05 王女だって人間だもん
木々の間から、僅かに見えたオークの姿。
茶色の体毛を体中に生やし、浅黒い色の顔を持つ、二足歩行の生物。
イノシシと人間を足して二で割って、筋肉を増強したかのような存在。
そして、その数、二頭。
警戒しているのか、それとも隙を見計らっているのか、じっと動かずにこちらを見ている。
三人ともその姿を認めて固まっていたが、その中でエリーナが「ぎ……」と声を漏らし……
「ぎゃあああああああぁぁぁぁぁぁぁ! お、オークぅぅぅぅぅぅ!」
「静かにしてください! 大声上げたら襲われます! とにかく逃げてください!」
ユキがそう叫ぶと同時に、来た道を全速力で駆け戻り始めた。
この道のプロフェッショナル(?)が慌てるくらいなので、かなりの緊急事態なのだと気づき、ジュンとエリーナも急いでユキの後に続く。
彼我の実力も分からないのに、戦いに挑んでいくのは馬鹿のすることだ。
ここは残機もコンティニューもない、現実の世界。
一度死んだらそれで終わり、そんな世界で、無駄なリスクを冒すのは愚の骨頂だ。
「追ってきてない? 大丈夫?」
エリーナは不安げに、声を潜めながら、前方を走るジュンとユキに問いかける。
元の世界では王女であり、王様から可愛がられてきたであろうエリーナが、こういう危険な状況に慣れていないのは仕方のないことなのかもしれない。
間違いなく王様は、あえて自分の娘を危ない所へと差し出したりはしないだろうし、その意思を押し通すだけの権力も持っているはずだから。
「わからないです。とりあえず、こっちの草むらに隠れます」
ユキは獣道から外れて、鬱蒼と生い茂る草むらの中に入り込む。
それに従って、ジュンもエリーナも、自らの背丈ほどの高さがある草むらの中に、うつ伏せをするかのように身を隠す。
一旦行動を止め、後ろを振り返ってみると、百メートルくらい後方で、辺りを見渡しているオークが見えた。
100メートルというのは、長いようで短い。
いくら森の中の悪路とはいえ、20秒もあれば人間でも余裕で到達できる距離。
ここのオークがどのくらいの速度で走るのかはわからないが、様子を見る限り、それなりに俊敏に動けそうな仕草をしているので、十分に追いつかれる距離だろう。
何かの拍子に見つかれば、オークの格好の得物となってしまう。
油断などできるはずがない。
誰も何も言葉を発さずに、草むらの影からオークの様子を窺って、三分くらい経過した頃だろうか。
辺りを見渡しても何も見当たらなかったという結論に至ったのか、ようやく二頭のオークは動き始めた。
……ゆっくりと、こちらに向かって。
「もしかして……結構ヤバい?」
ジュンが小声でユキに尋ねると、ユキは緊張した面持ちで、小さく頷いた。
若干、ユキの手が震えているように見えたのは気のせいだろうか。気のせいだと信じたいが……。
ユキは元の世界では冒険者だったのだが、冒険者というのにもいろいろある。
近く草原からの薬草を取ってくる者、商隊の荷物持ち係を担当する者、害獣を駆除する者。とにかく、冒険者ギルドで依頼を受けて活動する者を、全般的に冒険者、と言う。
冒険者だからといって、必ずしも魔物を討伐した経験があるわけではなく、自分の身の丈に合った依頼しか選ばない場合がほとんどだ。少し実力が足りないだけで死に直結するような、そんな仕事だから。
そしてユキは、オークの討伐に参加したことは無い。
だから、ユキが緊張するのも仕方がない。
人間よりも小さい角ウサギや、意外と身体の脆いゴブリンならばともかく、オークほどの大きさ、強さになると、少し魔法が使えるだけの少女が一人で……いや、武器を持っていない素人が三人集まったところで倒せるわけがないのだ。
そういうことが理解できる分、かえって素人の二人よりも恐怖を感じてしまうのかもしれない。
そうこうしているうちに、あと50メートルの位置まで、二頭のオークが来た。
依然としてこちらに気づいた様子は無いが、しかしこちらの方に向かってくるのは変わりない。
ここまで近づいてしまえば、少し動いただけでもオークに勘付かれてしまうだろう。
現に、風に揺れてざわめいた木の枝にオークは注意を払っていた。
今の状況で下手に逃げようとすると、間違いなく気づかれる。
もう、このまま隠れているしか手段は無い。
そのため、草むらの中で息をひそめながら、うまくやり過ごせますように、とただただ祈っていた。
そして、二頭のオークが迫ってくる。
近づくにつれ、だんだんとオークの細部までしっかりと見えるようになっていく。
20メートル、10メートル。
5メートル……。
3メートル…………
1メートル……………………
手を伸ばせば届きそうな距離で、オークのうちの一頭は、ちらりと草むらの方を見る。
そのまま、次の一歩を踏み出して――――
――――横を通り過ぎていった。
隠れていた草むらの横に伸びていた獣道を通り、二頭のオークはゆっくりと去っていった。
獲物を完全に見失ったために、辺りを注意深く見渡しながら。
そのまま、視認できないところまでオークを見送ったのち、ユキがほっとした表情で立ち上がった。
「……よかったです」
そのユキの声で緊張が解けたのか、ジュンとエリーナもゆっくりと立ち上がり、草むらから出てきた。
「助かったんだよな……?」
ジュンがユキに視線を向けると、ユキは小さく頷く。
「……さっきはあんな大声出しちゃって、ごめんなさい」
エリーナは自分の叫び声のせいでオークを呼び寄せてしまった、と浮かない顔をする。
「エリーナさんがそんなに気に病む必要はないですよ。もともと、私たちはオークに気づかれていましたし、追いかけられるのも時間の問題でしたから」
ユキの言葉を聞きながらも、もう一度エリーナは「ごめんなさい」と言い、頭を下げる。
「今度から気をつけてくださいね。それよりも、皆さん無事でよかったです」とユキが言うと、ジュンは「冒険者モードのユキ、かっこよかったな」と茶化す。
「そ、そんなことないですよ! ジュン君だって落ち着いて逃げてたじゃないですか!」
「落ち着いてみんなに指示を出せる方が断然かっこいいと思うけどな」
「あうぅ……」
そんなジュンとユキの会話に、しばらくするとエリーナも入ってくるようになり、次第に話が盛り上がっていった。
安堵の空気が一通り流れた後、ジュンは思い出したかのように口にする。
「ところで、これからどうする?」
「今日はもう暗くなってきていますし、森からは出たほうが良さそうです」
ユキが言う通り、既に陽は傾いており、地面に伸びる影も長くなってきている。
そして、言うまでもなく、夜の森は危険だ。
街灯もなく、ほとんど周りが見えない夜の闇。
夜行性の魔物が跋扈し、不可視の場所から襲い掛かられるという恐怖。
どこに魔物が居るのか分からない上、逃げる方向でさえも見失ってしまう場所では、一流の冒険者でも立ち入ることをためらうという。
「砂浜に戻って、もう一度これからの方針を考え直した方が良いかもな」
森に入ってすぐに出会ったオークでさえ、命に危険を感じるのだ。
さらに、もっと強い魔物が森の中にいる可能性も十分にある。
そして、強い魔物がいるのは森の中だけとも限らない。
思った以上に、サバイバル生活は難しそうだ、などと考えていると。
ぐぅ。
夜が近づき静寂が広がってきた森の中で、誰かのお腹が鳴った。
ジュンは「確かに俺も腹減ったな」と考えながら、何気なしに音のする方を振り向くと、そこには顔を真っ赤にさせたエリーナがいた。
恥ずかしそうに顔を俯けたまま、消えてしまいそうな小さな声で言う。
「……た、食べ物とかも探した方がよさそうね」