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自走する監獄  作者: 日下鉄男
本文
29/30

自走する監獄

 

監獄の拳で殴り飛ばされたマリア。


巨大な図体が倒れた重みで地面が陥没し地形が変わる。


 監獄はマリアを殴った腕でオリヴィアを掴むと、急ぎ、その場を離れた。


 ミリア王国の国境地帯まで逃げたところで、手の中のオリヴィアを土偶の頭へと収納する。


【百年ぶりの自律稼働に身体が慣れず、救出が遅れた。すまない】


「ま、マーレイ。これは、いったい……あなた、自力で動けたのですか?」


 念話ではない。マーレイの声は明らかにこの監獄から直接聞こえてきた。


【我が身の魔法(呪い)が解けた。記憶のサルベージに成功したのだ】


「記憶の……サルベージ」


【思い出した、ということだ】


「いったい、何を?」


【全てを】


 マーレイは語り始める――レベル憑きと自己の真実を。



◇◆◇



 魔物という生命体には二つの種族が存在する。


 完全変態と不完全変態。


 不完全変態はオリヴィアたちが日頃狩っている魔物(ABO型)だ。


 魔物の大半はこれに分類される。


 レベル99になる前にレベル憑きが魔物化した場合も、この不完全変態となる。


 そして、完全変態は――不完全変態よりも進化が進んだ上位種。


 高度な知性と力を持ち、人語を解する。


 声帯も赤子ではなく、レベル憑きだった頃のものを保つ。言語野も同様だ。


 レベル憑きだった頃のもの――そう、完全変態はレベル憑きからのみ、生まれ出るのだ。


【レベル憑きはレベル99で完全変態へと進化する。主の母も同様に、覚醒した】


「なぜですの? レベルが99に上がれば、レベル憑きは人に成れるはずだったのでは……」


【『レベル憑き・魔物解体新書』の執筆者は名をカスパールという。東方大陸の学者で、自身もレベル憑きだった。それまで謎に包まれていたレベル憑きと魔物の生体構造を研究し、体系化してあの本にしたためたのだ――ただし記述には一部、虚偽が含まれているがな】


 四百七十一から四百七十二ページ。レベルが99にカンストしたレベル憑きのその後の部分。


【奴はレベル憑きがレベルを上げた先に待つ真実を知っていた。知っていながら嘘を書いた。真実を知ればレベルを上げずに自殺する者が増加するのは必至。それでは困る。彼にはもっと、吾のような――完全変態の魔物の研究サンプルが必要だったのだ】


「マーレイのような?」


【吾も――完全変態の魔物だ】


 がつんと、頭蓋を殴られたような衝撃がオリヴィアに走る。


 自分は、魔物の体内に入り、魔物そのものを操縦していたというのか。


【怖くなったか?】


「……いいえ、続けてくださいな」


【勇敢だな。だが心配はするな。吾は完全変態だ。有象無象の不完全な魔物とは違う。自分で言うのもなんだが、人間への害はゼロに等しい】


「疑ってなどおりません。わたくしを舐めないでくださいまし。三年も一緒におりましたもの。あなたが人の敵ではないことくらいわかっておりますわ」


【ふふっ。さすが、吾が見込んだ半魔の子だけはあるな】


「わからないのは……魔物であるあなたがどうして、わたくしのようなレベル憑きと契約を結んで、使役される存在となってしまったのでしょうか?」


【理由は簡単だ。カスパールが、吾の身体を隅々まで、弄くりまわしたのだ】


 百年前。《彼女》はカスパールに鹵獲された。


 カスパールは自身の魔法を使い、マーレイの記憶を封じ、自律性を奪い、体内を弄くり、レベル憑きとの契約抜きでは動くこともままならない《道具》に彼女を仕立て上げた。


 それは学者であるカスパールの実験の一種であった。


 道具となった彼女はカスパールの属する国家に買われ、そこでレベル憑きや魔物を閉じ込めるための《監獄》として利用されることになる。


 利用者の東方人たちは、マーレイが魔物であることを知らなかった。


 月日は流れ、東方大陸のあらゆる国家は魔物によって滅ぼされる。


 マーレイは生き残った東方人とともに北方大陸へと渡った。カスパールの本もその折に北方へと持ち込まれた。後にマーレイが魔物であることを知った東方人たちは度重なる議論の末、マーレイを魔の山脈へと閉じ込めることに決める。カスパールの魔法で束縛されているとはいえ、いつ、魔法が解けて暴れだすかわからない。そのリスクを彼らは恐れたのだ。


 そして五十年前、前王バルト・エアバッハが彼女を発掘し――


 現王ヨハンの妻であるマリア王妃の覚醒によって、マーレイの封印も解かれた。


【レベル憑きが完全変態へと変ずる時、強大な魔力波が発生する。その風は吾に当たり、同種である我が身の細胞を震わせ、忌々しきカスパールの呪いを打ち消したのだ。偶然が生んだ産物だ。主の母には感謝してもしきれん】


 結果マーレイは失われていた記憶と自律性と声を取り戻した。


 今の彼女は契約者であるオリヴィア以外とも、念話ではなく生の会話が可能だ。


 マーレイの話を聞き終えると、オリヴィアは脱力したように、床にへたり込んだ。


「つまり、何もかも無意味だった、ということですのね」


 レベル99になればこの呪いが解けて本当の人間になれると思っていた。


 現実は、一人の学者先生による捏造だったわけだ。


 じゃあ今まで自分は、何のために、魔物を狩ってきた?


【言い忘れていたが、主の母は完全変態ではあるが、不完全だ】


「……マーレイ。おっしゃっていることの意味が、その、よくわかりませんわ」


【レベル99になったレベル憑きは一度繭へと変化する。繭の中で心身を作り変えて羽化することで完全変態の魔物になる。そして、この羽化までの間には一年もの期間を要する】


 オリヴィアは思い出す。ハウンド城の地下でマーレイがオリヴィアに警告した内容を。


【主の父が繭を無理やり引き千切った。それは出産時期のはるか前に母の胎内から子を取り出すに等しい。不完全な状態での羽化は正常な心身の形成に至らず、理性無き姿が生まれる。今のあれは魔物の本能、つまり破壊という願望に支配されておる。あれが羽化した時、一度大声で鳴いたことを覚えているか? あれは仲間を呼んだのだ。これも本能から生じる行動だ】


 ミリア王国を覆う大量の魔物はマリアが呼び集めた。その事実にオリヴィアは愕然とする。


「あの森のなかで、お母様はわたくしの心に語りかけました――コロシテ、と」


【人としての自我がまだ残っていたのだろう。しかしそれもすでに消滅しているはずだ、見ろ】


 ガラス状の物体(監獄の目)が浮かび上がる。その目を通して彼女は王国を覗き見た。


 王都をマリアは蹂躙していた。その巨体で街を踏み潰し、半壊していたハウンド城も、憎しみをぶつけるように両腕を振り回して破壊し、最後には手を広げて獣のように咆哮する。


【最早ただの魔物だ。意思疎通はできん。不可逆的に、な】


「…………」


【あのままいけば、奴は半日以内に魔物の群れを引き連れて隣国を襲うであろうな】


「わたくしに、どうしろと?」


【ノアの繭は魔物狩り専門の傭兵団。主はそこの団長だ。まだ、団は解散していなかろう?】


「魔物であるあなたが、魔物を倒せと、そうおっしゃるのですか?」


【何をいまさら。吾は人ではないが人の心は捨てていないと自負しておる。吾の年表において、魔物の味方になったことはただの一度もない】


 オリヴィアは逡巡する。


「でも、わたくしはこれ以上、戦えない。グレイさんも魔物になってしまったんです。どう足掻いてもレベル憑きは魔物へと変わってしまう。どこまでいっても本当の人間には成れなくてずっと人から差別され続ける運命で……それでも、人のために戦えるほどわたくしは……」


【誰が、人間に成れないといった?】


「え?」と、オリヴィアは顔を上げる。


【レベル憑きは人間に成れないだと? 吾はそんなことは一言も発していない】


「成れるの……ですか?」


【カスパールの著作には嘘の記述と、書かれなかった真実がある。奴は完全変態を増やすため、一つの真実を嘘で上塗りした――よく聞けオリヴィア。方法は存在する。レベル憑きがその刺青を消滅させる方法が、魔物となったレベル憑きを人に戻す方法が、一つだけ】


 それは、


【無論、実現のために、主は痛みを伴う必要があるがな】


 福音だった。



◇◆◇



 マーレイとオリヴィアの契約はまだ続いている。


 自律稼働自体には問題ないが、契約者であるオリヴィアからの操縦を受け付けた方が、マーレイは、より素早く、より正確に――動くことができた。


 土偶の頭の二つの石版に触れると東方大陸の古代文字が輝き――空中に浮かび上がった。


 マーレイの体内組成の一部が、カスパールに魔法で弄られる前の状態に回帰した。真の力を取り戻した彼女。その身体に埋め込まれた操縦システムにも、目に見える変化が生じたのだ。


 古代文字が蛍のように宙を舞い、土偶の頭を明るく照らす。


 土偶の目から外を見る。荒れ狂う超巨大魔物(母)。空と地面を覆う不完全変態の魔物ども。


 景気づけに紅茶を飲むべきか迷い、


「いえ」


 椅子の下の収容スペースに隠していた冷凍ボックスを、オリヴィアは取り出す。


 中には大量のコォラの瓶。


 彼女は王都でこっそり大人買いしていたのだ。


 これが最後になるかもしれない。背伸びして紅茶を飲むのは、もう止めにしよう。


 ボックス内の氷によってキンキンに冷やされたコォラを一本取り出し、ガブ飲みする。


「クソうめぇですわ!」


 収容区時代の下品な言葉遣いとお嬢様言葉が、混ざった。


 飲み干した瓶を投げ捨てるとオリヴィアは宙を舞う文字を捕まえ、組み換え、意味付けした。


 それは、監獄の新たなる起動術式。


「いきますわよ、マーレイ!」

 


◇◆◇



【経験値を16200獲得しました】


【レベルが84に上がりました】


【シロ・クロを覚えました】


 エーテルの声がオリヴィアの脳内で、告げる。


 獲得経験値、上昇レベル、習得魔法を。


 マーレイとオリヴィアの契約は続いている。契約者の恩恵。監獄を操縦して倒した敵の経験値は、契約者本人に加算される。マーレイが腕を振ったらば、空を飛ぶB型魔物が束で地に落ち土へと還った。数十体分の経験値は全てオリヴィアに振り込まれた。


 二本の足で監獄は疾走する――王都へと。


 進行を邪魔する魔物は薙ぎ払う。足元から上ってきた大量のA型魔物は監獄の外壁に電磁パルスを張って《爆散》させた。


それは、カスパールの魔法が解けたことで使えるようになった、マーレイの完全変態としての能力の一つ。


さらに土偶の目からも高出力のビームを撃ち出し、空の魔物を一掃する。


その光景を眺めていたマリアは、前項姿勢となり、翼を広げた。


 マリアの口端が裂け、ビラビラの口器が露出する。彼女の腹が青く明滅し、背中の翼も、赤から青へと、発光色を変えた。


【いかん! 避けろ!】


 超高温熱線射砲――青の光条が吐き出される。凄まじい魔力波が王国に吹き荒れた。


 光条は多数の不完全変態の魔物を巻き込んで、オリヴィアとマーレイへ襲来する。


 瞬時、オリヴィアは文字を捕まえ、監獄の巨体を意図的に転ばせた。


 間一髪、転倒した監獄の頭上を青の光条は通過し、魔の山脈に直撃。


 直後、文字通りの大爆発――山脈の半分が消失した。


 爆風は大量の塵や岩石を含んで空へと舞い上がり、成層圏を抜けて宇宙まで達した。


【あれが死火山で良かったな】


 マーレイの軽口を聞き流し、オリヴィアは監獄を立たせる。


 自身の体内に宿る最大級の武器を撃ち放ったマリアは、腕を垂らせ、その場で固まっていた。


【攻撃の反動で動きが止まった! 一時的なものだ! 好機を逃すな!】


 ――言われなくとも!


 四十一メートルの監獄を動かし、五十メートルのマリアの間合いへと飛び込む。


 ――躊躇するな。躊躇するな。躊躇するな! これはもう、母じゃない!


 四つの文字を手掴みし組み合わせた。命令文が監獄へ伝わる。マーレイ、殴りなさい! オリヴィアの叫びが轟く。巨木のような右腕が打ち出され――拳が、マリアの胸部にめり込んだ。


 胸部の表皮がボロボロと崩れ、中に埋め込まれていた極大のコアが露出した。


 雄叫びを上げるマリア。左手の鉤爪から、天なる者が蓮池より垂らす蜘蛛の糸のようなレーザーを射出。五本のレーザーが監獄マーレイの身体を貫く。それは土偶の頭をも貫通し、操縦者であるオリヴィアの真横を突き抜けていった。


 マリアはさらに右腕を鞭のように薙いで監獄の左足を切り落とした。


 片足を失った監獄は左側に大きく傾く。中のオリヴィアも壁に叩きつけられた。


 頭から血を流し、意識を失いかける彼女の耳に、


【まだ、手の中だ!】


 残った右足の膝を屈しながらも、めり込ませた右手で、敵のコアをしっかりと握りしめるマーレイの声が届く。


【関節部をやられた。これ(コア)を握り潰すことは叶わぬ。あとは主でなんとかせよ!】


 うつ伏せの状態から両腕を伸ばし、少女は起き上がる。


「マーレイ! 以降は完全自律稼働で頼みますわ!」


 そう言ってオリヴィアは四層フロアまで降り、射出口から外に飛び出す。


 上を見上げると、マーレイの右腕が架け橋となって、マリアの胸部まで伸びている。


 オリヴィアは、大きく息を吸った。


 乾坤一擲。マーレイが繋いでくれたマリアへの道をオリヴィアは駆け上る。


 示し合わせたように、進行方向上からB型やA型魔物がオリヴィア目掛け襲い掛かってくる。


「我は魔。我は呪。我は光。深淵の箱、鍵穴をこじ開け、希望を見つけよ」


 呪文詠唱。それは、習得したばかりの上級《攻防》魔法。


「――シロ・クロ!」


 現界せし十三の光球がオリヴィアを囲み、皮膜の防壁を張る。オリヴィアに触れた魔物が粉々に砕けた。それでも魔物は次から次へと、ひっきりなしにオリヴィアへ向かってくる。


「貫き通しなさい!」


 オリヴィアが命じた。一三の光球が、圧縮した魔力の矢を生成。物体という物体を分け隔てなく貫く魔法の矢が――光球より一斉に放たれた。


【レベルが85に上がりました】


 オリヴィアの矢が一挙に四七体もの魔物の命を奪い、彼女のレベルを上げる。


 ステータス上昇。走力も上がった。なら走れる。もっと早く。お母様の元へ!

 攻防一体の上級魔法、シロ・クロで雑魚魔物を蹴散らしながら、オリヴィアは走る!


 十、五十、百、途上で討伐する魔物の数がどんどん増えていく。討伐数には、マーレイがオリヴィアのアシストのために空いている左腕を使って押し潰し、土偶の目の高出力ビームで焼き切った魔物も含まれ、しかし経験値は全てオリヴィアに合算されるので――


 当然、こうなる。


【レベルが86に上がりました】


【89に上がりました】


【ツキノ・ブレイドを覚えました】


【93に上がりました】


【96に上がりました】


【97に上がりました】


【レベルが98に上がりました。あと一歩ですよ、頑張ってくださいね】


 まさか、エーテルの声から激励の言葉を頂けるなんて、とオリヴィアは思った。


 気がつけば進行方向に存在する不完全変態の魔物の数は、ゼロになっていた。


「ツキノ・ブレイド!」


 それは、レベル憑きオリヴィアがレベル92で習得する最上級攻撃魔法。


 発動条件は、先に、シロ・クロを使うこと。


 展開した十三の光球がオリヴィアの右の手のひらに集まる。


 光球同士がくっつき、溶けて混ざり合い、固まり、一つのカタチを成していく。


 それは、剣であった。


 オリヴィアの髪色と同じ、黄金色の剣。


「あああああああああああああああああああああ!」


 最後の全力疾走。叫び声は自分を奮いたたせるため。


 そして、母殺しの痛みを誤魔化すため。


【オリヴィア】


 頭の中にマリアの声が入ってきた。それは片言でもなく、断片的でもなく、おぼろげでもなく、はっきりとした理性と意志を宿していた。


【私、明日が誕生日なの。二十歳になるの。でもね、私、レベル憑きだから、今まで、祝ってもらったことって、ないの】


 喉が焼けんばかりの絶叫を上げながら、黄金の剣をはすに構えて、ゴール地点へ。


【一日早いけど……娘のあなたに、おめでとうって、言ってもらいたいんだ】


 オリヴィアの目尻を涙が伝い落ち、風に飛ばされた。


【それが、私の――最後の願いだから】


 その声は、もしかしたら何かの幻だったのかもしれない。


 それでも、オリヴィアは――マリアのコア(心臓)に、剣を突き刺し、


「お誕生おめでとうございます(愛しています)、お母様」


 血の繋がらない魔物(母)へと、真心を伝えた。


 コアに開いた亀裂が蜘蛛の巣状に広がる。


 完全変態の魔物は不完全変態とは違い、死んでも液状化はしない。


 代わりに、体内に閉じ込めていた魔力が拡散され――大爆発を引き起こす。


 マリアの死は、空気中を伝播し、巨大な爆風と火の玉を作り出した。


 王都の建物や死体や魔物を一緒くたに巻き込んで――


 聖域歴、一一六七年どし、六ノつき二十ノ七日


 大陸中西部に位置する小国、ミリア王国に小さな恒星が生まれ。


 王国は、滅んだ。



◇◆◇



【おめでとうございます。レベルが99になりました】


 侵食した刺青が、オリヴィアの顔の右半分を犯していた。


「マーレイ、ここでいいですわ」


 監獄の手に乗っていたオリヴィアは、森林地帯のとある場所で降ろしてくれと伝える。


 左足のないマーレイに、無理に歩かせてしまったことを内心で詫びながら。


 爆発の寸前に、マーレイはオリヴィアを自分の右手におさめて、その場から脱出した。爆風には巻き込まれたが、火の玉(恒星)の直撃は受けなかったために、両名とも致命的な怪我は負わずに生還することができた。


 レベル99となったオリヴィアの脳内では、さっきからエーテルの声が延々と、オメデトウ、オメデトウ、と鳴り続けている。


 ミリア王国に襲来した魔物どもは、マリアの爆発に巻きこまれて全滅した。


 いや、全滅ではない。


 一匹だけ生き残った者がいる。


 白骨のように真っ白な刺青がオリヴィアの身体に浮かび上がっていた。


 もうすぐ、自分は母のようになるだろう。


 でも、その前に。


「もしもし、そこのお方」


 大樹に寄りかかり、身を縮こまらせるO型魔物の背中に、彼女は声をかけた。


 あの戦闘の中、黒い鎧と白の背びれを持つ彼の姿は見えなかった。気配も感じなかった。


 だから、躊躇なく、やれた。


 オリヴィアはエゴイストだった。マリアとの戦闘時、オリヴィアが殺した魔物の中には、ノアの繭の団員の成れの果ても多数混ざっていた。


 しかしオリヴィアは、彼らもまとめて殺した。


 自分のレベルを上げるために。


 母とそれに付随する魔物の群れとの戦いからオリヴィアが逃げ出さなかったのは、行ったこともない国の出会ったこともない人々を魔物の脅威から守るという明瞭な正義感からではなく。


 目的は、多数の魔物を殺すことによる経験値の獲得。レベルをカンストさせることにあった。


 オリヴィアに声をかけられたO型魔物は、彼女に背を向けたままガタガタと震えだす。


「ふふっ。魔物のグレイさんは、とても臆病さんですわね」


 片目を閉じ、冗談を口にするオリヴィア。


 白い刺青が粘着質な《糸》へと変化を始める。


 魔物化したグレイは、レベル憑きだった頃からは考えられないほどのビビリだった。


 もしかしたら、彼の本質は臆病者だったのかもしれない。気弱で傷つきやすく、差別されることを恐れ、それゆえに攻撃的に振る舞う術を身に着け、心に鎧を張っていたのかもしれない。


 いずれにせよ,筋金入りの臆病魔物は、先の戦闘にも参加せず森の隅で縮こまっていたために、ただ一匹だけ、生き残ることができたのだ。


 O型魔物が後ろを振り返る。


 自分より遥かに小さな少女が、自分のそばに立っている。


 記憶にはない。でも不思議と、これを壊したいとは思わない。


 魔物は、疑問を覚える。


 どうして、この少女は、慈しむような微笑みを自分に向けてくれるのだろう?


「マーレイ、あとは頼みましたわ。わたくしたちを守ってくださいまし」


【ああ。委細承知した。任せ給え】


 二人の間に合意が形成された。


 糸が彼女の身体を覆い尽くす。


 そして、一つの巨大な繭が完成する。


 繭からまた新たな糸が伸び、魔物のグレイの身体に巻き付いた。


 グレイは抵抗しなかった。


 人肌のように温かく、まるで――母の胎内に直接触れているみたいだったから。


 オリヴィアの糸がグレイを引き寄せる。


 そして、無数の糸で彼を包み込み、自分の繭の中に取り込んだ。


 森の中に、静寂が訪れた。


【おやすみ、オリヴィア】



◇◆◇



 魔物化の呪いを解く方法は、一つだけ、ある。


 完全変態の魔物はレベル憑きから繭に変わる時――自己の意志に基づき、レベル憑き、あるいは不完全変態の魔物に変じた元レベル憑きを一体だけ繭の中に《取り込む》ことができる。


 取り込まれたレベル憑きや元レベル憑きの魔物は、取り込んだ者が完全変態となって羽化する時、一緒に繭から吐き出される。


 吐き出されたモノは、もうレベル憑きでも、魔物でもない。


 レベル憑きであれば魔物化の因子が消滅し刺青が消える。


 すでに魔物化していた場合も、元の姿形を取り戻し、同様に刺青が消えてなくなる。


 ――お母様があの時、わたくしに糸を伸ばしたのは、そういう理由だったのですね。


 呪いを解くチャンスが、オリヴィアにもあったのだ。


 マーレイからその事実を聞かされても、オリヴィアは残念だとは思わなかった。


 むしろ、喜んだ。


 母が自分を選んでくれたことを。自分を本当の人間に変えようとしてくれたことを。


 今度は自分の番だ。


 わたくしが、グレイさんを――魔物の呪いから解き放つ番だ。



◇◆◇



 レベル憑きたちはいつもこう言う。人間になりたいと。真の、本当の、まともな、ちゃんとした、立派な、恥ずかしくない、バケモノモドキではない、人間になりたいと。


 では、レベル憑きは人間でないのか? 刺青がある。魔法が使える。レベルを上げられる。将来、肉体が変質する可能性がある。でも、それだけだ。それ以外は、人と何ら変わらない。


 人と同じように、飯を食べ、排泄し、惰眠を貪り、言葉を交わす。


 誰かを憎み、誰かを愛することができる。


【そうか、オリヴィア。主はその男を……好いていたのだな】


 マーレイは自身を人間と規定している。レベル憑きだった頃からずっと。


 魔物の身体になった今も、宿る魂は、ヒトのものであると、誇りを持って言い切れる。


 ――安心せよ、オリヴィア。


 枝葉の隙間から陽光が宝石のようにキラキラと光り、二人が眠る繭へと降り注いだ。


【たとえ肉体が変質しても、人であることを否定しなければ、主は人のままでいられる】

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