれば部屋から出てくるだろうと、短い廊下を歩きリビングに辿り着いて目に入った姿に思わず目を瞬かせる。

「美都?」

少女は窓に近いソファーに身を預け、うつらうつらとしていた。声を掛けても反応は無い。

(……寝てるのか)

しかしまた器用に寝るものだ。座った状態で顔を俯かせるようにしている。せっかくの大きいソファーなのだから横になった方が楽だろうに、と思ったときに手前にある机になにやら用紙が置かれていることに気付いた。それが期末考査の問題用紙だとわかるのに時間は掛からなかった。なるほど、ちゃんと自分との約束を守ろうとしていたらしい。努力の跡は認める。しかし、と四季は溜め息を吐いた。

(──無防備すぎるだろ)

仮にも他人の男と同居しているのだ。もう少し危機意識を持って欲しい。信頼されているのだということはわかるがこれはそういうことでは無い。

そう言えば前にも一度こんなことがあった。付き合う前の話だ。中間考査が終わった日、宿り魔の退魔を終えた後美都はすっかり疲れた様子を見せていた。食事当番を変わると提案したが、頑なに大丈夫だと言い張って何とか調理をしていた姿が思い出される。後片付けを任せ風呂から出るとあろうことか少女はソファーで寝落ちていたのだ。美都のことを意識してから間もなかったため、その無防備さに怒らずにはいられなかった。グッと堪えた自分を褒めて欲しいところだ。

やれやれと肩を落とし下から覗き込むように美都を見つめる。すぅすぅと小さく寝息を立てている姿が愛らしく憎らしい。鈍感なのは人の気配にもか。触れても起きなさそうだと思いながら眠る彼女に手を伸ばそうとした。

「…………」

触れる直前でピタッと手を留める。起こそうかと思ったがやめた。せっかくだからどこまで起きないのか試してみたいという好奇心が働いてしまった。

(コーヒーでも淹れるか)

そう思って四季はそっと立ち上がる。コーヒーは香りが強い。さすがに起きるかと思うがこの調子だとわからないなと苦笑いを浮かべる。無防備なのは心を許している証拠かと少し嬉しくもある。

美都が起きたら少しだけ小言を言わせてもらおう。そうしたら期末考査の復習をして夕ご飯を作り始める。四季は頭の中でこの後の計画を立てるとひとまずキッチンへと向かった。





美都はその世界でぼんやりと薄眼を開いた。眼前に暗闇が広がる。どこだろうと一瞬だけ考えた後、心地良さが勝り考えることを放棄した。暗闇に溶け込むように、自分は立っている。身体が驚くほど軽い。

(静か……)

ふと手を伸ばしてみる。音も光も無い世界だ。当然手のひらは何も掴むことなく風を切った。

(夢、かな)

そう思ったのはあまりにも現実味が無かったからだ。夢だと判断出来るくらいには冷静なのか、と自分の思考に苦笑する。しかし夢にしては殺風景だなと辺りを見渡した。もちろん闇しか見えない。果てのない闇。底知れない闇。色合いで言えばスポット内にいるかのようだがここは自分が作り出した世界だからか不快なものではない。むしろ居心地が良い。それが恐ろしくもある。

(……このまま)

この暗闇に囚われてしまうのではないかと。それでもいいかと思えてしまう程、この世界は何物にも干渉されない。そう思ったときだった。

『────ダメだよ』

「……⁉︎」

一人だと思っていた空間から、何者かの声が響いた。思わず周辺を確認するが姿は見えない。

「──だれ?」

その問いに答えは無い。先程の声は自分の聞き違いかと思った途端、その声は再び響いてきた。

『気をつけて』

ぼんやりと聞こえるその声は、どうやら男性のものだ。発信源を探すため暗闇の空を仰ぐ。声色は柔らかいがその声の主が放った言葉に目を瞬かせた。注意喚起の言葉だったからだ。更に声は続く。

『良くないものが近付いている』

「良くない、もの……?」

『そう』

思わずその言葉を復唱する。言葉通りに捉えるとしたら、自分にとって災いとなるものという意味になるのだろう。無意識に頭の中で考えを巡らせる。ここ最近での災厄は何なのかを。守護者としてのことだろうか。今までこういった夢を見たことが無いため考えられるとしたら新たな脅威ということだと予測出来る。

『でも大丈夫だよ』

「……?」

何を以て大丈夫だと言うのか。不思議に思って首を傾げる。姿形のない声は優しく包み込むような口調だ。

『今のきみなら、きっと──。間違いを正せるはずだ』

まるで昔から自分を見てきたような言い方だなと耳に届く声を聞いてそう思った。見えない声に信頼されているというのも変な話だ。だが良くないものという抽象的な事柄を前に、その言葉を信じるしかないとも思えてくる。つまりそれは自分を信じることだ。

「わたし、は────」

そう言って美都は右手中指に嵌る守護者の指輪を見ながら手を前方へ翳した。この指輪が、武器となって形を変える限り。自分は守護者として戦うだけだ。その手をグッと握りしめる。

(……うん。大丈夫だ)

そう言えるのはきっと、傍にいたいと思える人がいてくれるから。大丈夫、大丈夫だ。あの温もりが自分を包んでくれる。一身に向けられるその温もりにまだ少しだけ戸惑うこともある。それでもこの世界と同じように、とても心地良いものだ。自分に安らぎを与えてくれる。

(そうだ……)

戻らなければ。ふとそう思ったのは、この世界では彼の温もりを感じることが出来ないから。その瞬間、眼前に一筋の光が見えた。なんとなくあそこへ向かえば良いのだなと思う。

美都はその強い光を掴みたくて、ゆっくりと足を動かし始めた。



少しずつ現実へ意識が移行されていくように感じた。だがその現実も今は曖昧だ。

美都は瞼を震わせてふっと目を覚ます。まだ不明瞭な視界の先に覗く光景に、少しずつ頭を慣らしていく。見覚えのある景色。そうだここはリビングだ。どうやら自分はソファーに横たわっているようだ。しかしいつの間にこの体勢になったのだろう。眠る前の記憶が曖昧ではっきりとしない。ぼんやりとした意識の中、ひとまず起き上がろうとしたとき頭上から不意に声がした。

「──こら、いきなり起き上がるな」

自分の行動を制止する言葉に驚いて動きを止める。声の発信源を辿るため、美都は横たわったまま視線を動かした。

「し──四季……?」

先程の状態から少しだけ首をもたげた先に彼の顔が見えた。だが起きたばかりの状態で頭が正常に動いていないため状況が理解出来ていない。目を瞬かせて必死に考える。

「こ、これは…………一体?」

眠る前の状況を思いだしてみたが決してこの体勢ではなかった。自分はソファーに座っていたはずだ。なのにこれは一体どういうことだと頭を混乱させる。いつの間にか横たわっていて。自分の頭が乗っているのは、あろうことか彼の膝の上だ。

「言っとくけど不可抗力だからな」

「えぇっと……?」

説明を求めるように、目線だけ動かして彼を見る。よく見れば彼は手にカップを持っていた。動きを制止したのはそのためか。

四季は一つ息を吐くと、自分が眠っている間のことを順序立てて解説を始めた。要約するとこうだ。四季が買い物から帰ると自分がソファーに座って眠っていた。起きるまで待とうとコーヒーを淹れて隣に座ったところ、自分の身体がどんどんと傾き始めた。四季の肩に寄りかかった後再び体勢が傾いて今の状態になった、ということらしい。

「熟睡だったなぁ?」

「すみませんでした……」

自分でも良く起きなかったものだと思う。恥ずかしさで彼から目線を逸らし顔を赤らめた。一度スイッチが入ると眠りから覚めないのはどうにかしなければと普段から思っている。えも言われぬ気持ちになって思わず口を手で隠す。結局四季が帰ってくるまでに問題の見直しも出来なかったため、反省の意味も込めて。

「もう起き上がってもいい?」

名誉挽回と言えるかどうかはさておき、彼が帰ってきたのなら約束を果たさねばと思い、頭上の彼に問う。先程行動を制止したのは急に起き上がるとカップに頭をぶつけて中身が零れる恐れがあったからだろう。四季はその問いを受けてしばし美都を見つめた後、静かに口を開いた。

「────だめ」

「っ⁉︎」

そう言うと四季は空いていた方の手で美都の横顔に触れた。突然の温もりに美都は驚いて肩を竦める。

「ちょ……四季!」

「学校では触れないんだし」

「そうだけど……!」

「少しだけだから──」

まるで懇願するような言い方に、つい乗せられてしまう。確かに学校では努めて今まで通りだ。それは同級生から茶化されたくないという考えと、出来れば学校では友人と過ごす時間を大切にしたいという想いがあるからだ。四季もそれを分かってくれている。それでももちろん、付き合い出す前よりは普段の会話も増えたものだが。

「夢でも見てたのか?」

「あ、うん。なんか……不思議な夢だった、気がする」

「へぇ。どんな?」

尚も彼の膝に頭を乗せたまま、眠りについていた間のことを問われ思いだしたように答えた。四季は片手に持ったカップを口につけながら、もう一方の手は美都の髪に触れるというなんとも奇妙な体勢を取っている。

どんな夢だったかと訊かれ、美都は微睡んでいた世界のことを振り返った。暗闇の世界に自分一人だけで。辺りには何も見えない。ただ、確か──。

「……声が聞こえた」

「声?」

そうだ。自分一人だと思っていた世界に突然響いた声。そのことを思い出した。柔らかく優しい男性の声。自分の言葉を復唱した四季の疑問に続ける。

「うん。──『気をつけて。良くないものが近付いている』……って。そう言ってた」

美都の言葉に、四季は思わず手を止めた。今度は何かを考えるようにその手を自身の顎へ移動させる。

「そういうこと、良くあるのか?」

「? ううん。初めてだよ」

そう伝えると四季は再び考え込むようにしながら口を閉ざした。ちょうど彼の膝の上が居たたまれなくなってきた頃だったのでそっと頭を動かしたところ、再び彼の手が伸びてきて強引に制止させられる。まだダメか、と美都は目を瞬かせた。

「守護者の力によるもの……か?」

「そうなの?」

「俺は見たことないけど、予知夢みたいなものだろ? 今まで見たことがなかったのなら考えられるのはそれかな」

四季が考察を口にする。頭上でする声に応じるように美都は少しだけ顔を傾けた。この短時間でそこまで考えられるものなのかと感心する。しかし彼が見たことないならば何故自分だけなのかと疑問も増える。それにあの声は何者なのだろうか。先程の彼と同様に無言で考えていたところ、四季が続けて質問を重ねた。

「他には何か言ってた?」

「うーんと……」

────『今の君なら、間違いを正せるはずだ』

確かあの声はそう言っていた。今思えばその言葉は曖昧だ。間違いとは一体何なのか。何故今の自分なのだろうと疑問は多い。頭の中で考えを巡らせる。同じ守護者である四季にはおそらく伝えても問題はないはずだ。しかし不確定な情報は惑わす要因にもなる。それにあの声は、自分に対して言っていたようにも聞こえた。美都はしばらく考えた後、静かに口を開いた。

「あんまり覚えていないや」

「まぁ、夢なんてそんなもんか」

美都の言葉に、四季は疑問を持つことなく返した。これが守護者の力によるところであればまた見ることもあるだろう。もう少し情報がハッキリとしたら彼に伝えようと美都は内心考えた。無駄に心配させるのも良くない。

しかし、と美都はチラリと四季を横目で見た。話している間、彼の手が離れたのは一瞬だった。それ以外の時間はほぼ自分の顔や髪に触れている。彼の言う「少し」とは一体どれくらいなのかと疑問を呈したくなる程だ。触れられることに抵抗はないが良く飽きないものだなと斜め上の感心もする。

そのとき不意に、彼の手が耳の近くに触れた。思わず目を細めて身体を縮める。

「……っ、四季……!」

四季の手つきはいつだって優しい。流れるように自分の肌に触れる。だがそれがたまに。

「く、くすぐったい……」

普段は他人に触れられるようなことが無い箇所だ。だから慣れていない。美都は柔らかく抗議するように、横目で四季を見た。

すると急に彼が目を見開き、ピタッと動きを止めた。その直後素早くカップをテーブルに置く。そして空いた手で彼女の身体をぐいーっと引き起こした。突然の行動に美都は驚いて目を瞬かせたが、ようやく彼の膝の上から解放されてほっと胸を撫でおろす。しかし急にどうしたのだろうか。四季は引き起こした美都の肩をがっしりと掴んだまま項垂れている。

「…………美都」

「? なに?」

四季は少しだけ顔を上げたものの目線は逸らしたままだ。自分の名を呼ぶまでに相当間があったのが気になる。美都は不思議に思って首を傾げた。

「キスしていいか?」

「ぃっ⁉︎」

突然の申し出に思わず変な声が出て顔が紅潮する。なるほど、先程の間は彼自身の葛藤だったのか。今度は美都が葛藤する番だった。言葉にされるとこんなに恥ずかしいものなのかと唇を手の甲で隠し四季から目線を逸らした。逆に彼は先程とは打って変わって自分の回答を待つようにジッと見つめている。この瞳には弱い。

「そ……そういうのは、──訊かれると、逆に恥ずかしい……」

「じゃあ」

そう言うと四季は美都の肩に置いたままだった手を片方離し、彼女の頬に移動させた。その手に応じるように彼女は目を細める。

「次からは……訊かない」

ソファーに片膝をついて美都に近付くと、一度吐息がかかるくらいの距離でそう呟いた。いつもよりも近くで見える彼の流れるような瞳に心音が大きく跳ねる。そして四季はそのまま優しく美都の唇に口付けた。

心音が、聞こえるのではないかと思う。目を瞑り、彼の体温を感じる。火照った身体を冷ますかのように、窓から入り込む風が心地良く感じた。

(あ……)

ふと前回に比べて違うところに気付いた。後で四季に教えよう、と何でもないことに少しだけ嬉しくなる。

大切な人が傍にいてくれることが、こんなにも幸せなことなのか。彼の温もりは自分にとっての安らぎだ。

「────……」

唇を離した後、互いに見合った。初めてのときは顔が近くてとても恥ずかしかったのに、今はこんなにも愛おしく感じる。

すぐに四季が美都を抱き寄せた。耳元で彼の吐息が聞こえる。抱きしめてくれる力が強すぎず、心地良い。美都は彼の胸に顔を埋めながら、クスクスと笑った。

「コーヒーの味がした」

「! 悪い。嫌いだっけ?」

「ううん。ただ無糖って飲んだことないな、と思って」

ほろ苦くて、自分にはまだ早いなと感じる。元々甘い方が好きなので当分は飲む機会は来なさそうだ。そう思い四季を見上げはにかんだ。

彼は美都のその笑顔を見るとグッと喉を絞り少しだけ気恥ずかしそうに顔を赤くした。そしてすぐにまた彼女を抱きしめる。彼の心音が伝わってきた。自分と同じくらいの速さだなと少し安心する。

四季は一つ、大きく息を吐くとやれやれといった口調で語り始めた。

「お前はっ……もっと警戒心を持ってくれ」

「え? なんで?」

いきなり説教じみた小言が聞こえ、美都は抱きしめられながら小首を傾げる。四季に対して警戒心がいるのだろうかと疑問にも思うところだ。すると彼は美都の肩に手を置いて向き合わせると、それこそ幼子に言い聞かせるように説法した。

「無防備すぎるんだよ。ただでさえこんな小さい身体してるってのに……不安になる」

「だから女子の平均だってば!」

「俺からしてみれば十分小さいの」

途中から話の趣旨がずれているような気がしたが、小さいと言われて思わず頬を膨らませた。だが自分の抗議も虚しく、四季ははねのけるように一刀両断した。確かに四季からしてみれば小柄な方に入ってしまうのだろう。事実が悔しくて更にむすっとした表情を浮かべると、彼が宥めるように頭を撫でた。

「……子ども扱いして」

「ったく、そういうところだぞ」

「──?」

「放っとくとつけ込まれそうなところ。危機意識を常に持つこと。わかったか?」

「……はあい」

四季からの説法に渋々と頷いた。子ども扱いされることに異を唱えたいところだが危機意識に関しては確かに薄い方かもしれないと思ったからだ。それに、それだけ彼は自分のことを考えてくれている証拠なのだ。ここで噛み付いても仕方がない。彼の言い方に腑に落ちないこともあるが。

美都の返答を聞くと四季は少しだけ呆れたように息を吐いた後、彼女の頭から手を離しソファーから立ち上がった。その所作を目で追う。

「何か飲むか? 紅茶?」

「んー、麦茶がいいかな」

「りょーかい。それと数学のテストの問4、解き方違うぞ」

「えっ⁉︎」

言いながらキッチンに向かう四季を横目に、指摘されたことを確認するため問題用紙を手に取った。確かにこの問題は最後まで苦しんだ問題だったかと思う。この短時間でそこまでわかってしまうのかとほとほと感心する。問題と睨み合っていると麦茶が入ったコップを手にして戻ってきた四季が解説を始めた。

「これは当てはめる方程式が違う。こっちじゃなくてこれ」

さながら数学の家庭教師だ。しかも彼は数学だけじゃなく満遍なく得意ときているのでこの調子で全教科見直すことになるのだろう。

美都のこの予想は的中した。途中で四季は夕飯の準備のため付きっきりではなくなったもののキッチンから度々解説の声を聞くこととなる。全く彼は本当に切り替えが早い。甘い時間などあってなかったようなものではないかと思いながら、美都はテスト前でもないのに目の前に広がる問題用紙と再び戦うことになったのだった。





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