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朝霧山遭難事故調査報告書

朝霧山遭難事故調査報告書

作者: 上野羽美

 はじめに


 本ページは昨年発生した朝霧山での遭難事件の調査報告書を元に山岳ライターである私、三枝義昭が独自の調査の下、発覚した事実を追記したものであり、調査委員会が発布した調査書とは別のものであることを念頭において頂きたい。

 さて、本来こういった調査書は山岳ガイドや山岳会、登山者などで共有され、今後の安全な登山に役立てられていくものではあるが、最初に私の結論を述べるのであれば、今回の事故から学ぶべきことは皆無と言っていいということだ。

 もちろん、憂慮すべき点は随所に存在するがそれは他の遭難事故でも学べることであり、今回私がこの件について書いたのはあまりにも不明瞭な点や、生存者が述べる事実と調査結果に異なる点が多すぎるため、この遭難事故を個人的に調査し、出来るだけ本当に起こったことに自身の見解を近づけるためである。

 このページでは出来るだけオカルト的な表現は控えたいのだが、もはやそうとしか言えないような事柄については科学的、物理的思考を放棄せざるを得ないことを了承してほしい。



 事故はなぜ起こったか


 朝霧山は標高2256メートル、朝霧山塊中央にそびえる山で、アクセスに少々難があるが決して少なくはない登山者を有し、また滑落、道迷いなどの遭難事故も毎年起きている。

 事故は2018年7月22日に起きたもので、この日は朝から霧雨が降ってはいたが、午後には回復する見込みであった。

 遭難したのは兵庫から訪れた大学生山岳サークルの男女A、B、C、D、Eと群馬から訪れた高齢者の男女グループa、b、c、d、eであり、彼らはそれぞれ別の登山口から山頂を目指していた。

 彼らが提出した登山計画書によると、19歳〜22歳の大学生グループ(以下、グループ甲とする)は朝霧山西に位置する黒岩谷登山口から出発、そこから上黒岩避難小屋を経由、黒岩山山頂直下のテント場で一泊ののち朝霧山山頂へと向かう予定だった。

 また54歳〜72歳の高齢者グループ(以下、グループ乙とする)は朝霧山の南に位置する白山道バスターミナルから出発、白井沢から間口山を経由、鷹ノ平テント場で一泊し、朝霧山山頂へと向かう予定。

 両グループ共に朝霧・霜山尾根を使用し県道まで下山する予定だった。1泊2日の山行で両ルート共に朝霧山では一般的なルートである。

 遭難にあった二つのグループは全く違うアプローチで山頂を目指していたのだ。


 麓での様子をcはこう語っている。


「予報通り、霧雨が降っていたので全員がレインウェアを着ていました。ただ、時折雲の切れ間から晴れ間が覗いていたので間口山に登る頃には晴れているだろうと全員で話しました」


 天気予報の通り、午前中に霧雨は止み天候は回復した。多少の遅れはあったが15時ごろには鷹ノ平に到着。テントを張り宿泊の準備をする。


 またグループ甲も予定通り黒岩山のピークを踏み、宿泊の準備へと移った。


 しかし、このまま3日間の晴れが続く予定だったはずが深夜になって雨が降りはじめた。雨粒がテントを叩く音を両グループとも耳にしている。

 翌朝23日午前5時、このまま雨が降り続くようだったのなら撤退も頭に入れていた両グループだったが幸い雨は夜のうちに止み、多少の霧が出ていたが登山の続行に至った。


 グループ甲は黒岩山から神在(しんざい)山道を歩き朝霧山山頂を目指した。グループ乙が山頂へのアプローチのため辿った白水沢とは5キロほどの距離があった。

 神在山道を歩き40分、神在避難小屋付近で一行は濃霧に包まれる。晴れ渡った空も厚い雲に隠れ、視界は5メートル先も見えない状況だったという。

 グループ甲のリーダーであるAは撤退判断に迷ったが、道が明瞭なため続行の判断を下した。

 その時、大きな鳥居が濃霧の中に見えたという。

 鳥居の先にも道は続いていたが、だんだんと道が不明瞭になり、樹林帯の中で一時停滞を余儀なくされる。午前8時の出来事だった。


 グループ乙も白水沢を過ぎた辺りで濃霧に襲われる。彼らもまた濃霧の中の鳥居を目にしていた。詳細な場所までは分からないがおそらくこの時点でも両グループの距離は5キロほど離れている。確実に言えるのは同じ鳥居を目にしてはいないということだ。


 グループ甲は霧が晴れるのを待っていたが、一向に霧は晴れず、撤退を決めたところで濃霧の中に複数の人影を見た。人影は前方へと消えていったので後へと続いた。この時EがGPS機能付きの地図アプリで現在地を確認したがうまく表示されておらず、この時点では大きく登山道から外れているわけではないと判断。一行は濃霧の中を行く。

 Eはこの時の様子をこう語る。


「10人くらいだったと思います。着ている服もおぼろげだったんですけど、私たちの目の前を横切りました。たぶんこっちの姿に気付いてなかったんじゃないかと思うんですけど、挨拶とかは一切なかったです。それから数メートル先に浮かんでる彼らの影を追いました。なんていうか……ぼんやりしてたんですよね。形が無いっていうか。リーダーは何回か声をかけたんですけど、誰も応じませんでした。変だなとは思ってたんですけど、彼らが道迷いしないための命綱だったんです。GPSもうまく表示されなかったし」


 グループ乙も濃霧により進行速度が遅くなっているのを理解していたものの先へと進んだ。濃霧はいつか晴れると語り合ったという。また彼らには明瞭な登山道が見えていた。


 午前10時ごろ、グループ甲は先行者を見失ってしまう。その頃には霧が晴れていたが同時に彼らの手や足に大粒の雨がポツポツと降り注いだ。全員でレインウェアを着て、ザックカバーもつけたところで突然雷鳴が山中に鳴り響いた。

 予期せぬ豪雨のためグループ甲はビバーク(緊急時の野営)を決意。だが横殴りの雨と暴風雨に曝されてテント設営が難航した。ここで数人の衣服が横風に煽られた雨に濡れることになる。


 グループ乙は晴れた霧の中にいた。空は曇天で朝のうちの低い気温は昼前までずっと変わらないような気温だったという。

 霧が晴れ周囲が見渡せるようになるとbが言った。「この道に見覚えがない」

 登山歴35年のbは何度もこの山を訪れ、今回計画したルートも何回か通り、一つ一つを詳細に記録していた。「自分たちは道迷いをしている」そう確信したグループ乙は道を戻ることになったが今まで歩いていた明瞭な登山道は忽然と姿を消して、代わりにブナ林だけが彼らを取り囲んでいた。

 また、何度も生存者に確認を取ったのだが、この時の時刻はグループ甲が突然の雨に見舞われた時刻とほぼ同時刻であり、彼らが聞いた雷鳴も耳に入らず、雨もなく、風は比較的穏やかだったという。

 山の天気は変わりやすいというが、たった数キロでここまで顕著に天気が違うわけもない。調査書によるとこの時の朝霧山塊はグループ乙の言う気象にほど近かったとし、グループ甲の発言に不可解な矛盾が生じている。


 グループ甲、乙共に食事は昨夜のうちにほとんど消費し残るのは当日予定していた分の行動食のみであった。


 昼過ぎになっていつのまにか聞こえなくなった雷鳴と弱くなった雨を見てグループ甲は撤退を始める。Aは低体温症の症状が出始める前に下山するつもりだったという。

 しかしわずか15分後には雨は降雨量を増し、再びのビバークとなった。この時、グループ甲は16時までに雨が止まなければ下山は無理だとし、付近でのテント泊も視野に入れていた。

 衣服を濡らした数人が着替えをしようとしたが、ザックの中は水浸しになっていたという。もちろん、雨が降り出した時点でザックカバーをつけて雨水の侵入を全員が防いでいたがまるで故意に水を入れられたかのような有様だった。彼らの頭には遭難の二文字がはっきりと浮かんでいた。


 同時刻、グループ乙は林の中で熊鈴の音を聞き、声をあげたが反応がなかったという。またbが林の向こうで走る子供の影を見たというが、それ以外の人間は目撃に至らず、結局山中を彷徨。cが気付いた時には雨が降っていた。それに対して誰も何も言わなかった。誰一人雨が降っていたことを知らなかったかのようでもあったという。彼らもまた陽が落ちるまでに下山が不可能であると確信。テントを張ったうえで救助要請を視野に入れ始める。


 グループ甲はザックを濡らしており、中にあった防寒着、シュラフ、ガスバーナーといった防寒対策も濡れて使えなくなっていた。徐々に奪われる体温。行動食を少しずつ齧りながら身を寄せ合って寒さに耐えていた。Aはすでに救助要請のために電波の入る場所を探していたが結局電波は届かず仕舞いとなった。


 深夜、EがDに起こされた。「なにか外にいる」雨はすっかり止んだものの突然の発言に恐怖しつつ聞き耳を立てた。テントの周りを何かが歩き回っている。闇雲に外に出るわけにもいかず、ただじっと声を殺して向こうが去るのを待っていた。朝霧山は熊の出没に対する注意喚起もされ5年前には白水沢で親子の熊も目撃されていた。

 翌朝4時半、彼らが目を覚まして表に出るとテントの周りを囲うように足跡があった。しかし熊や鹿といった獣ではなく、そこにあったのは人の足跡だった。何度も何度もテントの周りをぐるぐると回ったと思われる踏み跡が残っていた。Dは半狂乱になった。


「まさか人の足跡だとは思いませんでした。いたずらでこの中の誰かがやったという考えも隅にはありましたけど、状況が状況だけにこんな真似をするとは思いません。あんな深夜に、ましてやテント場でもないところに、人のテントの周りをぐるぐる回るなんてあり得ないと思います。……こういう場面で言っていいのかは分からないんですけど、なんていうかこの時から人じゃないものって存在をひしひしと感じ始めました」


 グループ乙も深夜にお経のような低い声を聞き、一時パニックになるような人も出かけたがbが「動物の唸り声が人の声に聞こえることもある」となだめた。特に今のように不安に駆られている時なら尚更だと言われると誰もその声を気にしなくなった。

 グループ乙もまた衣服を濡らしていたがザックの中に着替えがある人は着替え、また不足していた人にもタオルで体を拭かせ低体温症を防ごうとしたと見られる。


 グループ甲は低体温症が顕れるのも時間の問題だとし、24日朝5時半ごろ下山のために出発する。相変わらずの濃霧だったが昨日よりも薄かったため、早々に歩き始めた。この時から数時間、隊列が乱れ始め、お互いがお互いを確認し合うこともなくなっていく。


 グループ乙は7時ごろに下山を開始、しかし体力不足や低体温症によりグループの間で遅れが出始め、遅れた人を待ったり、手助けをしていたことから1キロの距離を歩くのに1時間半を要した。また雨足も強くなり始めたという。

 また遅れていたeの手助けをしたcはeが不明瞭なうわ言を呟いていることに気がついた。


「グループの中でも最高齢の方で、顔色が悪くなっているのも分かりました。『大丈夫?』と声をかけると日本語かも分からないような事を延々とぼそぼそ言っていました」


 それから30分後、ついにはeは大きな奇声を発して岩場に寄りかかると動かなくなってしまった。目は大きく開き、意識もあったようだが呼びかけに応えることはなかった。グループ乙の停滞が始まる。


 午前10時過ぎ、道を歩けど鳥居が見当たらず歩行速度も遅くなっていったグループ甲は、霧の中に行き倒れた登山者を見つけた。駆け寄って助けようとしたがその遺体は何者かによって体をズタズタに引き裂かれていた。激しい疲労の中、凄惨な遺体を見たグループ甲はパニック状態に陥った。Dは一目散にその場から駆け出し、その後を追ったCは転倒して霧の中に消えた。残されたメンバーがCの消えた先に目をやった。傾斜の激しい尾根の向こうで何かが転がる音がした。Cはここで滑落した。

 Aはポケットから再び携帯を取り出して何かを打ち込んでいた。Eがその時の様子を語った。


「リーダーは……しきりに頭を上下に動かして何かを呟きながらひたすら文字を打ち込んでいました。てっきり再び救助要請をしてるものだと思ったんです。でもまるで彼の目じゃないような……何か別の人の目が埋め込まれたような感じでした。その時からリーダーの様子がおかしくなっていきました」


 後日捜索隊が見つけたAの携帯に打ち込まれたメモが公開された。以下、原文のまま記載する。


『出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ』


 グループ乙ではeの死を看取っていた。次第に脈が弱くなっていくeに出来ることは皆無だった。

 死因は低体温症であった。


 ここで一度低体温症について述べておく。

 低体温症は普段山に出かけない人には馴染みの薄い言葉ではあるが、登山をする人間は最低限知っておかなければならないことのうちの一つである。

 体温が奪われると人の動きは鈍くなり、ろれつが回らなくなり、手足の麻痺、幻覚症状といった様々な状態異常を引き起こす。最悪の場合は死に至るケースも少なくない。

体表面が濡れ、そこに風が吹き付けるなどすると人の体温は一気に奪われる。また標高や天気季節にかかわりなく、低体温症には常に気を配らなければならない。何故なら人のかく汗すらも原因の一つになるからだ。多くの遭難事故で亡くなった人はこの低体温症が原因の場合が多い。


 eが息を引き取り、その場から動くことができなかったグループ乙だが、登山歴の長いbが活路を開くために行動に出た。

 それは霧の山中を出来るだけ歩き、登山者や他のルートを見つけるという端から見たら荒唐無稽なものであったが、考慮する余裕もなく、bに全てを託した。bは「有力な情報が見つかるか、これ以上は無駄と判断した時点で大きな声をあげるから返事をしてくれ」と彼らに告げた。濃霧の中で出来る最大限の道迷い対策であり、もはや個人的な遭難とも言えた。

 15分後「おーい」と濃霧の中からbの声がした。グループ乙の体力のある者は「おーい」と叫んでbに道を示した。

 だがすぐにcは叫ぶのを止めるように強く言った。cがその時の様子を語ってくれた。


「bさんの声は確かに聞こえました。でもその時bさん以外の声があちらこちらから聞こえてきたんです。bさんの声に被せるように「おーい!!」って具合に。とても大きな声……女性や男性……子供の声も聞こえました。あんな状況でそんな声するわけないんです」


 半狂乱になって叫ぶのを止めるように指示するcを無視して彼らは叫び続けたが、bの声はだんだんと遠くなっていった。この時を境にグループ乙の周りにもグループ甲に起きたような不可解な現象が続発する。


 グループ甲は結局A、B、Eの三人で停滞を余儀なくされる。相変わらずの濃霧の中でAは何かをぶつぶつ呟いていた。


 日が暮れた頃、彼らから連絡が来ないことを心配したD、Eの家族から警察への通報が入った。捜索隊が朝霧山に着いたのは25日の午前9時半過ぎだった。またグループ乙の家族も24日夜10時ごろ警察へ通報していた。これで朝霧山にて二つのグループの遭難が明らかとなった。


 24日夜。虫の声すら届かないテントの中、ランタン代わりのヘッドライトの下、いよいよ少なくなった食糧が底をついた。

 絶望的な状況であったが逼迫するような雰囲気はなく、ただじっと朝を待っていた。ふとAがザックと共にテントの外へと歩き出した。様子がおかしかったAを放っておくわけにもいかずBはEを残してAの後を追った。Eは生乾きのタオルで身体を拭くと疲れからか気絶するように眠りについた。

 2時間後に目を覚ますと目の前にAが座っていた。顔に生気はなかったが目はまるで獣のようにぎらついていた。彼はあぐらをかいたその上にコッヘル(いわゆる鍋のこと。登山やキャンプにおける調理器具。クッカーとも呼ぶ)を置き、Eの顔を覗き込んでいた。

「先輩はどうしたんですか?」

 Eが問うとAはしばらく間を置いてこういった。

「そうきちはな、もうだめだったよ」

 Eは最初何を言っているのか分からなかった。というのも「そうきち」とはおそらく人名のことではあるが、Bはそのような名前でなかったからだ。

 Aはコッヘルを大事そうに抱えていた。コッヘルからはカサカサと音が聞こえていた。おもむろに蓋を開けると泥に汚れた指で中からミミズをつまみ口の中に入れた。

 唖然とするEに構わず、Aは活発に動く甲虫を掴み取り生きたまま口の中に入れ咀嚼する。

「先輩……!!何食べてるんですか!!ダメですよ!!そんなの!!」

 近づきその手を止めようとしたが、コッヘルの中に入った数十匹の虫に驚き、手が止まってしまう。Aは中から這い出したゲジを掴み取り、引き裂くとまた口の中に入れた。

「……お前な。もうでてけ」

 無表情かつ抑揚のない声でAは言った。

「……先輩?」

「出ていけ。こっから」

 時刻は光届かぬ濃霧の夜。場所は遭難している朝霧山と思われる山中のどこか。EはAが冗談で言ったのかと思ったが、Aは突如として鬼のような形相になり、甲虫の脚で口の中を切ったのか、血液を飛ばしながら叫んだ。

「出ていけ!!!」

 何が何だか分からないままEはテントを飛び出した。暗闇を歩く恐怖より、気の狂ったAと一夜を共にする恐怖が上回った。

 BはAに殺されたに違いないとEは確信した。グループ甲はここでとうとうバラバラになった。


 グループ乙もまたeの遺体と共に夜を山中で過ごした。下山する体力もないが、登山者が横切る気配もないこの場所で停滞するのも限界だった。

 また低体温症によりdも呼びかけに応えることが少なくなっていった。残された自分達も同じ運命を辿るのだと誰もがそう思っていた。

 深夜、cはふと目を覚ますと声を聞いた。「おおーい。開けて。開けてくださいよ」声に気づいたcだったが身も凍るような思いだったという。

「おおーい。聞こえてるでしょう。開けて。開けてくださいよ」

 声はテントの正面から聞こえてきた。だが声の主が問題だった。明らかに亡くなったeの声だったからだ。

「おおーい。開けてくださいよ。いるんでしょう。開けてくださいよ」

 まだ息があった?そんなはずはない。全員で彼女の死を確認したのだから。だとすれば目の前にいるものは何だ?

 テントは暗闇の中で揺らされる。正面のシートが歪み、徐々に崩れていく。たわむシート越しにはくっきりとeの顔型が浮かび上がり、cに向かって声を上げ続ける。

「おおうい。開けてくださいよ。聞こえてるんでしょうcさん。開けて。開けてくださいよ」


 翌朝いつのまにか眠っていたcは昨晩の事を思い出した。夢だったのか。そう安堵しながらテントを開けるとcの悲鳴が山中にこだました。

テント脇に寝かされていたeの遺体は、夢で見た時と同じようにテントの正面に移動していた。

思い返せば夢でなかったのかもしれないとcは語った。


 調査書によると捜索隊が朝霧山に着いた1時間半後の11時に登山道から少し離れた場所で憔悴しきったEが発見されたという。Eは捜索隊の呼びかけに答えることはなく、近づくと「来ないで!!」と半狂乱になりながら四つん這いで逃げ出した。救助隊に取り押さえられた彼女は絶叫し、そのまま気を失った。


 ここからEについては調査書に記載されてはいないが、私が独自に話を聞くとEは大きく違う点があると話した。それはEがAのいるテントから離れた後、覚えている限りは2、3回ほど山中で夜を明かしたということだった。つまり彼女の言い分では自分は25日に救助されたのではなく、それから少なくとも2、3日経った27〜28日に救助されたはずという事だ。

 これについては捜索隊の方にはもちろん記録が残っているのでこちらが正しいと言い切れるのだが、闇雲に否定できるかといえばそうではなかった。彼女がそんな嘘をつくような理由が思い当たらないのである。また彼女の話した内容は実に詳細であり、単なる幻覚とも私には思えないでいた。以下、詳細を記す。


 25日早朝、疲労でいつ寝てしまったかも分からないEは目を覚ました。彼女は苔むした岩場に背を預けて寝ていたらしく、下半身は水たまりに浸かっていた。指先の感覚は無かったが、歩くことに支障はなかったので無我夢中で進み始めた。


 午前中のことだった。沢の音が聞こえたので沢伝いに下山しようとその場所へ降りていく。相変わらずの霧の中だったが沢は浅く、何度か転倒しながらも先へと進んだ。霧の中で上方に人影が見えたのでそちらへと向かう。人影は以前に見たぼんやりとした黒い影ではなく、明瞭な色彩と形を持っていた。しかし既視感があった。

 それも当然のことだった。

大きな岩から垂れた太い木の根や細い枝に絡まって、まるで首吊りのように宙に足を投げ出していたのは昨晩Aを追って外に出たBの遺体だった。

 声を上げることすらできなかった彼女の前にいつのまにかBの下に群がったぼんやりとしたいくつもの影が現れていた。まるで野次馬のようにBの遺体を見上げていたという。Eは命の危険を感じて沢から続いていた急勾配の獣道を慌てて駆けずり上がった。


 彼女は霧の中を沢に沿って彷徨する。時折あのぼんやりとした影が遠くに霞んで見えた。彼女は本来なら待ち望むはずの人影から逃げ回っていた。


 もはや死を覚悟していた。それどころかまだ死なないのかとも思った。低体温症のことは知っている。自分の衣服は濡れ、7月といえどグッと下がった気温の中で徘徊を続けている。体感温度は2度近くだった。考えられる限り、最悪な状況だ。なのに死なない。体は動き続ける。冷めない悪夢を見ているかのように自分の意思とは無関係に動き続ける。


「絶望っていうか、諦観っていうか……分からないんですけど、生きていたくなかったんですよね。でも生存本能があったのかもしれません。それが私を生かしてくれた。あの時はそれが本当に嫌でした」


 偶然見つけた岩陰に入り、体を休めた。首をムカデが這ったが気に留める気力もなかった。その日はすぐに眠りについたという。

 一夜明けて岩陰から這い出して再び濃霧の中を行く。せめて道さえ見つかれば。彼女の頭は人との出会いを拒否していた。

 しばらく歩くと急に気分が悪くなり、その場にひざまづくと急に吐き気を覚えたのでそのまま吐き出した。

 吐瀉物には自分が食べた記憶のないミミズや大きな芋虫が混じっていた。


 沢伝いに伸びる獣道を歩くと、折れたばかりと思しき太い木の枝が目に入った。注視することもなく近づき、それを蹴飛ばした。やけに重みを感じたので下を向くと、それは木の枝ではなく細く長い肩から綺麗に切り取られた腕だった。


「……間違いないです。確証はありませんが、あの腕はDさんの腕です」


 バラバラになったDのものと思しき手や足が自分の行く先に置いてあった。

 これ以上進めば自分も同じ目に遭うとその獣道から逃げ出した。


 そこから先は記憶がぶつ切りだと言う。我に帰るとすっかり夜になっていて、手は妙な質感と湿り気を帯びていた。自分の手には野ネズミの死体が握られていて、口の中には鉄の味と固い体毛の感触があった。無理矢理えずいてそれを吐き出して岩盤から流れる水で口を洗った。


 また右足に痛みを覚え、ふとそれを触ると、自分のズボンごと足が大きく裂けていたという。激しい痛みの中の細かい痛みの出所には蛆虫が湧いていた。流す涙も枯れ果てたまま力つきるようにその日もまた穴蔵のような岩場で眠りについた。

 明け方には目を覚ましてしばらくその場にうずくまっていた。とても歩ける足ではなかった。

 その時、やけに鮮明な足音が聞こえた。人の気配に声を殺していたEだったが目の前を横切ったのはグループ乙のa、c、dだったとのちに判明した。だがその時の彼女は自分を殺すかもしれない影に怯えてその場から石のように離れることなく彼らが遠くに消えるのを待った。


 この空白の時間の後、彼女は捜索隊に発見される。最初の発見者となった彼女がいた場所は一般ルートからわずか300メートル離れた場所だった。

 通常、グループ乙と合流出来ていればという考えに至るのであろうが、今回ばかりは彼女がグループ乙から隠れたのが彼女にとっての救いとなった。


 グループ乙はこの後も彷徨を続けた。Eが彼らについていったのなら、彼女の命はなかったのかもしれない。


 グループ乙は1時間で500メートル進むペースで力のなくなりつつあるdをかばいながら進んだ。

 せめてこの細かい水の粒子から体を守れればいい。その祈りが届いてか、グループ乙は山中で久しぶりの人工物を目撃した。


 それは避難小屋のようなものだった。山間の町や村で見かけるドアも窓も半壊したような人から棄てられた小さな廃屋。実際aがドアを開けようとするとそのまま外れてしまった。

 中は湿気と埃臭かったが雨風から身を守る屋根と壁があることがこの上ない救いになる。薄暗い中に入り、体力の温存に努める。aとcはコッヘルに水を溜め、囲炉裏に木の枝を放り込み火をつけようとした。バーナーで火をつけるためのガス缶はいつのまにかどこかで落としていた。

 だが湿気を含んだ木に火がつくことはなかった。せめてもと水をdの口へ無理矢理流し込んだが口元から溢れるだけだった。dはこの時点で死亡していたと見られる。

 辺りが暗くなり、小屋の中も真っ暗になった。隙間風が人の声にさえ聞こえた。

「私たち、もう、ダメですかね」

 cが呟くとaは彼女の肩を掴んだ。

「そんなこと言うたらアカン。あんた家族はおるんか?子供や孫の顔はもう忘れたんか?帰るんや。あんたは帰れるんや。なんのためにここまで生きてきたんや。二度と言うたらアカン。持ってかれてまうで」

 彼女はaの叱咤激励を一言一句覚えているという。


「あの言葉が無ければ自分を見失ってしまってたんでしょうね。もうaさんも諦めてしまったのだと思ってたんです」


 夜が更けてそんな二人に兆しが差した。cの携帯に着信が入ったのである。急いで電話を取り、番号も確認しないまま応答した。


「今から、そっちに行く」


 聞いたこともない低い男の声。どういうことか分からなかった。ただcは直感した。

 助けに来るわけじゃない。

 次の瞬間には小さくぼろぼろの小屋が振動した。

 誰かが小屋の戸を激しく叩いていた。無言でひたすら叩かれる戸。aが壊した後なので扉は立て直したが簡単に外れてしまうだろう。

「あれは助けに来たわけじゃないです!!」

 cがaに言うと、aもその意味を理解しているようだった。

 いずれ開かれる戸に怯え動けなくなったcだったがaは小さな小屋に体当たりして腐った木の壁を破壊した。

「開いた!!出口出来たで!!はよせえ!!」

 aが闇夜に向けて走り出す。cもそれに続こうと四つん這いで逃げ出した。その時だった。

何者かがcの足を強く掴んでいた。


 cはその時に出来た痣だと私に足首を見せてくれたのだが、事件から数ヶ月以上たった今でも火傷のように茶褐色で指の跡が残っていた。


 悲鳴をあげて振りほどこうとするcだったがやけに生々しい感触を覚えたので足元を見ると、またも亡くなったはずのdが握りつぶすように、足首を強く掴んでいた。

 強引に振りほどき、aの下に続こうとしたcだったが小屋の出口を見て絶句する。

 小屋の裏はちょうど切れ落ちた崖であり、飛び出せば命はなかった。aはこの崖の下に滑落したのである。


「dさんは……助けてくれたんですかね。私には分かりません。未だにあの一連の事故は悪夢のように思えますが……それでもこの記憶に鮮明に残ってるんですよね」


 気づけば小屋を激しく叩く音も無くなり、dもまたそれから動くことはなかった。翌朝小屋を出ると霧がすっかり晴れ渡っていたという。

 これは後日談になるのだが、cのもとにかかってきた電話番号はグループ甲のDのものであることが調べで分かった。


 25日16時、二人目の生存者であるcが地元山岳会により発見された。


 まだこの遭難事故は続くのだがここで結果を述べる。

 遭難者10人の内、3人が生存、1人が死亡を確認、残りの6人はこれを書いている現在も行方不明の扱いとなっている。


 生存者のうち残る一人は誰なのか。調査書やニュースを見ていれば分かる話なのでもったいぶることもないだろう。


 グループ甲のCはDを追って滑落したのだが、運良く一命を取り留めた。この言い方は大げさかもしれないが、彼は左大腿部を大きく切るなどして、自ら応急処置をしてもしばらく動けずに、結局夜になってしまったことを考えると妥当かもしれない。

 彼は暗くなり始めてからテントに戻ろうとしたがほとんど垂直に近い急勾配を登れる状況ではなかった。また、無事を伝えようと「おーい」と叫んだが誰も答えることはなかった。グループ甲全員の名前を呼んでも誰も返答しなかった。

 こういう場合は自ら動くことはさらなる道迷いになりかねないと、近くに岩陰を探してうずくまっていた。時折、元の場所に戻っては彼らの名を呼んだ。自分の声はまるで届いていないようだった。

 極度のパニック状態だっただけに全員どこかへ行ってしまったのだろう。数十回大きな声で叫んでも返答がないのでそんな考えもよぎっていた。


「自分の命を守ることが最善だって思うようになって、それからどこかに上がれるような道を自分で探しました」


 一夜明けてから元の道に戻れるように彷徨。時には崖登りのようなこともやっていたという。

 そうして登るだけ登ったのだが、相変わらずの濃霧にどれだけあがったのかも分からなかった。

 休憩と彷徨を交互に行いながらも「自分はここで野垂れ死ぬのだ」と強く感じていた。


 また夜を迎えようとする山中で初めて人に出会った。声をかけると向こうは信じられないものでも見たかのような顔をしていた。道を訪ねようとしたCだが、彼も同じ境遇だと知るのに言葉もいらなかった。案の定、彼も遭難して仲間からも逸れたという。

 Cの見た特徴からしてグループ乙のbだと同じ生存者のcが言った。ここで初めてグループ甲乙同じ遭難者同士が出会う。


 二人は互いの経験を話し合うなどしながら今夜の寝ぐらを探し始める。

 と、bは大きな声をあげて前方を指差して言った。

「灯りだ!!灯りがあるぞ!!」

 Cにもここから僅か数百メートル先にポツポツと灯る灯りが見えた。小さな集落のように見え、足元は不明瞭だったが慎重に、かつ足早に山道を駆け下りた。

 整備されたような坂道が見え二人は安堵する。

 そこに辿り着くとbはさらに足早に駆け出す。足を怪我していたCはbの背中を見ながらゆっくりと先へ進んだ。どうせすぐに着くのだ。何も無理して駆けることもない。これがCの身を救った。

 いつのまにか坂道にあの時濃霧の中に見えたぼんやりとした人影が一定の間隔を持って列をなしていたのに気づく。暗闇で見えにくいからそう映るのだろうとCは特に恐怖を感じなかった。

「bさん!あまり走らないで!」

 どんどん先へ行くbに声をかけると自分の前を歩いていた人影が一斉に振り返った。


「影なんですよ。人の影……なんですよねぼんやりしてて。でもはっきり見えたんです。影の顔のところに大きな目があったんです。こんな、大きい……(Cは卵大くらいのわっかを作った)それ以外の鼻とか口とかは全然見えない。それがたぶん15人くらいいたかな」


 その時Cはこの先に行ってはいけないと悟った。bにもそう言おうとしたのだが声が出ず、急いで振り返り山道へと戻った。それからの彷徨についてはよく覚えていないという。


 26日午前9時、三人目の生存者であるCは白水沢付近で倒れていたところを捜索隊に発見された。


 また死亡が確認され遺体が収容されたbは同年9月8日にバリエーションルート(通常の登山道ではない道)で朝霧山から18キロほど離れた朝霧山塊大串山の登山に来ていた登山者が涸れ沢にて発見した。そのほかの遭難者やグループ甲が見つけた引き裂かれたような身元不明の遺体も今も見つかっていない。



 取材を終えて


 以上の話を調査書では「低体温症による幻覚症状」と片付けるほかなかった。ただそれでは無理がある証言もいくつかある。現に遺体が唯一見つかったbは確かにグループ乙と途中まで共に行動し、そこから18キロも離れた場所で見つかったのだ。朝霧山から大串山まで縦走(山から山へと登山道を繋いで歩く登山スタイル)は可能だがしっかりと装備を整えた上で3泊4日が一般的である。

 極限状態の中、しかも道迷い中に18キロ進むのは不可能である。

 最初にオカルト的な発言は控えるとは言ったもののここまで筆を進めると結果そのものがオカルトじみたものになるが了承してほしい。


 彼らは本当は朝霧山に登ってはいなかった。これが私の出した結論である。とはいいつつも朝霧山と他の山を間違えていたということではない。彼らが濃霧の中に佇んでいた鳥居の先に入った結果、朝霧山とはまた違った空間へと行ってしまった……自分でも話が飛躍しすぎているとは思うのだがそう考える以外にはない。

 その空間は物理的なものが全て歪んでいる。Eが体験した空白の時間、山頂までのアプローチの仕方が全く違うにもかかわらず出会ったグループ甲とグループ乙。彼らの話からすると遭難した距離から大して進んでいないようにも思える。少なくとも5キロの距離を埋め合わせるほど歩いてはいないはずだ。


 また朝霧山については様々な文献を漁った。主に朝霧山の古くからの信仰や付近の農村についてだ。私には鳥居の存在や、Cが見た集落の話が引っかかっていた。

 だが信仰については麓の朝霧神社についてのみで、集落に至っては全く資料がなかった。


 彼らはいったい何処で遭難していたのだろうか。


 しかし興味深い資料はネットに上げられた山行録で数件見つけることができた。

 それは深い霧の写真である。

 この写真を撮った登山者はいずれも「この中に鳥居のようなものが見えたのだが、写真にうまく写らなかった」とコメントを添えている。彼らとコンタクトを取り取材するといずれも鳥居を取った場所はバラバラでグループ甲、グループ乙が見た場所とも違っていた。



 おわりに


 この調査報告書は意味を成さないどころか興味本位で朝霧山に向かう人間を増やすことに繋がることになるような気がしてならない。

 いや、きっとそうなのだろう。

 しかし私個人ではそれを止めることができない。

 なぜなら朝霧山は通年登山道が解放されている普通の山だからである。難所もなく、また景色がいいため百名山ほどではないが客足も多い。

 ただ朝霧山に向かう人はこれだけは守ってほしい。

 それは濃霧の先に見えた鳥居の中には絶対に入るなということだ。

 私はこの遭難事故が起こる前から何度か朝霧山を登ったことがあり、また取材を始めてからは月に2、3回のペースで朝霧山を登り、時には山岳会の協力を得てバリエーションルートでも登ることがある。

 その私が言うのだからこれだけは信じてほしい。

 麓の朝霧神社以外にこの山に鳥居は存在しない。

 また山行録に濃霧の写真をあげ、鳥居を撮ったと言った彼らは、山行計画通りのルートから逸れることはなかったために何事もなく帰って来れたのだ。

 繰り返しになるが、鳥居を見つけたとしてもそれは本来そこに存在しないはずだ。その先に行けば自分も存在しないものになる。


 今年も2月と5月に朝霧山で行方不明者が現れ今も捜索が難航しているという。彼らもまたあの鳥居の中へ足を踏み入れてしまったのだろう。


 山は人の世界ではないと常々思ってきたことだが、今回の件を取材してよりその意味が鮮明になった。

人の世では理解の及ばぬことが山という聖域では起こることがあるかもしれない。

 自然を愛し、慈しみながらも畏れることを忘れてはならない。

 最後に今回救助された彼らの言葉でこのページを締めようと思う。


 c「まずは命があって良かったと思います。もう山には登らないことにします。亡くなった人の事もあの場所で起こった出来事もきっと忘れることなどできないでしょうから」


 C「大切な仲間が消えてしまったことは一生背負い続けなければならないと感じます。あとはもう……言葉になりません」


 E「悪夢でした。悪夢ならば良かったかも知れません。今もつらいリハビリが続いてますが徐々に回復しています。これが終わり次第、私はまた朝霧山に登ろうと思っています。先輩たちがあそこで亡くなってしまったからという理由もありますけど……なんていうかそれでも山が好きなんです。あの日登れなかった山頂に登ることが今の目標です」


めっちゃながくなっちゃった。でもこれは短編でやりたい。ごめんなさい。

最近は登山が趣味です。これを読んだら山登ろうね。

またふっつーの山行録「なんで山なんか登ってんですかね」もなろうで公開中だよ。山登る前に読んでね。


いわずもがなだけどこんな山ないです。同名の山があったけど関係ないから登りに行きなね。でわ。

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