ニコ 五
何が楽しいのか、グレイの目前に現れたニコは、その顔に彼女らしからぬ晴れやかな笑みを浮かべていた。
――隠れていろとあれだけ言ったのに。
半ば呆れ気味に文句を口にしようとしたところで、グレイは彼女の異変に気づく。
ニコの目には、光が宿っていた。
彼女の双眸は、しっかりとグレイを見据えていた。
「お前……見えるのか?」
「はい!」
幸福を全身で表現するかのように、ニコは両手を広げ、その場でくるくるとまわりだす。
「グレイさん! わたしの目、治りました! 奇跡が起きちゃったんです! グレイさんの顔、ちゃんと見えてます! グレイさん、思ったより可愛い顔してるんですね! えへへ!」
グレイは自分の童顔に少々のコンプレックスを抱いている。
普段であれば反論の一つも試みただろう。
だが、ニコにそのことを指摘されても、グレイは怒らなかった。否、怒っている暇などなかった。
状況はそれ以上に絶望的だったのだ。
グレイが先程の店主に伝えられなかったレベル憑きの最低最悪の欠点。
レベル憑きは魔物になる。
プロセスは二つ。
一つ目は一定の年齢に達した時。
一度も魔物を倒したことのないレベル1のレベル憑きは、二十歳の誕生日を迎えると《魔物化》する。
もう一つは、魔物の攻撃で傷を負った場合だ。
「あはは空が眩しいです。雲が可愛いです。すごい。世界ってやっぱり美しいんですね!」
魔物と戦う時、レベル憑きは一撃たりとも攻撃を食らってはならない。
魔物に傷をつけられると、それが蚊に刺された程度の怪我だったとしても、傷口から《魔物の概念》と呼ばれる物質が侵入する。
レベル憑き以外の人間には無害だが、レベル憑きがその概念に感染すると、
個体差はあるにせよ、概ね十分以内に、そのレベル憑きは魔物化してしまう。
これが、レベル憑きが世界中の人間から忌み嫌われ迫害を受けている理由だった。
彼らは《魔物》に対抗できる唯一の存在であり、
同時に自身が魔物になる可能性を秘めた忌み子。
「あれ? 反応が悪いですよ? どうしたんですか? わたし、目が見えるようになったんですよ? これで、もう、足手まといじゃないんです。グレイさんと一緒に魔物を倒せるんです」
グレイは胸の内で吐き捨てた。
「ニコ……お前…………………………」
なんでこうなるんだ、と。
「蛇が見えるぞ」
黄金色の蛇の模様が、彼女の身体に浮かび上がっていた。
――そうか。棘、か。
あの時、ニコの家を襲った魔物の攻撃。敵の翅から射出された無数の棘。
ぜんぶ防壁を張って落としたと思っていた。
だが、B型魔物の棘は地表に達すると、ごくまれに《はねる》ことがある。
跳弾のように。
グレイが防いだ棘の一つが床で跳ね返って、ニコの皮膚に突き刺さったのだ。
その時、A型魔物がニコの眼前に現れる。
だが、魔物は彼女の真横を素通りした。
火花放電のような光が走る。
銀灰色の幻影剣が生み出され、グレイの右手に収まった。
彼は、一足飛びでニコに接近し、
「グレイ……さん?」
きょとんと首を傾げる少女。
霧状の刃が自分の胸を貫いている理由が、理解できずにいた。
「俺が悪い」
少女を刺し貫いた幻影剣の柄を、血が出るほどに強く、グレイは握りしめる。
「何もかも俺が悪い」
ニコの胸から血は出ない。
痛みもない。
あるのは――信じていた男に裏切られた怒りだけ。
「なんで……ナンデ?」
優しかった少女の声が、擦過音みたいに歪んだ。
「アナタモ……ワタシゥォ? キョゼゥツゥウウ、スルノォオオオオオオオオ!」
金の蛇がより立体的な輪郭を持ち、ニコの体内にズブズブと沈む。
一刹那。
「ナンデエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!」
ニコの周囲に青紫の竜巻のような爆風が巻き起こり、グレイを後方へとはね飛ばした。
グレイの手から離れた大剣はニコの胸に突き刺さったまま粒子化し、消え失せる。
「イタイコワイクライニガイ! ハートガボッコボコオオオオオオオオオオオオオオ!」
地面が連続して隆起するような音ともに、ニコの小さな背中を突き破って、白い骨がぼこぼこと現れた。
人のものではない。
その骨はカマキリの腕のように屈折していた。
何より、でかすぎた。
ニコを七人縦に重ねても足りないくらいの巨骨が、彼女の体内から飛び出たのだ。
両目からは硝子体液が撒き散らされ、純白の肌が裏返り真っ黒な肉が露出した。
やがて、ブチブチという何かが引っ張られる音が響き、彼女の口から赤ん坊のような鳴き声が発せられた。
そして、ニコは巨大化した。
身体パーツを無理やり《引き伸ばす》かのように、骨格の変形と膨張が行われた。
細胞が変異を起こし、人の形を損なわせ、最後には十三メートルの巨体となった。
背中に生えた屈折骨が十二本に増えた。
ニコの手足は蚊の口器のように、細長い針状のものに変わった。
胴体は黒檀色だが、細長い手足は白色であった。
十三メートルの巨体となったニコ。
屈折骨と、深海魚のように縦に伸びた黒檀色の胴体。
白い針状の手足。モノクロ模様。
そのデザインは、ありていにいってデタラメだ。
顔だけは、まだかろうじて、ニコしての体裁を保っていたが、身体が奇怪なオブジェに変形したのに顔だけ元のままというアンバランスさが、この存在の気味悪さに拍車をかけていた。
村から逃げようとする妙齢の女性をニコは発見する。
ニコはスカスカの針になった手で、箸で食べ物を取るように女性を摘んだ。
そのまま、自分の顔の近くまで持ち上げる。
ニコの口が側頭部の辺りまで裂けた。
半分頭、半分口のような状態となる。
妙齢の女性は舌を噛んで死のうとしたが、歯がガチガチ震えてうまく噛みちぎれなかった。
かわりに、ニコがその女性ごと噛みちぎってあげた。
食事を終えるとニコはグレイの方へと振り返る。
光を宿した目は彼を捉えていた。
ニコの目が見えるようになったのは、魔物の概念が体内の細胞を作り変えたからだ。
治癒ではなく置換。
古い眼球を取り替え、魔物の眼球へ。
新しくなったニコの目がグレイを凝視する。
魔物化したニコの分類は、O型。
O型はAやBと違って姿色様々。同じO型でも姿形がかぶることはまずない。
子どもが描いたラクガキがそのまま飛び出たかのような外見をしているモノが多い。
ある種の前衛オブジェ。
未成熟な赤子の雄叫びを上げながらニコは針状の右腕を眼下のグレイめがけ、振り下ろした。
グレイは防壁魔法を張り、彼女の一撃を防ぐ。
「そうだ。俺がこの防壁魔法で攻撃を捌ききれなかったせいだ。お前を守りきれなかったから、こうなってしまった。責任は俺にある。だから俺が、責任をもって、お前を殺してやる」
ニコの腕を受け止めた防壁を解除し、一歩後ろに飛ぶ。
「穿つもの、削るもの、刺突し抉り砕くもの、この手に宿れ――幻影剣!」
火花放電のような光が両手から生まれ、一呼吸後、二本の大剣が彼の両手に握られていた。
左右の大剣を高速でグレイは振り下ろす。ザシュ! 剣閃を型どった二つの衝撃波がニコの右腕を輪切りにした。断面から、赤い血が迸った。
攻撃魔法の一種である《幻影剣》はレベルを62まで上げるとRank4になり、剣を振ると剣閃が塵旋風のような衝撃波を発して敵を断ち切ることができるようになる。ベースの魔法に能力が追加されるのだ。
右腕を失った《魔物》は痛みに苦しみながらグレイに背を向けた。
直後、背中の屈折骨がプロペラのような回転を始めた。
激しい風圧を受け、グレイは身体をよろめかせる。
回転による揚力を得たニコは、そのまま飛翔した。
空に逃げようとする彼女にグレイは追いすがろうとする。
だが、両者の間にB型魔物とA型魔物が割り込んだ。
二匹の魔物は、ニコの盾にでもなったかのように、グレイの前へ立ちふさがる。
「邪魔をするな!」
幻影剣の一振りでまずはA型のコアを破壊。返す刀でB型のコアも両断。液状化する二匹に見向きもせず、グレイは全速力でニコを追いかける。
――あの重量なら長時間は飛行できないはずだ。
予想は当たった。プロペラの回転が弱まり下降途中のニコをグレイはすぐさま発見する。
着陸予測地点は村の住宅地。
そこは人々の住み家だったために、襲撃時にそのまま殺られた者が多く、村人の死体が大量に捨て置かれていた。
破壊された家々を前に茫然自失の者や建物の影で震える者もいた。
村から脱出しようとする利口者も多く見られた。
そんな村の生者と死者の密集地にニコは降り立つ。
重量物の着地に伴う地震のような震動が、大地に広がった。
三々五々に逃げ出す虫けらのような人間どもを、ニコは睥睨する。
腰が抜けて逃げ遅れたブロンドヘアの村娘を、ニコの眼はとらえた。
その娘をニコは捕まえる。
目が見えなくなる前、ニコは村の学校に通っていた。
ブロンドヘアの村娘はその学校でニコの一つ上の学年だった。
事あるごとに先輩権限を使い、ニコを苛めていた。
仲間たちに彼女の身体を拘束させ、怯えるレベル憑きの少女に無理やりナメクジを食わせたこともある。
実際にニコが涙目でナメクジを飲み込むと彼女は仲間と一緒に手を叩いて爆笑していた。
今度はナメクジではない。
食べられているのは彼女自身。
手を叩いて笑うものは誰もいない。
食後、ニコは地上スレスレの位置まで下げた針状の左腕を横薙ぎに払った。
瞬間、紡績工場で働く工員の男と村医者の老人、両名の上半身と下半身が血のシャワーとともに独立した。
工員は半年前、盲目のニコが持っていた視覚障碍者用の杖を面白半分で盗んで折ってゴミ箱に放り込んだ張本人。
村医者はニコを母親のお腹から取り上げたこともあるが、生まれた彼女がレベル憑きだとわかると、その後、妻子ともども一切の治療を拒絶した。
グレイがようやく村の住宅地にたどり着く。
そこで彼の視界に入ったのは、魔物化した少女による凄惨な殺戮の場面だった。
止めに入ろうとして、彼は思いとどまる。
――止める? 俺が? ニコを? どうして? 理由は? 述べよ。
解。村人を救うため。
「――は」
嗤った。
ジャンルが違う。
そっち方面は正義の味方が取り仕切ればいい。
二本の大剣を手から離すと、重量のない幻影の剣は地面に落ちる前に形を崩して消滅した。
村人たちをひき肉に変えていくニコの様子を、グレイはただ見守る。それだけ。
目の前で暴れるO型魔物はもう彼の知っているニコではない。
ただの敵だ。グレイ・メンデルスゾーンの天敵だ。
だが、彼女の動きは他の魔物とは少々違っていた。
《一生懸命》だった。
この村の人間を残らず葬り去りたいという強い意志のようなものがそこには宿っていた。
「いいさ、待ってやる。終わったら声をかけてくれ。俺とお前の殺し合いは、その後だ」
差別された少女が、自らの肉体的変容と引き換えに手に入れた強大な力。
与えられたその力を使って彼女は老若男女の区別なく、大っ嫌いな村人たちを殺してまわる。
――助けるな。
グレイは心の中で自分に言い聞かせる。
――助けるな。
――助けるな。
――助けるな。
――助けるな。
――お前が嫌いな人間をお前は助けるな!
――奴らはニコ(レベル憑き)を差別し続けた。
――それは俺への差別と同義だ。
魔物と同等かそれ以上に、彼は差別主義者を憎んでいた。
――命の価値は平等じゃない。
――俺は選別する。恣意的に、自分勝手に、助けるべきものとそうでないものを。
――差別を主導するもの。差別に加担するもの。差別を黙認するもの。
――皆、同罪だ。
――この村の人間は、全員、論ずる余地なくアウト。
「死ね。差別主義者の馬糞どもが」
ニコの生得的属性を憎悪し、貶め、時に直接的な暴力を振るい、その存在を全否定し続けた村人たちの肉片が空に撒き散らされる。
一方的な惨殺行為も半ばを過ぎた頃、六歳の童男とその母親へとニコは迫った。
母は息子を自分の背に隠し、必死に守ろうとする。
針状の両腕が鞭のようにしなった。
攻撃は母子の頭上をかすめ、背後の建物を削り取る。
童男が声を上げて泣き出す。
逃げ出したくなる自分にむち打ち、母はニコを睨みつけた。
ニコが両腕を振り上げる。
狙いを定めた。今度は外さない。
――ニコ、心配するな。復讐。それがどれほど残虐であっても。
――俺はお前の行動を肯定する。
――お前の殺戮を肯定する。
針状の両腕が矢のような速さで同時に振り降ろされ――
その直後。
「ヴォルテック・バスタアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
裂帛の気合とともに放たれた魔法の一撃が、ニコの攻撃を文句なしに防ぎきった。
ヴォルテック・バスター。
猛炎の渦を己の武器に纏わせる攻撃魔法。
これを付呪した武器を一振りすれば、猛炎の渦が熱風となって敵に放たれる。
炎風に巻かれたニコはたまらず母子から距離を取った。
入れ替わるように、ヴォルテック・バスターの使い手が母子とニコの間に着地する。
燃えるような赤毛のツンツンヘア。端正な顔立ちに引き締まった身体。身長はグレイより十センチも高く、傭兵然とした軽鎧を身に着けていた。
そんな高身長の美男子は、グレイが団の中でもっとも毛嫌いしている仲間だった。
彼は傭兵団《ノアの繭》の団員。
名は、レッド・フォルラーヌ。
弱冠十七歳の人類の味方だった。
勧善懲悪の王道物語の世界ならば、確実に主役を張れる人格であった。
「あんたら、無事か!」
団内一の熱血漢は、暑苦しい声で母子に呼びかける。
唖然としながらも、目の前に立つ若男の問いに二人は首肯した。
他の団員に先んじて村に駆けつけてみれば、老若男女の死骸が村のあちこちに捨て置かれていた。
この住宅地も、状況は同じ。人が死んでいる。たくさん死んでいる。魔物どものせいで。
レッドの内心にて、激憤のマグマが噴出する。
「大丈夫だ。みんなオレが守る。もう誰も死なせやしねえ」
背を向けたまま、後ろの母子に彼は伝えた。
はっきりと、確かな口調で。
炎を纏った東方大陸産の刀剣をレッドは両手で握りしめ、正眼に構えた。
ニコの背中の屈折骨。その尖端が、眼下のレッドを狙う。
十二本の骨の尖端に光球のようなエネルギー波が蓄積される。魔物化したニコの必殺技だ。チャージしたそれを放射すればレッドだけでなく、辺り一帯は粉微塵に吹き飛ぶだろう。
――させるか、んなこと。
聳え立つニコ(魔物)をレッドは睨み上げた。
「いいかバケモノ。俺は今猛烈にブチキレてんだよ。何の罪もねえ村人たちの命をてめえは奪いやがった。冷たい死人の顔に変えやがった。許さねえ。絶対にだ!」
熱い奔流をぶちまけ、レッドは唱える。
悪を討つ正義の魔法を。