天使の囁き
天使の囁き
プロローグ
二000年 冬―ケンとジョウ
僕と弟のケンは二000年十二月二十四日のクリスマス・イブに産声を上げた。この日、お母さんは幸せの絶頂と不幸のどん底を両方一度に味わったことになる。というのも、弟のケンは生まれてすぐに亡くなったからだ。お母さんの話では、弟がお母さんのおなかから出てくる時へその緒が首に絡まってお産が大変だったと。僕たちの運命はお母さんの双肩にかかっていた。
悲哀に満ちた表情を浮かべながら、両親はこの話をしてくれた。だから僕はこの日以降、お父さんにもお母さんにも積極的にケンという、この世に生を受けたがすぐに亡くなってしまった不思議な存在の弟のことを、この家の話題にすることはなかった。またそうすることによって両親を酷く悲しませると思っていたからだ。僕はまだほんの五歳だった。
正直に言うと、僕にはずっと兄弟がいないと思って生きてきたからあまり実感が湧かなかったし、どう扱ってよいのか分らなかった。あまりにも非現実的な話すぎて悲しいという感情は湧いては来なかった。
それは無意識に抑圧されて地中深く眠っているようだった。それをわざわざ掘り起こすつもりはないが、時々ちらちら顔を出した。でも、僕は意識的にせよ無意識にせよそれをシャベルで穴を掘ってまた地中深くに投げ込み返し、土をかぶせて追いやることにした。
また僕にとってクリスマス・イブは特別な意味を持たない。よく周りからは「クリスマス・イブに生れたなんて素敵だね」「ミレニアム生まれで、しかもイブなんてロマンチックね」とか言われるけれど、僕にとっては大迷惑だ。クリスマスも誕生日も一緒にされ、いつもプレゼントは一つしかもらえない。おまけに学校は冬休みの休暇に入っているから友達から「誕生日おめでとう」と声をかけてもらったことがない。空想的でメルヘンチックな甘い日とは程遠い。
大概クリスマスにはケンタッキー・フライドチキンと苺がたくさんのった生クリームのケーキが食卓に上がる。いつからクリスマスにケンタッキーのチキンを食べる習慣が始まったのだろうか? 僕はキリスト教系の学校に通っているけれどクリスチャンではない。しかし、皆がしているように例外なく僕の家でもクリスマスにはチキンとケーキを食べて、お正月にはおせちとお雑煮を食べる。形骸化に他ならない。
僕は心の中にある矛盾にいつも苛まされながら、自己のアイデンティティーを一生懸命模索して生きていた。なぜ、僕は生まれてきたのだろうか。なぜ、ケンという弟は死んでしまったのだろうか。そして、物事の本質や事実とは異なるアンビバレントな感情をいつも胸に秘めていた。
-------------------------------------------------------------------------------
第一章
二0一四年 夏―セント・ミシェル大聖堂
ある夏の日暮れのことだった。僕の通っている学校の校舎正面玄関に高く壁掛けられている大きな時計の針は、午後四時を指していた。校舎は築百年と歴史を感じさせる存在感を示し、ところどころひび割れや苔がむして、蔓が四方八方に伸び、大きく腕や足を広げたように壁を伝っていた。僕の学校は港の見える小高い丘の上に建っている歴史あるキリスト教系の学校だった。創立は一九一0年、男女共学で小中高校の一貫校だった。週に二三度は聖書の授業があり、キリスト教についての教えや聖書の朗読、また学校付属の教会では毎年クリスマスのミサなどが行われた。
ギラギラした夏の日差しが僕の体をじりじりと焼き、きちんと折り目正しくプレスされた真っ白なワイシャツは汗でぐっしょりしていた。その白い半そでのシャツから出ている僕の両腕は、真っ白なワイシャツとは対照的に茶色く日焼けしていて若々しく健康的だった。太陽はまだ高く、空には大きな入道雲が広がり、ミンミンと蝉の声があたりに鳴り響き、それは僕を神経質に苛立たせた。
その日、僕はいつものように「じゃあまた明日な」と言って友人と校門で別れ、学校を後にした。学校指定の白い半そでのワイシャツ、黒い長ズボンと鞄、足元は白いコンバースのスニーカーだった。
帰宅途中、ぼんやりと一人静かに物思いにふけりながら坂道を歩いていた。眼下には青々とした海が広がり、何漕もの外国の貨物船が湾内を航海していた。また大きな汽船がボーという大きな音を立てながら僕の目の前を通過して行った。空にはカモメが飛び交い、羽をバタバタさせながら甲高い声を上げてキイキイ鳴いていた。
僕は坂を下り、横断歩道で信号が青に変わるのを待っていた。鞄のチャックを開け、携帯音楽プレーヤーを取り出して左右の耳にイヤホンをぐりぐりはめ込んだ。僕のアイポッドには五百曲ほどロックやポップなどの音楽がダウンロードされていて、手元でクルクル画面を操作しながらお気に入りの曲を聴こうと思って夢中になっていた。僕は学校の登下校の際にいつも音楽を聴いていて、その日もいつものように手元ばかりに気を取られ、いじくりまわしていた。
気が付くと信号はすでに青から黄色に変わっていた。急いで横断歩道を渡ろうとした。すると突然、誰かが背後から「ジョウ!」と叫んできた。僕はビクッと両肩を揺らし、我に返って振り向いた。
その瞬間……。何もかも目に映る映像が、スローモーションのようにカチカチと音を立てながらコマを変え、目の中に飛び込んできた。僕は一瞬何が起こったのか全く把握出来なかった。
僕は体が妙に軽くてふわふわして、まるで存在感を失くしたもう一人の自分に生まれ変わったように感じた。それは奇妙な体験だった。両手で頬を叩いてみたり、激しく地面を踏み鳴らしてみたりして、自分が実体のある自分であることを確認しようとした。そして、一通りその行為を終えると安心感がじわじわと体を包み込んだ。それから「ふう」と溜息をついて安堵の表情を浮かべ地面に座り込んだ。
しばらく呆然自失としていたが、やがて自分の背後にまっすぐに伸びた線路が延々と遥か彼方まで続いていることに気がついた。まるで映画のワンシーンのようだと思った。道端に座り込んだままぼーっと空を仰いでいたが、次の瞬間、急に何かを思い出したように立ち上がり、僕はその線路を辿ってどんどん歩き出した。
線路に沿ってしばらく歩いて行くと、やがて丘陵地帯が見えてきた。緑の草木が豊かに茂って青々とし、優しく穏やかな丘には家々が点在していた。村には石造りの家やレンガの家があって綺麗な花々が咲き誇り、軒先にはハンギング・バスケットが吊るされていた。まるで春の訪れを感じさせるような佇まいを見せていた。
「不思議だなあ」と思いながらもさらに歩を進めた。
一時間ほど線路伝いに歩いて行くと、疲労感に襲われ、足は重く、棒のようになっていた。
「もうこれ以上歩けない!」と弱音を吐きそうになっていると、前方に、大きくそびえ立つ立派な大聖堂の塔が見え、尖塔が大空に向かって長く伸びている。
「もうすぐ町に到着するぞ!」と思って気力を振り絞りさらに歩いていくと、今まで遠くに見えていた大聖堂がすぐ目の前に飛び込んできた。その大聖堂の鐘はカラン・カランと綺麗な音を町中に鳴り響かせていた。
大聖堂は大きな広場の中央にそびえ立ち、塔の高さは五十メートルにも及んでいた。大聖堂には三つの扉口があって綺麗な装飾が施されており、中央の扉口の上方には直径十メートルほどある大きなステンドグラスに覆われたバラ窓が見えた。
僕は恐る恐る教会の中に入っていった。すると、大きなステンドグラスが所々壁を覆い、眩しい太陽の光を反射してきらきら輝きとても綺麗だった。教会には誰もいないみたいで水を打ったような静寂が漂い、少し緊張感が走った。
東西に長い身廊を歩いて行くと聖歌隊席が見え、その先には聖域があった。聖域は教会内で一番神聖な場所で礼拝や儀式が執り行われる。天上は高さ三十メートルもあってモザイクで装飾されていた。
主祭壇はさまざまな彫刻の群像で囲まれていて、中央には十字架とキリストを胸に抱く聖母マリア、右には大天使ミカエル、左には聖徒ペトロがあった。
僕は顔を上げてその像をじっと見つめていた。すると突然
「こんにちは」
という声が耳元で聞こえた。僕はびっくりして辺りをきょろきょろ見回したが誰もいない。
「あなたは誰なの? どこにいるの?」
と問いかけたがしばらく返事がなかった。
「やっぱり勘違いだったんだ……」と思って教会から外へ出ようと思っていると
「待って下さい。それではあなたにも私が見えるように姿を見せましょう」
と言って、その声の主は僕の目の前に現れた。
その背中には、大きな白い二枚の羽が生えていて長い剣を腰に携えていた。そして
「私の名前はミカエル」
と言った。ミカエルは精悍な顔立ちをしていたが、男性とも女性ともいえない中性的な感じがした。
僕はしばらくの間呆気にとられ呆然と立ち尽くしていた。そして、ミカエルの顔をまじまじと見つめ
「そっ、それじゃあ、あの像の人?」
と怪訝そうな顔をして恐る恐る尋ねた。
「はい。しかし本当は……我々には姿や形がありません。今日は特別にあなたの為に姿を現しました」とミカエルが言った。しかし、恐怖に慄いている僕の様子を見て
「心配しなくても大丈夫。私はあなたに危害を加えたりしませんから。ところであなたの名前は?」と続けた。
「僕はジョウです。ミカエルは天使なんでしょう?」僕はためらいながらも安堵して返した。
「はい。私は天使です。正確に言えば自然霊です。神も自然霊ですが、超高級な波動とエナジーを持った存在です。私たちの仲間には善い奴もいれば悪い奴もいます。悪い奴はあなたたちの世界では『悪魔』と呼ばれています」とミカエルが答えた。
「へえー、知らなかった。悪い天使が悪魔なんだね。色々と聞きたいことがあるんだけど天使は一体どんな仕事をしているの?」僕は少し緊張感から解放され、興味津津で尋ねた。
「はい。私は神のメッセンジャーです。あなたたち人間に神からの啓示を与えるのが私どもの役目です」
「えっ? でも僕たちには天使の姿や形、声だって聞こえないよ。今日は特別なんでしょう?」と僕は言った。
「今日は特別ですが、あなたたちが気づいていないだけで様々な気づきや助言を与えています。しかし、一つだけ条件があります。それはあなたたち人間が私どもに心を開いてくれないと駄目なんです」
「心を開くって?」
「つまり……神をはじめ、我々天使や悪魔の存在を信じてもらわなければ、私どもの声は人間には届きません」
「でもね、実際……神や天使、悪魔なんて誰も信じていないよ!」と僕は声を荒げて言った。
「はい、承知しております。だから多くの人間は我々のメッセージに気づかないのですよ」とミカエルが返した。
「なるほどね」
「天使には上級、中級、下級天使がいて、全部で九つの階級に分かれています。私は下級天使で下から二番目、つまり八番目の位の『大天使』にあたります。そして大天使は全部で七人います。その中でも特に私を含め、カブリエル、ラファエル、ウリエルは四大天使と呼ばれています。彼らの名前、聞いたことあるのではないでしょうか?」
「うん。どんな天使か知らないけれど聞いたことある」
「私のことは天使界の総指揮官とでも思って下さい。大天使であるだけでなく、九階級の最高位である『熾天使』も兼任しています。ちなみにカブリエルは予言と啓示、ラファエルは治療と癒し、ウリエルは裁きを与えます」
「ミカエルって偉いんだね」僕は感心したように言った。
「ありがとうございます。しかし、日々悪魔どもと熾烈な戦いをしており、体がくたくたなんですよ」とミカエルは不満を漏らした。
それから、ミカエルはジョウの左手前方の壁に掛っている大きな縦長長方形の金色の額縁に嵌めこまれたある一枚の宗教画を指差してこう呟いた。
「あの画は私が悪魔と闘っている絵です。竜に化身したサタンを踏みつけています。ジョウは聖書を読んだことありますか?」
「うん。僕の学校はミッション系だから」
「新約聖書の『ヨハネの黙示録』の十二章七節にはこう記されています」と言い、ミカエルは聖書の一節を朗読し始めた。
『さて、天では戦いが起った。ミカエルとその天使たちが、竜に戦いをいどんだのである。竜とその使いたちもこれに応戦したが、勝つ力がなく、もはや天には身の置き所もなかった。こうして、巨大な竜、すなわちサタンとも悪魔とも呼ばれ、全世界を惑わすあの昔の蛇は地に投げ落され、その使いたちも、もろともに投げ落された。その時、わたしは天で高らかに叫ぶ声を聞いた。』
「残念なことに……あの悪魔ルシファーは、実は、私の双子の兄弟だったんです」ミカエルは聖書を読み終えるや否や溜息混じりに呟いた。
「えっ! 本当なの?」僕は驚嘆した。
「彼は天界において私よりも上位にいました。多くの天使を従え、神にもっとも近い存在でした。しかし……それが仇となって傲慢にも自分が神よりも偉い存在だと勘違いし、神の座を奪おうとして天に戦いを挑みましたが敗北し、今では堕天使のルシファーと呼ばれています」そしてミカエルは続けて話した。
「悪魔の世界にも階層があるのをご存じですか?」
「ううん」
「ダンテの『神曲』ではこう記されています」
一 辺獄
二 邪淫地獄
三 大食地獄
四 貪欲地獄
五 憤怒地獄
六 異端地獄
七 暴力地獄
八 邪悪の壕
九 反逆地獄
「辺獄は徳が高いが洗礼を受けていない者、邪淫地獄は色欲に溺れた者、大食地獄は暴飲暴食にふけった者、貪欲地獄は浪費家たち、憤怒地獄は怒り狂った者、異端地獄はキリスト教以外の異教徒、暴力地獄は自殺者と他人に害を与えた者、邪悪の壕はあらゆる罪を犯した者、そして反逆地獄は反逆者です」ミカエルは僕にダンテの『神曲』に描かれている地獄のことを一つ一つ丁寧に説明した。
「悪魔は悪者として捉えられているけれど、本当に悪なの?」僕は興味深げに尋ねた。
「それは議論が分かれるところです。確かに悪魔は人間に悪さをしますが、それは人間が神から、つまり、善の心から離れてしまい自分自身でそういった悪を引き寄せているからです」
「自分で悪を引き寄せているって?」僕はきょとんとした。
「はい。旧約聖書の『ヨブ記』にも、神の意志に従って人間に苦難や試練を与えると記されています」
「つまり、不幸や災難は、自らのネガティブな思いが引き寄せているの?」
「そういうことです。しかしながら、逆説的になってしまうのですが、本当は地獄といったものは死後の世界にはありません。それは人間や宗教が作り出した話です。悪い行いをした人間を戒めるために必要だったのではないでしょうか?」とミカエルは真面目な顔をして話した。
「死後の世界とは、自分自身の思いや心境がそのまま心像風景として映し出されたものです。例えば、生前人を妬んだり悪意に満ちた人生を送っていた人は死後、そういった低い波長の所へ行くことになります」
「自分の心境に応じた試練や災難が訪れ、死後はそういった場所へ行くことになるんだね。怖いな」と僕は呟いた。
「いいえ、恐れることはありません。カルマは悪いことだけでなく良いことも引き寄せます。だからたくさん徳を積めば良いのです」
しばらく僕はミカエルと話をしていたが、ミカエルは誰かが教会の中に入ってくる気配を感じて急に姿を消した。
バタンと大きな音をたてて扉が閉まった。
黒の立襟でくるぶし丈まである長い司祭服を身にまとった一人の男性がこちらに近づいてきた。
「すっ、すいません。勝手に教会に入ってしまって……」と僕は困惑した様子で言った。
司祭は大きな十字架のネックレスを首にかけ、聖書を手にしていた。額には皺が刻まれ、白い口髭を生やし、優しい面持ちで静かにゆっくりと話した。
「心配は要りません。自由に入ってもらって構わないです」と言い、それから、ミカエルの存在をまるで分かっているかのように天井を指差してこう話した。
「あそこに白い玉のようなものがふわふわ浮いている。あれは自然霊ですな」
「僕には何も視えないです」僕は天井を見上げて司祭に言った。
「大概の人には視えないだろうね」
「特殊な能力をお持ちなんですか?」と僕は驚いて尋ねた。
「まあ、そう思ってもらっても構わない。人によってそれぞれ得意分野が違うだけの話だから。運動能力に長けている人は走るのが速いでしょう。それと一緒で霊的な能力が人よりも少し強いというだけなんだ」と司祭は淡々と話した。
「もちろん君にもそういった能力が備わっているが、弱いだけであって全くないわけではない」
「そっ、そうなんですか?」
「君だってたまに嫌な予感がしたり、勘が当たったりすることはないか?」
「あります」
「インスピレーション。霊感は誰でも持っている」と司祭は丁寧に説明してくれた。
この教会はセント・ミシェル大聖堂といい、カトリック系キリスト教の教会にあたる。歴史は古く十六世紀ごろ建造されたが、建物の老朽化に伴い何度か修繕、改築工事が行われた。日曜日になると多くの人々が礼拝に訪れる。宗派に関係なく異教徒でも列席可能で町民の憩いの場ともなっている。
司祭が僕を連れて教会の中を案内してくれた。主祭壇から正面扉に向って再び長い身廊を歩き、通路の両側には聖歌隊席が見え、聖歌隊席の北側廊には聖ペトロ礼拝堂があった。
天上から吊下げられたシャンデリアの仄かな光は、路頭に迷い傷ついた人々を温かく見守るかのような慈愛に満ちた灯で、礼拝堂の静けさと相応して重厚で荘厳な佇みを帯びていた。静寂の中で祈祷する場である。
礼拝堂の祭壇の上には、二本の大きな蝋燭がテーブルの左右に置かれてゆらゆらと静かに灯っていた。祭壇の正面には十字架が壁に掛けられていて、その上方にはイエスキリストと十二使徒の絵画が飾られていた。
聖ペトロ礼拝堂の反対側の南側廊には告解室が設けられていた。
その時、一人の女性が「ピエール神父さま」と言って教会に入ってきた。女性の頬は丸くて赤みをさしていた。肌は透き通るように白く、弾けそうなほどピンと張ってまだとても若々しく二十歳前後に見えた。紺色の生地に細かな花柄模様のあるワンピースを着ていて、ひざ丈の長さのスカートの裾から美しくて均整のとれた脚が見えた。
その女性は僕の存在に気づき「ボンジュール」と言って軽く会釈した。
-------------------------------------------------------------------------------
第二章
マリー、シャルロット、ジャン、ルイ
彼女の名前はマリーという。フランス人の二十一歳の女性でパリの大学生だと話していた。マリーはパリ十七区のモンソーにあるアパルトマンに小さな部屋を借り、友人とシェアして一緒に住んでいた。毎朝、淹れたてのエスプレッソの香がキッチンを漂い、食欲をそそるようにジュウジュウとベーコンを焼く音が聞こえ、ふわふわのオムレツとクロワッサンが一緒にお皿に添えられた。
マリーのアパルトマンは高級住宅街にあり凱旋門やシャンゼリゼ大通りから近く、パリの街並みを眺望できる眺めの良い部屋だった。マリーはよく窓から顔を出し、エッフェル塔や凱旋門の美しい景色を眺めた。
その部屋は一泊百ユーロもするが、マリーの家庭は裕福だった。父親は実業家で小さなアパレル関連の会社を起業し一財産築いた。母親は自宅で料理教室を開き、外国人にはフランス語を教えて生計を立てていた。
マリーは学生の傍らパリのシャンゼリゼにあるカフェでアルバイトを週三回していた。コンコルド広場から凱旋門へ続く大通り。広い歩道の両側には高級ブティックやカフェ、レストランなどが立ち並び、世界中から多くの観光客が訪れ、いつも賑っている。
冬になってクリスマスのイルミネーションが点灯すると通りが華やぎ、高級感のある美しい並木通りは大理石や宝石を施したように規則的に点滅し、豪華絢爛な通りへと変容する。多くの家族連れやカップルが手をつないで肩を寄せ合い、吐く息は白く、星がちりばめられたような街路を歩きながら時々顔を上げて立ち止まり、幻想的なイルミネーションに魅了される。
マリーとピエール神父は神妙な顔つきをして話をしていたが、しばらくすると二人は告解室の中へ入って行った。
僕はその間、教会の参列者席に腰掛けて天井を仰いで暇をつぶしていたが、やがて空想に耽ることにも飽きたので、教会内を散策したり礼拝堂でお祈りを捧げていた。
告解室は壁一面真っ白でアーチ状の大きな窓が四つあった。外からの暖かな日差しが入り込み優しさに包まれていた。部屋の中に入るとすぐ真正面にマホガニー製の電話ボックスみたいな二人用の小さな縦長箱型の部屋があり、左右二か所に扉がついていた。内部の中央には祈祷台が置かれ、カーテンで顔が見えないように中央で仕切られていた。
ここで信者は神父に罪の告白をする。そして神の赦しを得て、懺悔するというシステムだ。キリスト教のカトリック教会には懺悔のために告解室が設けられている。
***
マリーは大学で美術学科に所属し洋画を専攻していた。伝統的な油彩画を中心とした学科であったが、最先端の機器やテクノロジーを駆使してウェブや広告のデザイン、動画やアニメーションなども学べる学科であった。そして彼女は将来、グローバルなクリエイターを目指していた。
マリーは大学ですぐに友達が出来た。同じクラスメートのシャルロットとは大の仲良しだった。普段は学業とアルバイトで忙しくしていた二人だが、よく週末になるとルーブルやオルセー美術館に一緒に足を運んだ。
先日も二人は美術館のカフェでオレンジジュース、カフェオレ、クロワッサン、マカロンを注文し、大学の講義の話、絵画のこと、ボーイフレンドやお洒落、メイク、音楽などいつまでも話題が尽きることなく二時間もずっとおしゃべりしていた。
「私は印象派の作品が個性的で好きなの」マリーは笑みをこぼしながら話した。
「ルノワールとかモネ?」シャルロットが尋ねた。
「特に好きな画家はいないんだ。筆のストロークや描写技術などの技巧的なことはもちろんだけど、前衛的な芸術運動が盛んになってその当時の近代性を表現したじゃない。クリエイティブな作家って世の中を変えてしまうパワーを持ち合わせているから凄いよね」とマリーは目を輝かせながら話した。
「油絵や宗教画なども興味深いけれど、ちょっと時代錯誤は否めない。最近はアニメーションや動画が凄く人気がある。それに今の時代、コンピューターグラフィックスが主流だよね」シャルロットはテーブルの上で頬づえをついていた。
「今はネットで好きな動画や音楽など素人でも作れる時代だしさ」マリーはずるずる音を立てながらコップの中のオレンジをストローで一気に飲み込んだ。
「ところでシャルロット、ロックとかポップな音楽好き?」
「うん、好きよ。自分でオリジナルの音楽を作れたらいいなあと思うけれど、そっちの才能は残念ながらないみたい。エレクトリックな音も嫌いじゃないわ」そう言うとシャルロットはカフェオレを飲みほした。
「じゃあ、クラブとか行って踊るの?」
「たまにボーイフレンドと週末の夜に飲みに行くの……」
「えっ? まさか……。シャルロット、ボーイフレンドいるの?」マリーはちょっと意外な表情をして真顔になっていた。
「うん。内緒にしててごめんね……」マリーと正面に向い合って深く椅子に腰かけ、背もたれに寄りかかっていたシャルロットは急に背筋を伸ばし、手を膝の上に置いて申し訳なさそうに答えた。
「いつから?」
「半年ぐらい前よ」
「だから最近、お洒落に気を使って化粧もきちんとしているのね!」マリーは女性の視点で女心を分析していた。
「うん」シャルロットは顔を赤らめて答えた。
「一体誰と付き合っているの?」マリーは検察官のように尋問を始めた。
「ふふふ。内緒よ」シャルロットの顔は幸せそうな笑みがこぼれていた。
「えー、教えて!」
「じゃあ、今度一緒に飲みに行こうよ。その時紹介するから楽しみにしていて」
マリーとシャルロットは、シャルロットのボーイフレンドに携帯からメールを送った。シャルロットが〈会ってもらいたい友人がいるの。来週の土曜日の午後八時いつもの場所で会える?〉とメッセージを送ったら、すぐに〈ウイ〉と返事がきた。それから二人は美術館を出て「またね」と言って別れた。
パリの九区、モンマルトルの丘の麓界隈は夜になると明るくネオンが灯り、キャバレーなど怪しげな酒場の歓楽街で有名だが、ブティックやカフェ、クラブ、ストリート系ハイファッションのショップ、映画館などがあり、パリの若者や若手クリエイターを中心に人気のスポットで一種独特な雰囲気を辺りに漂わせている。
パリの夏の午後八時は夏時間でまだ辺りは明るい。カフェの軒先には大きなパラソルが何本も立ち、傘下には小さな丸テーブルとイスが置かれている。大きなサングラスを頭に乗せてブロンドの髪を両耳にかけ、足を交差させて椅子に腰掛け、屋外で大きな口を開けておしゃべりに高じている女の子たちの姿が多く見られた。
シャルロットは普段とは違って派手な格好をしてマリーとの待ち合わせ場所に立っていた。プリーツのミニスカートにくるぶし丈まである七センチヒールのショートブーツ、ノースリーブのぴったりしたTシャツを着て、デニムのジャケットを腰に巻いていた。黒のマスカラ、アイライナーを引き、瞼には青のアイシャドウ、そして真っ赤な口紅をつけて近くに寄ると香水の匂いがきつく感じられた。マリーは普段のシャルロットとは全く違う別の一面を見たような気がした。
マリーはいつもと同じように古風な感じでミニ丈のワンピースにヒールのあるパンプスを履いて化粧もナチュラルだった。ちょっと場違いな格好でマリーは気恥ずかしかった。
マリーとシャルロットは店内に入った。まだ客は疎らだった。DJもバーテンダーも手を休めて話をしていた。
「クラブで午後八時はまだ客の入りが少ないの。だんだんお客が入ってきてノリのいい音楽が流れ、お酒を飲んで盛り上がるのは十時過ぎてからよ」とシャルロットがマリーに説明した。
二人はカウンターでコロナを注文し席についた。
マリーは素朴な女の子だった。普段は絵を描いたり本を読んだりしていて、シャルロットとは一緒に美術館巡りをしていた。だから、この場にいることが急に息苦しく感じられた。
周りを見渡すと派手な化粧に露出度の高いセクシーな格好をした女の子がちらほらいて、店内はジェシー・Jやアリアナ・グランデの音楽が流れていた。
十五分ほど遅れてシャルロットのボーイフレンドが店内に入ってきた。彼の名前はジャンと言う。ジャンは彼の友人のルイも連れてきていた。シャルロットが「ここよ」と言って手を振ってジャンにウインクすると、ジャンとルイが彼女たちの存在に気づいて話しかけてきた。
「やあ! 僕はジャン。シャルロットの友達のマリーだよね。彼女から君のことは聞いているよ。今日は僕の友人のルイも連れてきた」とジャンは言い、ルイのことを二人に紹介した。
ジャンとルイは、今流行りのぴったりとしたスキニーのジーンズを履いて足元はスニーカーだった。ジャンの丸首の白いTシャツからネックレスがちらりと見えた。右手の薬指にはごつくて大きなリングをはめ、髪の毛を整髪剤で固めていて少し不良っぽい印象をマリーに与えた。
「はじめまして。マリーです。今日は二人に会えてとても嬉しいわ」マリーは緊張して少し声が上ずっていた。
「それじゃあ、今日はダブルデートだね」とシャルロットがマリーを肘で小突いてからかった。
「ルイ、良かったな!」とジャンも一緒になってからかった。
「マリー、とてもキュートだね。僕と友達になってくれたら嬉しい」ルイも照れくさそうに言った。
それから、ジャンとルイの二人は「俺たちもドリンク、オーダーに行って来る」と言ってカウンターに向かった。二人はカウンターでバーテンダーと少し立ち話をして談笑していたが、やがてビールを手にして彼女たちの席に戻ってきた。
ジャンはシャルロットと大学の選択科目のマルチメディアの講義で席が隣同士になって知り合った。ジャンはコンピューター学科に在籍していた。ジャンの友人のルイは、ジャンとは幼馴染で大学ではフランス文学を専攻していた。ルイはジャンとは対照的で清潔そうな青のボタンダウンのシャツを着てメガネをかけていて、少し真面目そうな印象だった。
ジャンとシャルロットは半年ほど前から付き合い始め、今はちょうど恋人同士として一番幸せな時期だ。お互いの荒がまだ見えず一緒にいて楽しい。これから、玉ねぎの薄皮を少しずつ少しずつ?いでいくようにお互いの内面や不満、苦悩を深く知り、愛を深めていく。
ジャンはシャルロットの華奢な肩を抱き寄せ、長くて艶のある綺麗なブロンドの髪をずっと撫でていた。シャルロットはそんなジャンに甘えるように彼の肩に頭を預けて、時々顔を上げて視線をジャンと合わせると口元を緩めてにっこり笑い、見つめ合っていた。
二人が深く愛し合っていると傍から見ても分かった。マリーはそんな二人を見ていてとても羨ましかった。シャルロットはジャンに愛されて女性として綺麗でとても輝いていた。一方、マリーは、奥手で野暮ったく、きちんと真剣に男性と付き合ったことがなかった。そして人を愛することの意味もまだよく分かっていなかった。
「ここにはよく来るの?」とマリーがジャンに尋ねた。
「シャルロットや友人とたまに飲みに来るよ」
「私はここでたまにルイと顔を合わせたことがあったけど、いつも挨拶程度だったの」シャルロットがマリーに言った。
「それじゃあ、シャルロットもルイときちんと話しをするのは今日が初めてなのね?」マリーが確認するかのように尋ねた。
「うん」
「ジャンとシャルロットとはここでたまに顔を合わせることもあったけど、僕が二人に話かけて割って入ったらお邪魔でしょう!」とルイが、ジャンとシャルロットのことを囃し立てた。
「うるせーなー。文学少年!」ジャンがむっとしてルイに言い返した。そして
「今日は、ルイ、お持ち帰りだな」と言ってにやりと笑った。
話題を変えるかのように「ここはどんな曲が流れるの?」とマリーがルイに尋ねた。
「基本、オールジャンルだよ。ロックやパンクもかかるしDJ次第。それから、割と古い曲もかかるから年配の人たちもちらほら見かけるよ」
店内はだんだんと人で溢れ返ってきた。時間は午後九時五十分。ジャンとルイはドリンクのお代りを買いに席を立った。
二人はカウンターでドリンクを受け取ると、時々マリーとシャル
ロットの方を振り返りながら、何やら話し込んでいた。
普段の欝憤を晴らすかのように多くの若者が週末にクラブへやって来て酒を飲んでいた。店内の照明が落ちて暗くなった。DJがノリのいいヒップホップやテクノの曲を流し、お客がダンスフロアで踊り始めた。ワンナイトスタンド狙いのプレイボーイ風の男が女の子を捕まえて口説いている。女の子もナンパ目当てでカッコいい男の子を捕まえようと目配せしている。誰からも口説かれず声もかからない女の子たちは壁際にひっそり寄りかかり、惨めそうだった。
「ねえ、私たちもドリンクお代りしようよ」とシャルロットが言った。シャルロットとマリーはカウンターに行ってそれぞれカクテルを注文した。
シャルロットは酔いが回り始めていた。顔がぽっと赤く紅を差し、目がとろんとして目線が定まらず、呂律が回らなくなって陽気にはしゃいでいた。
やがてシャルロットはジャンの腰に腕を回してぴったりと密着し、二人は人目もはばからず耳元で「愛しているよ」と囁きあって、やわらかな唇をそっと重ねていた。
店内はアンダーワールドのボーンスリッピーが流れ、ダンスフロアの床が小刻みに揺れていた。
「ねえ、マリー。僕たちここから出ないか?」ルイがマリーに耳元で呟いた。
「うん」
マリーはジャンとシャルロットが抱き合って濃厚なキスを始めたので目のやり場に困っていた。
ルイとマリーは、ジャンとシャルロットに手を振って店を出た。外はすっかり日が落ちて心地よい風が吹き、暗闇の中、モンマルトルの丘にそびえるサクレ・クールの白亜の寺院は不思議な魅力を秘めていた。
ルイが「丘の上まで散歩しない?」と言い手を握ってきた。マリーは「うん」と言い、二人は手をつないで息を切らせながら坂を上って頂上まで歩いた。それはあたかも自然な営みのように感じられた。
頂上に到着するとしばらくの間、マリーとルイはお互いに眼下に広がる街並みを見下ろして沈黙していた。エッフェル塔が暗闇の中点灯して姿を現し、綺麗な夜景がムーディーな雰囲気を醸し出していた。
長い沈黙が続き、気まずい雰囲気が流れ出した頃、それを振り払うかのようにルイがマリーに話かけた。
「モンマルトル界隈は多くのギャラリーや絵画のお店があるよね。マリーはよく来るの?」
「たまにね。ルイは?」
「よく来るよ。ここの近くに部屋を借りて住んでいるんだ」
「あっ、そうだったの?」
「良かったら……お酒の酔いを醒ますのにおいしいコーヒーでも入れるけど。嫌なら別にいいんだ」
ルイはマリーの顔をじっと覗き込んで真顔で言った。
マリーは一瞬ためらったが「ありがとう」と言って小さく頷いた。
-------------------------------------------------------------------------------
第三章
マリーとルイの関係
愛の成長に体を合わせる
性欲に身をまかせてしまうのはすこぶる危険だ。というのは、性欲だけが二人の絆となってしまい、本来の本当の絆であるべき愛が忘れ去られてしまうからだ。
愛というのは、ちょっとずつ成長していくものだ。それより先に性欲を追い越させてはならない。愛の発達に少しだけ遅れて性欲がともなうくらいがちょうどいい。
そうすると、相手も自分も深い愛を体とともに感じることができるのだから。それは心も体も同時に幸せになるということでもある。
フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』
ルイはマリーの顔を見つめ大きく深呼吸し「好きだよ」と耳元で息を吹きかけるように囁いて彼女を抱きよせた。彼女の体の温もりを感じ、そっと指先をマリーの体にすべらせてちょっと強引にマリーにキスした。マリーは体にぞくぞくした感覚を感じ、体が火照った。そしてルイはゆっくりとマリーをベッドの上に倒して、自分のシャツのボタンを一つずつ外していった。それから慣れた手つきで手順よくゆっくりとマリーの服を一枚ずつ脱がせた。ルイは女の子の扱いに慣れていた。
「ねえ、マリー。この詩はボードレールの『月の恵み』だ」と、ルイが優しい笑みを浮かべてベッドの上でマリーに呟いた。
『移り気そのもののあの月が、窓ごしに、揺籃の中で眠っているお前の姿に眼をとめて、そうしてこう云ったのだった、「私にはこの子が気に入った。』
「今の僕のマリーに対する気持ちだよ」と女の子を誘惑するような甘い言葉を囁き、そっとマリーの前髪をかき分けて額に軽くキスをした。そして二人は、ベッドでむさぼり合うようなキスをして何度か愛し合い、マリーを快感と欲情の渦で縛りつけた。マリーはルイに体中をキスされるたび心臓がドキドキして胸が高鳴った。生まれて初めて味わう刺激的なドラッグみたいだった。
バックミュージックにはエド・シーランのシングが流れ、ベッドは小刻みにキシキシ音を立てて部屋に鳴り響いた。
ルイは自分の欲望を処理すると
「マリー、もしかして、初めてだったの?」
と言って、ベッドの下に投げ捨てられていたシャツを拾い上げて袖に腕を通した。
マリーは黙って頷いた。男性に対して産だったマリーは、マリーの中で眠っていた不安感を煽られた。そしてマリーはルイの体をゆすって
「ねえ、私たち間違っていたのかしら?」
と言って、この先の未来を案じていた。
「マリー、君はとってもキュートだよ。でもね、まだお互いのことよく知らないじゃないか。それに、君も僕のことが好きだったからOKしてくれたんだよね?」とぶっきらぼうに眠たい目をこすりながらルイは答えた。
マリーは昨晩、お酒とその場の雰囲気に呑まれてすっかり自分を見失っていた。
***
マリーはルイと週に何度か彼の部屋で一緒に過ごすようになった。それが彼の車の助手席だったのか三人掛けのバックシートの席だったのか怖くて聞き出せなかった。マリーはルイの知的で博識なところと女の子を退屈させない饒舌な会話に一種の憧れと尊敬に近い念を抱いていた。
彼の部屋はモンマルトル界隈の丘の上に建つアパルトマンの二階にあって、パリの街を一望できる日当たりの良い場所だった。部屋の中は小奇麗に片づけられていた。ベッドと机と椅子、本棚にCDラック。床にはアコースティック・ギターが転がっていた。ルイの部屋の中はいつも音楽が流れていて、たまにギターを弾いて聞かせてくれた。洗面所にはペアの歯ブラシとコップ、キッチンにはマリーが持ち込んだフライパンや鍋が置かれ、日に日にマリーの荷物がルイの部屋を占領していった。
「ねえ、ルイ。お腹すいた?」マリーが尋ねた。ルイの部屋の壁に掛けられた時計は午前十一時二十分をさしていた。
「うん。何か作ってくれるの?」
「パスタ用のトマトソースの缶がキッチンの戸棚に入っていたから、トマトソースのパスタにするわ。十分ぐらいですぐに出来るから」と言って鍋に水を入れ、コンロの火にかけて沸騰させた。水が沸騰すると鍋の中に塩を振り入れ、パスタをパラパラと入れて茹でた。
麺が茹で上がるとザルで漉し、それから火にかけて温めておいたトマトソースを茹で上がったばかりのパスタの上にかけた。マリーはグラスにジンジャーエールをついで、パスタと一緒に小さなキッチンテーブルに運んだ。
「ルイの部屋には食材がなかったから、簡単なパスタしか作れなかったけど食べて」とマリーが言った。
「ありがとう。助かるよ」とルイが返事した。
二人はフォークにくるくるとパスタを巻きつけて口に運んだ。まだ茹で上がったばかりだったので湯気が立ち上っていた。
「ねえ、ルイ。将来はどう考えているの?」とマリーが言った。
「たぶん普通に会社に勤めると思う。出版社とか。でも、会社に勤めながら創作活動もしていくつもりなんだ」とルイが答えた。
「本とか書くの?」
「どんな内容の本かまだ決めていないけど、チャンスがあったら出版社に持ち込んで読んでもらおうかと思っている」
「楽しみだわ。本が完成したら読ませてね」
「まだまだ先の話だよ。でもヒューマニズムを元にした本が書きたいと思っている。歴史を織り交ぜてヴィクトル・ユーゴーみたいなやつ」とルイは言い、充実感のある愉悦を覚えた。
「マリーは?」
「私はまだ具体的に何も決めてないの。でもアートを専攻しているから、私も将来はクリエイティブな仕事に就きたいわ。ウェブのデザイン関係やイラストレーターとかね」
「素敵だね」
「ありがとう」とマリーが言った。そして、言葉を濁しながら話を続けた。
「あっ、それから……。ちょっと気になることがあるんだけど……」「えっ? 何?」
「このあいだ、ルイが他の女性と一緒に歩いているところを見かけたの」詰問するかのように鋭い口調だった。
「どこで?」
「大学のカフェで楽しそうに話していたわ」
「ああ……。僕は女性の友達が多いの知っているだろう?」ルイは少しうんざりした口調だった。
「うん。でも親密そうに見えたの」
「僕はレディファーストだし、女性には優しいんだ。だからマリーのことも大切に思っている」と弁解するかのように答えた。
「それは、私だけじゃなくてみんなに優しいってこと?」マリーは瞬きもせず、じっとルイを見つめて言った。
「君はもちろん特別だよ。でも、他の女性にも僕は優しいんだ」とマリーを安心させるかのように優しく呟いた。
「私のこと、好き?」マリーは懇願するかのような目をしていた。
「もちろん」とルイは言って、マリーを抱きよせてキスをした。ルイの白くて繊細そうな大きな手はマリーの不安そうな顔を包み込み、細くて長いセクシーな指は女性の喜ばせ方を熟知しているかのようだった。マリーの髪をかきあげて、じっくり時間をかけてキスをした。そのキスはまるで魔法がかかったみたいで、時々、マリーをじらした。すると今度はマリーの方から何度もキスをせがんだ。
-------------------------------------------------------------------------------
第四章
マリーの告白
「それで、その後彼とはどうなったのですか?」ピエール神父はマリーを慰めるように尋ねた。
「ルイとは普通の友達でした」とマリーは小さな声で言った。
「彼はあなたに対して不誠実だったのかい?」
「ルイが他の女性と一緒に歩いているところを大学で何度か見かけたことがありましたが、ガールフレンドかどうか分かりませんでした。さらに最悪だったのは、いつもは順調に来る月経が止まってしまい、毎朝トイレに駆け込むたび絶望的な気持ちになりました」と言って小刻みに震え、マリーの目には涙が滲んでいた。
「検査はしたのかい?」と優しくピエール神父は語りかけた。
「薬局で妊娠検査薬を買ってトイレで検査したら……陽性でした」マリーの目から大きな涙がこぼれ落ちた。
「そのことは彼に知らせたの?」
「いいえ。シャルロットにもジャンにも言えませんでした」
「どうして?」
「この話をしたら私たちの関係がこじれてしまうと思ったから言えませんでした」と言い、マリーの頬を涙がとめどなく流れた。
「それに私は敬虔なカトリックのクリスチャンです。妊娠の事実はどうしても言い出せませんでした」
マリーは絶望の淵に追いやられていた。
「ご両親は知っているの?」
「いいえ、知りません。そんなこと話したら私は勘当されてしまいます。一人でずっと狼狽し、絶望感に苛まれながら悩み続けました。しかし、意を決して病院へ駆け込みました」マリーは震える声を抑えながらピエール神父に詳細を伝えた。
「病院では妊娠五か月に入っていると言われました」
「でも、どうしてきちんと避妊してもらわなかったの?」
「まさか……。そんな簡単に妊娠するなんて思っていませんでした! その時は彼のことが大好きだったので彼に抱かれて幸せだったんです」マリーは自分の過ちを認めた。
「病院から妊娠を継続するか中絶するか決断を迫られました。妊娠六か月を過ぎたら中絶は出来ないと言われ、それで私はぎりぎりまで悩み続けました」と言ってマリーは深くうなだれて視線を床に落とした。
「それで、赤ちゃんを中絶したんですね」とピエール神父は確認するかのように丁寧に語りかけた。
「はい」と言ってマリーは嗚咽をあげて泣き出した。
僕はマリーの泣き声が告解室から聞こえてきたので、何度も何度も扉の前を行ったり来たりした。そして「とても辛いことがあったんだろうな」と想像できた。神妙な面持ちでマリーのことを考え巡らせていると、突然、ミカエルが天使の姿で僕の目の前に現れた。
「ジョウ、マリーのことが心配かい?」ミカエルが言った。
「うん。彼女、激しく泣いている。何かとても辛いことがあったんだと思う。彼女のこと励ましてあげたいんだ」
「でも、彼女は罪を犯しました」ミカエルの口調は少し冷たかった。
「罪? 酷いことだったの?」僕は驚いた口調で尋ねた。
「大罪とも言えます」
「大罪って……」僕は絶句した。
「マリーは中絶をしました。それは人を殺める行為です」
「そうだったんだ……」僕は言葉に詰まった。
「中絶といっても理由は様々です。やむを得ず中絶をしなければならないこともありますから万人を十羽一絡げにして裁くことはできません。例えば、女性がレイプされて妊娠した場合。また妊娠中、母体が危なくなり中絶しなければ自分の命を落とす危険があると分った場合などです」ミカエルは様々な事例を挙げて僕に説明した。
「しかし、マリーのケースは安易なセックスをして望まない妊娠をし、そして自己本位な中絶ですからね」
「うん」
「また現代の医学では、妊娠中にある程度お腹の赤ちゃんの先天的な障害を検査して分かる場合もあります。そして生み育てることに躊躇し、中絶をする方もいるのですが……。しかし、このケースの場合も自己本位だと我々天使は判断します」
「どうして? 病気だって分かっているんだよ!」僕は少しむきになって言った。
「確かに育てるのは大変でしょうが、障害の有無で人間の価値を判断してはいけません。差別につながるからです。しかし、私たちはすべてにおいて人間の意思を尊重します。生むのも中絶するのも人間の意思にお任せします。すべては動機によるからです」とミカエルが言った。
「それで、マリーは裁きを受けたの?」
「はい。裁きを与える大天使ウリエルが、マリーの守護天使に裁きを下すように伝えました。そして彼女はとても深い反省を促されました」
「守護天使って?」僕は目を丸くした。
「人間には一人一人守護天使がついています。だからと言って、必ず幸せにしてくれるとは限りません。厳しい親みたいなものです」とミカエルが説明した。
「それじゃあ、僕にも守護天使がいるの?」
「もちろん。けれども、厳しい親ですからジョウが間違ったことをした場合、助けてはくれません。わざと転ばせて反省を促します」とミカエルはきっぱりとした口調で言った。
「そうか。だからマリーは不本意なセックスで妊娠してしまって反省を促されたの?」
「はい。彼女の場合、ゆきずりの恋で寂しさから男性と関係を持ちました。本当の愛ではありませんでした」
「でもさあ、セックスっていけないことなの?」僕は答えが見つからなかった。
「性行為は良くも悪くもありません。お金と同じです。使う人によります。神が人に与えた自然の摂理ですから罪悪感を抱く必要もありません」ミカエルは淡々と答えた。
「それから、中絶した赤ちゃんはどうなったの?」僕はふと疑問が湧いた。
「通常、亡くなった赤ちゃんは死後の世界ですくすくと成長しています。だから中絶してもきちんと愛情をかけてあげないといけません。しかしマリーの赤ちゃんは、一度もこの世に生を受けず亡くなったため、自分の故郷であるグループ・ソウルに直接戻りました」
「グループ・ソウル?」
「はい。専門的な話になりますが、人間はみな魂の故郷であるグループ・ソウルから再生を決意してこの世に生れてきます」
「うーん、ちょっと頭がこんがらがってきた。それにしても、マリーは本当の愛を見つけないといけないね」僕はしみじみと感慨深く言った。
「はい。マリーには愛される価値があります。本当の幸せを探して前を歩いていかなければなりませんでしたが……」ミカエルはその先の答えを言いかけたが、急に言葉に詰まった。
「えっ? どういうこと?」
「あっ、それは、ジョウが後で分かることです。自分で考えてください」と意味深長にミカエルが言った。
その時、ピエール神父とマリーが部屋から出てきた。マリーは泣きはらした赤い眼をしていた。
そしてミカエルは、また姿を消してどこかへ行ってしまった。
「マリー大丈夫?」僕は心配そうな顔をしていた。
「うん。ありがとう」マリーの声には力がなかった。
ピエール神父はマリーのことを気遣って
「外へ出て気分転換するといい。ジョウにパリの町を案内してあげたらどうだ?」と提案した。
そのため、僕はマリーとパリの町を散策することにした。
------------------------------------------------------------------------------
第五章
愛と絆
「ジョウ、私ね、ルイのことが大好きだったの。でも、それはきっと人恋しくて寂しかっただけだと思う。本当に愛していたのか今でも分からないの。心と体がちぐはぐで、ゼンマイが突然切れて止まってしまったおもちゃみたいだった。振られるのが怖くて私はルイに好かれる努力をした。普段は着ないセクシーな服や化粧をしたり、彼に尽くして彼の我儘を受け入れてきた。でも、どこかで自分らしさを失っていった。それでも必死に雨風に耐え、振り落とされないようにしがみついて惨めだった」マリーはルイとの関係を振り返って僕に話した。
「年下の僕がこんなこと言うのは生意気かも知れない。でも、男性を全て許容し、スポイルする行為は、本当の愛ではないと思う。もしかしたら、そういった自分の行為に陶酔していたかも知れないね。きっとマリーは、ルイと体の関係を持つことによって愛と絆が結ばれたと思い込んでいたんだよ。そして、フェイクの愛で寂しさを埋めようとしていた」と僕は答えた。さらに
「どうしてルイにきちんと自分の気持ちを伝えなかったの?」
と苛立つように言った。
「自分がルイの本命かどうか確かめるのが怖かったの」
マリーの唇は青紫色で小刻みに震えていた。
「それから、どうして中絶のことも言わなかったの?」
僕はルイに対して腹が立って仕方がなかった。
「……。彼には夢があったから、迷惑かけられないと思った」
「ルイは無責任だよ!」
と僕は憤懣やるかたなく苛立って吐き捨てた。
「ジョウ、私もいけなかったの!」
マリーは必死にルイをかばった。
抑圧的で圧倒的な愛がマリーに重くのしかかっていた。それに服従を余議なくされた。盲目だった彼女には愛の形がさまざまあって、彼女が置かれている恋愛観が間違っていると言っても頑なに拒否し、それを受け入れることが出来なかったのだ。そして、その間違いに気づくには大きな犠牲とレッスン料を支払うことになったと僕は感じていた。
パリは春の陽だまりのような暖かさで、セーヌ川を沿って散歩していると心地よい風が吹き、すがすがしい気持ちがした。町行く人は颯爽と歩き、顔には笑みがこぼれ、悩みなんて何も抱えていないようで皆幸せそうに見えた。それがマリーを孤独に突き落とした。本当は、マリーだけでなく、多くの人が様々な悩みを抱えて必死に生きている。それなのに、マリーはまるで自分一人が蟻地獄の砂穴に体がずんずん埋まっていく感覚を覚えた。
彼女がまだ八歳の頃、両親に連れられてプールへ行った記憶だった。プールの両岸は浅くて顔が水にかからなかった。どんどん泳いでプールの真ん中まで泳いで行くと、そこはマリーの全身をすっぽり覆い、頭の上まで水がかぶってしまう深さだった。マリーは疲れて泳ぐのをやめ、立ち上がろうとした。すると、足がプールの底に着かないくらい深くて溺れそうになった。マリーは必死にもがいて水面を両腕で叩きつけるようにパシャパシャ音を立てた。周りの人はマリーが溺れかけていることに気づかず、ただ大きなスプラッシュを立てて遊んでいると思ったのだろう。今のマリーは、その時とまるで一緒だった。
パリはルーブル美術館を中心に時計周りの渦巻き状に区画整理されている。セーヌ川の中央にシテ島が浮かび、右岸と左岸に分かれている。眼前にそびえ立つエッフェル塔に向かってマリーとジョウは川沿いをひたすら歩いた。ジョウとマリーの右手にはセーヌ川が流れ、遊覧船が多くの観光客を乗せていて、二人を横切って行った。しばらく歩くとセーヌ川にかかるポンデザール橋が見えて、恋人たちが南京錠に名前を書き込んでフェンスに取り付け、鍵を川に投げ込んでいた。どうやら永遠の愛を願う一種のおまじないらしかった。
僕が冗談で「僕たちの名前を書き込もうか?」と言うとマリーがくすっと笑った。
橋を渡り切ると公園が見えたので、僕はマリーとベンチに腰かけることにした。
「ジョウ、ちょっと疲れたからここで休憩しよう」と言って、マリーは公園のベンチに座った。
「うん」と僕は言った。そして歯切れ悪くこう続けた。
「あっ、あのさあ、実は……。僕もマリーに聞いてもらいたい話があるんだ」
僕の澱んだ表情は暗い影を落としていた。
「ジョウも本当はいろいろと複雑な問題を抱えているのね」
マリーは愁いを帯びた顔をした。
僕は少し緊張した面持ちで「ふう」と息を整え、やがて意を決したかのように自身のことを語り出した。
「実は、僕には、本当は双子の弟がいたんだ。でも生まれてすぐに亡くなったと両親から僕が五歳の時に聞かされた。何でもない顔をして今まで強がって生きてきたけど、本当は不思議でもあるし、悲しくもあるんだ。僕は人に弱みをみせたくない。だから両親にもその弟のケンのことは話さない。きっと両親は僕以上に悲しみを抱えていると思うからね。でも、時々、無償に空虚感と喪失感が襲ってきて、それをどうコントロールしていいか分からなくなってしまうんだ……」僕は初めて心の中に抑え込んでいた葛藤を吐き出していた。
「僕だけ助かって弟は死んだ。きっと僕は、ずっと自分の過去の生い立ちに罪悪感を抱えて生きていくと思う。でも、ケンという存在は亡くなった他の人と同様にやがて忘れ去られ、過去の遺物として葬り去られてしまうんじゃないかと思うと申し訳ない気がする。どうして僕だけ助かったんだろう?」そう言うと僕は黙りこんでしまった。
マリーと僕はしばらく視線を地面に落としていた。その沈黙は実際には数分だったけれど、何時間にも感じられた。無言の帳が僕らを覆っていた。
やがてマリーが「いつでもケンに会えるから」と言った。そして「ケンは闇に葬り去られたわけでもない。ジョウの心の中に生きているのよ」と励ましてくれた。
それは安酒の気休めにも思えたし、最高のシャンパンの景気づけみたいにも思えた。
「マリーもいつかどこかで亡くなった赤ちゃんに会えるかも知れない。そしてルイにも……」
「そうね。いつかまた、ルイにも……」マリーの顔には苦渋の表情が見て取れた。
「ルイとは別れたの?」
「うん。というか……しばらく会えないの」
「しばらく?」
「うん」
「だって、ルイとは友達なんでしょ?」
「そうなんだけど、複雑な事情があるの」マリーの口調は悲しげな音色が潜んでいた。
「ルイのこと嫌いになった?」
「そうじゃないのよ」とためらいながら言った。
「どういうこと?」
「私は……酷い過ちを犯したの。彼はきっと悲しんでいるわ」マリーは両手で顔を覆った。そして声が震えていた。
「ルイはそのことを知っているの?」
「たぶん。私は、ジョウのお父さんやお母さんのケンに対する気持ちがよく分かるのよ。さっきジョウからケンのことを聞かされた時、ナイフで胸をぐさりと突き刺された気がしたわ」
「僕の両親に? どうして? 同情?」
「愛する人を失った人たちの悲しみが、手に取るように分るのよ」そう言うとマリーはしゃくりあげて泣いた。
僕はマリーの肩を抱いて「大丈夫だから、泣かないで」と言ってマリーの頭をぽんぽんと撫でた。それは深い悲しみを負った同士みたいな妙な連帯感だった。
「ジョウは私より年下なのに、ずっと強いし頼もしいのね」とマリーが漏らした。
「僕は強くないし、泣き出したい気持ちだってあるんだよ」と僕はぽつりと言った。その時僕は、心が強いというよりも、深い悲しみに長いこと浸り過ぎて感覚が麻痺したような感じだった。
夕方になり太陽が西に傾いて、影が少し長くなった。地球が太陽の周りを一年かけて一周するように、星も少しずつ位置を変えて一年かけて一周して元の位置にもどる。それは自分の居場所を確認するかのように、いつも決まった日に定位置が定められているみたいだ。僕もマリーも満点の夜空に輝く星たちのように自分の居場所を探していた。
しばらくすると「のどが渇いたでしょう? 何か買ってくるわ」と言ってマリーがベンチを立ったので、僕は「ありがとう」と言った。マリーが飲み物を買いに席を外し、姿が見えなくなった。すると突然、何の前触れもなく、ミカエルが僕の目の前にまた現れた!
「ミカエル! いつも突然現れて、突然消えるんだね!」と僕は驚いた顔をして言った。
「すいません。でも、マリーは元気になりましたか?」
「うん。でも、ルイと複雑な事情があるみたいなんだ。中絶のことも話してないんだって」僕はマリーのことをとても心配していた。
「詳細ですが、私の口から聞くよりも、マリーから直接お聞きになったほうがよろしいかと思います」
「そうだね。マリーは今、飲み物を買いに行ってるから、戻ってきたらもう一度聞いてみるよ。ところで、マリーはミカエルの存在を知っているの?」
「マリーは私の存在を知っています。恐らくケンのことも」
「ケンのことはさっき僕から直接話をしたんだ。……っていうか、ミカエル! 君は、僕の双子の弟ケンのことも知っていたの?」僕は驚嘆して言った。
「私は神の使いのメッセンジャーです。現世のこともあの世のことも熟知しています」と誇らしげに話した。
「天使ってすごいね。どうやって分かるの?」
「テレパシーです。私どもは想念の世界で生きているので言葉は必要ありません。相手の気持ちが手に取るようにピピピと映像が現れて伝わってきます」
「不思議だね」
「実は、ジョウも睡眠中はテレパシーを使って様々な人と交流しています」
「えっ! 本当?」
「ただ、睡眠中のことは目覚めた時に忘れてしまっていると思われます」
「でも、信じられないよ!」僕は不満そうに言った。
「先ほど、ピエール神父が話していたように霊感は誰でも持っているし、人間は元々スピリットな存在なんです」
ミカエルが話を続けていると、マリーがコーラを両手に持って帰ってきた。ミカエルの顔を見るとにっこり笑顔になった。
「マリー、久しぶりだね。元気そうでよかった」とミカエルが優しく微笑みかけた。
「ミカエル、私、そろそろ過去のこと、ふっきらないといけないね!」マリーの顔は一瞬、曇りが一点もない快晴のような表情になった。
「はい。いつまでも悲しんでいたらルイもきっと辛いでしょう。それから、ジョウはこの世界のことやマリーのことをきちんと理解していないようですので説明してあげて下さい」とミカエルがマリーに言った。
「マリーとミカエルが知り合いだったと知って驚いたよ。それにマリー、さっきルイのことで口を濁していたよね。よかったら僕に全て話して欲しい」と僕は言った。
この時の僕は、まるで少年から正義感に溢れた頼もしい一人の青年に生まれ変わったみたいだった。
「分かったわ。でも、びっくりしないでね……」マリーは微動だにせず、僕をまっすぐでも虚ろな目で見つめていた。
-------------------------------------------------------------------------------
第六章
意外な真実
マリーがルイと肉体関係を持ったことによる妊娠の事実を突き付けられた時、彼女は誰にも相談出来ず、本当に孤独だった。ルイの女性関係における不誠実さはマリーの精神を痛めつけ、どん底に突き落とした。カトリック教会では堕胎は禁じられている。それに、その事実をルイに伝えたところで、ルイからの答えはすでに明白であった。妊娠の事実を切り札に、ルイは離れて行ってしまうだろうと思い込んだ。
マリーは妊娠の事実と中絶の葛藤で日に日に精神を病んでいった。カフェでのバイトを辞め、大学も休学した。両親やシャルロットは心配してくれたけど、適当に口実を見つけて事実は言わなかった。
ルイはマリーの気持ちが心変わりしたのだろうと思っていたに違いない。ルイは相変わらず他の女性といた。マリーと入れ替わるように他の女性が彼の部屋に転がりこんだ。
夫や恋人の付添もなく、孤独な一人の女性が病院の分娩台にのって堕胎する惨めな孤立感は、彼女の人生を狂わせたと想像するに難くないだろう。
マリーはいつものように部屋の窓から外を眺めていた。窓からは点灯して幻想的なシャンゼリゼのイルミネーションと恋人たちが愛を囁き合いながら通りを歩く姿が目に入った。彼女は惨めで不幸な自分を呪って死んでしまいたいと思った。そういったネガティブな彼女の思いが仇となった。
すでに堕胎をして罪を犯していたマリーは、天界からの愛あるメッセージが彼女の耳には届かなかった。そういった人間の弱さに付け込んだ悪魔が彼女を餌食にした。
ミカエルは、双子の兄弟でもあり、悪魔でもあるルシファーと闘った。ミカエルは必死にマリーに神からのメッセージを伝えようと鼓舞した。しかし、精神を病んでいたマリーには悪魔の付け入る隙がありすぎた。そして、ついにマリーの精神と肉体は悪魔に乗っ取られて、最悪の結果を引き起こした。
彼女は死を選んだのだ。とっさに窓の手すりに足をかけ、アパルトマンの窓から身を投げた。
「ジョウ、私はすでに死んでいるの。驚いたでしょうね。今まで黙っていてごめんなさい」マリーは顔面蒼白だった。
「えっ? どういうこと? ごめん……意味がよく分からない! 今、僕はとても混乱している!」
「そうでしょうね。さっきルイとしばらく会えないと言った意味だけど、私が死んでしまったからなの。彼は現世で生きている生身の人間。私は肉体を失った霊魂なの」マリーの言葉には感情が消え去り、事実だけを淡々と僕に伝えた。
「だから……大きな罪を犯した。ルイはきっと酷く悲しんでいる。と言ったんだね?」
「うん。私も中絶して十字架を背負ったけれど、きっとルイも私のことで苦しんでいると思うわ。そして、ミカエルのメッセージに気づかなかったことは本当に後悔している。私が前向きに生きていれば良かったのに、あの時は絶望していてそれどころじゃなかった。ミカエル、本当にごめんなさい!」と言って涙で瞳がうるんだ。
「大きな罪を犯したマリーは反省をしなければならない。マリーの守護天使もそう言っている。そして今度生まれ変わった時は、同じことを二度と繰り返さないように大きな課題が待っている」とミカエルはきっぱりとした口調で言い諭すかのように言った。
「ところで、人間って生まれ変わるの?」僕はミカエルに尋ねた。
「はい。人間は繰り返し生まれ変わります。自分の課題にぴったりな国や性別、両親を選んで生まれる。いわゆる宿命です」
「宿命と運命って違うの?」
「宿命は自分で変えられないことなのですが、運命は努力して変えられます。ジョウは日本で男の子として生まれました。これは変えられません。しかし、将来、たとえば有名人になりたいと思って努力すれば、その夢や願いは叶うかも知れません」
「そうなんだ!」
「そのためには、常に謙虚で前向きに生きていかなければいけません。良いことも悪いこともすべて自分が引き寄せているからだ、と先ほども説明しましたね」とミカエルが確認するかのように言った。
しばらくすると、突然
「ジョウ!」
と叫ぶ声が聞こえた。
それは僕が学校の帰り道に横断歩道を渡っていて、誰かに背後から呼ばれた時の声の主と同じだった。そしてその声は、僕の声とそっくりだった。
思春期の男の子が声変わりした、ハスキーな感じだった。僕の目の前に現れたのは、背丈が一七0センチ、体重が六0キロぐらいある健康そうな男の子で笑顔を浮かべていた。顔も声も体格も僕と見わけがつかないくらいそっくりでまるで双子のようだった。
「ジョウ! 僕がケンだよ。分るだろう!」と叫んだ。
僕はしばらく開いた口が閉まらなかったがやがて
「ああ。僕も君がケンだってすぐに分かった!」
と言った。
そして、ケンが僕に説教するかのようにこう続けて言った。
「ジョウ、一体ここで何をしているの? お父さんとお母さんがとても心配しているぞ!」と少し興奮して怒った口調だった。
「ケン、再会の喜びじゃないのか?」と僕は苦笑した。
「亡くなった赤ちゃんもあの世で成長するんです。だから、ケンも成長してジョウと同じくらい大きくなりました」とミカエルが口を挟んだ。
マリーはミカエルの話を聞いて小さく頷いた。
「マリーもケンも既に亡くなっているんですよ。だから、ここは現世ではないことに気がつきましたか?」とミカエルが僕に尋ねた。
「そう言われてみれば、何かおかしい……」
「ここは、この世とあの世が折り重なったような場所です。もっと正確にいえば、幽界と言います」とミカエルが説明した。
「そして死後、多くの人はしばらくの間ここで過ごします」と付け加えた。
「……。でも、現世とそっくりな場所だよ。信じられない!」と僕は叫んだ。
「幽界といっても広いんです。下層部は現世とよく似た場所ですが、上層部に行けば天国のように美しい場所です。実は、最下層部もあり、そこは地獄さながらのような場所なので、生きている時に悪い行いをした人たちが多くいます。生きている時の行いによって、死後どこの階層に行くか決まります」
「でも、どうして今僕がここにいるの? 迷い込んでしまったの?」僕は不安に駆られた。
「ジョウが横断歩道を渡っている時、僕が叫んで注意したんだ! でも、全く気がついていなかったね」とケンが言った。
「一体、どういうこと?」
「あの時、ジョウはトラックにはねられたんだ。そして頭を強く打って意識不明になり、昏睡状態に陥った」とケンが続けて話した。
「そっ、それじゃあ、僕は……死んでしまったの!?」と僕は青ざめた声で言った。
「死んではいません。現在ジョウは、現世では意識不明の昏睡状態で病院に入院して治療を受けています。そのためジョウの両親は、大変悲しんでいます」とミカエルが言った。
「僕はここから現世に戻れるの?」と暗澹たる思いで僕は尋ねた。
「戻ろうと思えば戻れます。まだジョウは寿命ではありませんからね」
「人間って寿命があるの?」
「はい。生まれてくる前に、自分で決めて生まれてきます」
「ある程度、自分がプランを立てて生まれてくるの?」僕は熱心にミカエルの話を聞いていた。
「先ほど申しました宿命などがそうです。しかし、運命は定められていないので、生きている間の自分の思いや行動次第です」
「ジョウはまだ生きなくちゃいけない。だから僕が警告を送った。それなのにジョウときたら、音楽を聞いていてトラックが近づいてくる音に全く気がついていなかったね」ケンが呆れた顔をしていた。
「そうだったんだ……」僕は溜息をついた。
「ジョウはここに長居したらいけない。本当に現世に戻れなくなってしまうかも知れない。ここは居心地が良いから、ずっとのんびりしてしまって、現世に戻らないでそのまま死んでしまう人たちもいるんだよ」とケンが注意した。
「確かに、居心地がいい場所だね」と感心しながら僕は言った。「でも大丈夫。僕は両親をこれ以上悲しませたくないから帰るよ。でもその前に、もう少しだけこの場所を散策したり、いろいろと教えてもらいたいことがある」
「ジョウは今、臨死体験をしているのよ」とマリーが言った。
「あっ! そうなんだ! 以前、噂話では聞いたことがあるよ。マリー、教えてくれてありがとう」と言い、僕は軽くウインクした。
-------------------------------------------------------------------------------
第七章
再会
日はすっかり暮れてパリの町に夜の帳が下りた。夜風は僕にノスタルジアを運んできた。それは家族、友達、学校生活、そしてここでの出会い。何物にも代えがたい貴重なメモリーだった。太陽が西にすっかり傾いて沈んだ頃、月がおぼろげに顔を出した。月は弧を描いたような形をしていて、だんだんと上昇していき僕とケンを明るく照らし出していた。辺りが暗くなるとエッフェル塔が点灯して昼間とは違った顔色を見せて幻想的な空間を演出していた。
僕はケンと夜が明けるまで語りつくした。ケンが生まれてすぐ亡くなったのは、お母さんのせいではない。ケン自身が生まれてくる前に自分で決めてきたことだと言った。だから、罪悪感という呪縛からお母さんのことを解放してあげて欲しいと話していた。そしてケンは、僕との再会をとても嬉しく思っていたようだ。交通事故というアクシデントがなければ、こんなに早く再会できなかっただろうと言って涙ぐんだ。
「僕はずっとケンのことでわだかまりがあったんだ。僕だけ生きていていいのかなって思っていた」僕は本音を吐きだした。
「ジョウ、それはジョウには関係ないことだ。僕が決めたことだ」ケンの顔は真剣そのものだった。
「僕はまだ、半信半疑なんだ。ミカエルやこの世界のことも。もしかしたら醒めない夢でも見ているかのような錯覚に陥る」顔を上げて月を眺めながら呟いた。
「それは無理もない。でも、少しずつこれが夢じゃなくて現実のことだと実感できると思う」
「またいつか再会できるかな?」
「もちろん。でも、その時はジョウが死んだときだよ。ジョウはまだ寿命じゃない。もっと先になるだろうね」とケンが答えた。
「あっ、でもね、ジョウは覚えていないかも知れないけれど、時々、ジョウが睡眠中に僕らは会っているんだよ!」
「本当か?」僕は体を乗り出してケンの顔を覗き込んだ。
「うん。いつも学校生活や勉強、友達の愚痴とか色々僕に話しているよ」とケンが口を大きく開けて笑いだした。
「え、マジで?」と言って僕は照れ笑いした。
「今、クラスに好きな女の子がいるのも知っているよ!」ケンが僕をからかった。
「いや。嘘だ!」とむきになって言い返したが、僕の顔は赤くなっていた。
「ジョウ、顔が真っ赤だよ。僕はテレパシーで何でも分かるんだから嘘をついても無駄だよ」とケンは笑いながら言った。
「おい、お父さんとお母さんに変なメッセージ送って知らせるなよ。二人だけの秘密だぞ」と言ってケンに口止めした。
「わかったよ。そんなにむきにならなくてもいいだろ」
「それにしても不思議だな」と僕はぽつりと呟いた。
翌朝、僕はこのパリの町から現世の世界に戻った。ケンとの別れは寂しかったけれど僕には自分の帰るべき家がある。ここではない。ミカエルやマリー、ピエール神父にも最後にお礼の挨拶をして別れた。帰り道、線路を辿って引き返した。頭の中には様々な思いが渦巻いていた。
線路の上をゆっくり歩きながら、何度も何度も後ろを振り返った。あの大きな大聖堂がどんどん小さくなっていき、次第に見えなくなって、すっかり消えてしまった。大聖堂が目の前から消えてしまうと僕の目は涙で潤んだ。そしてミカエルが「いつも見守っていますから寂しくありませんよ」と言っていた言葉を思い出して唇を噛みしめた。
-------------------------------------------------------------------------------
第八章
帰還
僕が目を覚ますと、病院のベッドの上に横たわっていた。目が覚めたとたん、体中に痛みが走った。僕は苦渋の表情を浮かべ、額には汗をかいていた。包帯でぐるぐる巻きにされた頭は、ときどき痛みが脈を打つように疼いた。お父さんとお母さんの顔がすぐまじかにあって「意識が回復した!」と言って、泣いていた。それから、ナースコールを呼ぶ音が聞こえ、「息子の意識が回復しました。すぐに来て下さい」と興奮した声を上げて話していた。
主治医の先生が僕に呼びかけた。「よく頑張ったね、ジョウ君。君は一週間も昏睡状態で意識がなかったんだよ」と説明してくれた。
僕は自分が何故褒められているのか不思議でならなかった。頑張った? 僕はあの世で、ミカエルやマリー、ピエール神父、それに弟のケンに会えたんだ。パリの町も散策できたし楽しかった。
しかし、楽しかったパリを去ってこちらに戻ってきたら、享受した享楽と引き換えに、今、全身が痛み、苦悶に満ちた顔をしてベッドの上にいる。世の中良いことだけじゃないんだな、プラス・マイナスゼロだと僕は悟った。
両親の話によると、ケンが説明してくれたように下校途中、横断歩道でトラックにはねられた。僕が手元で携帯音楽プレーヤーを操作していて音楽を聴いていたからトラックの存在に気づかなかったと言っていた。しかし奇跡的に僕は助かった。歩行者がすぐに救急車を呼んでくれたおかげで救命措置ができたのが幸いだった。
僕の意識が戻ってからも、体の怪我の治療とリハビリですぐには退院できなかった。しかし、「ジョウの命が助かったのは奇跡だ! 神様に感謝しなくちゃ!」と言い、お父さんとお母さんが泣いて喜んだ。
それから、入院中、僕はケンとの約束を思い出した。そしてケンに言われたことを話すと「頭を打って気がおかしくなった」と心配していた。そんなこともあって、やっぱりケンの話はしない方がいいと思い、それ以降、僕の口からケンの話題が上ることはなかった。
やがて病院を退院して自宅に戻った。そこには以前の僕の生活と空間が当たり前のように存在していた。毎朝、七時に起床して顔を洗い、歯を磨き、朝食を食べて学校に行く。学校では退屈な授業を受けて、友達とふざけあったり、遊んだりする。帰宅後は週に三日ほど塾に行く。暇な時は部屋で本を読んだり、テレビを見たり、ゲームをしたり、音楽を聴く。そういったありきたりの毎日が無難に過ぎていった。
病院を退院して学校に復帰した時、多くの友達が僕の生還を喜んでくれた。不思議な体験をした話をしていいのか迷ったが、今は誰にも言わない方がいいと判断した。学校の友人らもきっと両親のように僕が「頭を打っておかしくなった」と思うのが関の山だった。時々、この秘密を誰かと共有したいと思ったが、誰にも信用してもらえないだろうと思った。
僕は今、部屋の中で一人静かに音楽を聴いている。家の外では雨がしとしと降っている。過去の執着や過ちを雨で洗い流してくれるかのような慈愛に満ちた優しい雨音がガラス越しに聞こえてくる。
CDからは綺麗な音色のピアノの伴奏が聞こえてきた。マイ・ケミカル・ロマンスのウェルカム・トゥ・ザ・ブラック・パレードだった。この曲を聴いていると、大聖堂での記憶や思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
-------------------------------------------------------------------------------
エピローグ
二0一五年 冬―フランス・パリ
聖なる夜
キリストの聖人たちは、飢え、渇き、そしていかなる時でも神に仕えた
目を閉じると、まるで幸福感に包まれているように感じる
思い巡らすと、いかなる苦しみや悲しみも絶対的な存在にはなり得ない
闇の中で仄かな光を放つモミの木に囲まれて、天の恩恵を感じ、神の行いを思案する
世界中の人々が今宵、祈りを捧げる
僕は日本から直行便の飛行機に十二時間搭乗し、シャルル・ド・ゴール空港に到着した。どんよりした曇り空が低く垂れこめていた。ヨーロッパの冬の気候は天気が変わりやすく、乾燥していて、雨が多い。寒さでかじかんだ両手をこすり合わせてポケットに突っ込み、思わず身震いした。
空港は多くの帰省客や観光客でごった返していた。空港から列車を乗り継いでパリに到着すると、あの大聖堂を想起した。今、僕は、夢ではなく現実のパリの町にいる。あの夢は本当に現実だったのか実際に確かめたくなってパリに来た。そして夢の中のパリは、今僕が降り立ったパリの街並みをデジャブのような感覚に陥れた。
今日はクリスマス・イブ。そして僕の十五歳の誕生日。形式的な信仰心しか持ち合わせない僕だけど、教会に足を運ぼうと思った。
リュックサックからガイドブックを取り出し、パリ市内の地図で目的地を確認し、メトロの切符を買った。フランス語が話せないのでブロークンな英語を話したがなんとかフランス人に通じた。僕が仕込んできた即席のフランス語は「ウィ、ノン、ボンジュール、メルシー」だけだったが、案外役に立った。
メトロに乗って座席に座ると、一人の陽気なおじさんが僕たちの乗っている車両にやって来てアコーディオンを演奏し乗客を楽しませていた。日本では考えられない光景で驚いたが、パリが芸術の都だと言われている所以だと思った。
メトロを降りるとケーブルカーがあったが、僕は石の階段を上っていくことにした。マリーとルイに思いを馳せながら息を切らせ、一段一段上っていくと、ローマ・ビザンチン様式の白いドームが見えた。
聖堂の両脇には聖女ジャンヌ・ダルクとサン・ルイ王の騎馬像が立っていた。
そして、教会の周りをぐるりと一周して大空を見上げると、ジャンヌ・ダルクが天使から神の啓示を聞いたと言われている大天使ミカエルの像が聖堂の頂上に見えた。僕はまたパリのモンマルトルの丘の上でミカエルと再会したのだ。
その時、僕にはジャンヌ・ダルクのように神の声は届かなかったけれど、大空から人々を見下ろして見守っているミカエルに出会えて心が暖かくなった。
それから、僕は教会の中に足を踏み入れた。
すると、「久しぶり!」という懐かしい声が背後から聞こえた。僕が振りかえると、そこには、ピエール神父とマリーが立っていた。 僕は呆気にとられ、しばらく声も出ず、棒立ちになっていた。
「こっ、これは一体、どういうことですか?」と言って僕は唾を飲み込んだ。
「セント・ミシェル大聖堂は異次元の出入り口なんだ」と満面の笑みを浮かべてピエール神父が答えた。
「ぼっ、僕はまた異次元に入り込んでしまったのですか?」僕は女の子みたいな甲高い裏返った声を出した。
「どうやらそうみたいね」とマリーがにっこり笑った。
僕たち三人はクリスマス・イブにまた奇妙な再会を果たし「ラブ・アンド・ピース」と思いを込めて世界中の幸せを祈った。そして、「また会おう」と言って握手とハグをして別れた。
教会から外に出ると、僕は自宅のベッドの上で眠りから覚めた。部屋の中は十二月にしては比較的暖かな日差しがカーテン越しから入ってきて僕の顔を照らしていた。僕は思わず眩しさに目を細めてベッドの脇に目をやると午前七時だった。そして
「どうやらまた異次元の旅に出かけていたようだ」と呟いた。
終わり