レベル憑き 三
雲の上でオーロラのような赤い翼を広げ、マリアは地上を見下ろす。
「あれが、お前の母親なのか?」
「ええ。レベル九九になったお母様は、あのお姿に……」
オリヴィアはハウンド城で起きた一連の出来事を余さずグレイに説明した。
雲の上にいても、マリアの姿は視認できてしまう。
あまりにも大きいから。
「なぜ、降りて攻撃してこない?」
「わかりません。ただ、なんとなくですが……お母様は葛藤しているように感じられますわ」
母は、まだ人としての自我が残っているのでは? 間近で魔物化したマリアと対面したオリヴィアは、彼女が他の魔物とは何かが違うという思いを抱いた。
「お母様の件は後回しです。まずは地下水路に向かいましょう」
避難用の地下水路の件は当然オリヴィアも把握している。
生き残りの団員もそこに避難しているかもしれない。彼らと合流してから改めてミリア王国に巣食った忌々しい魔物どもを退治するというプランをオリヴィアは提案し、グレイは従った。
襲ってくる区内の魔物を両者は息の合ったコンビネーションで蹴散らす。
街道に出ると道を逸れて森林地帯へと走る。
森の中の一際低い位置まで来ると、小川が流れていた。流れに沿って歩くと生い茂る木々に隠された地下水路の入口を発見する。
本来そこには木製扉が付けられていたが、二人が着いた時にはすでに壊されていた。
羆が無理やりこじ開けたような破壊跡が、最悪な事実を二人に告げる。
「急ぐぞ。もう中に魔物が侵入している」
◇◆◇
ぴちゃり――濁った水に浸かりながら、地下水路をレッドは進む。
軽鎧はひび割れ、全身の骨が折れ、血管は破れ、内蔵が潰れ、生きているのが不思議なその身体。
エンチャントの重ねがけは二十回にのぼっていた。
累積されたバフ魔法が彼の命を、かろうじてつなぎ留めていたのだ。
しかし、そのバフも、もう解けようとしている。これ以上の重ねがけは不可能だ。
「いかねえと……魔物が入り込んでんだ……人が……襲われる前に、オレが……救うんだ」
◇◆◇
一方。レッドが助けようとしている地下水路の避難民の列では。
「吾輩は国務大臣だがネ! 先に通すがネ!」「どけ! ボクは市民団体の長だぞ!」
道化師のフールと会長のネオが、怒声を上げながら人垣を退かそうとしていた。
魔物の鳴き声が人々の背中越しに聞こえ始める。その声が避難民にパニックをもたらす。引率役となった王都の神父は避難民を落ち着けようとしたが、伝染した恐怖は収まらない。
一匹のA型魔物が避難民に向かって猛然と突進してきた。
ネオが自分の逃げ道を塞いでいた九歳の少女とその母親を突き飛ばした。
すかさずA型が口器を開けて飛びかかる。
狙うはネオに転倒させられた母娘。
「やらせるかぁあああああああああああああああああああ――――――!!」
炎の渦を纏わせた刀剣が、母娘を噛み砕こうとするA型魔物の身体を縦にかっさばいた。
満身創痍の状態で振るわれたレッドの剣技。
その反動にレッド自身が耐えきれず、液状化したA型の死骸の上へ受け身も取れず倒れる。
レッドは喉を震わせ血を吐いた。全身が凍えるように寒かった。
呼吸を整えてからレッドはなんとか立ち上がり、魔物に襲われてへたっていた母娘のところへ向かうと――屈み込んで破顔一笑、娘の頭を撫でた。
「けがは……ないか?」
「う、うん」
彼女は自分が助けられたことよりも、傷だらけの彼の方をむしろ心配してしまった。
「おにいちゃんのほうが、すごく痛そう」
「こんなん、かすり傷だよ」
「ありがとうございますありがとうございます!」
少女の母親はレッドに何度も頭を下げる。
激怒したのは、ネオとフールだった。
「売国奴め! レベル憑きに助けられて喜ぶな!」
「同感だヨ! ゴキブリから恩を受けるくらいなら死ネ! 死んでしまエ!」
場がしんと、静まり返った。
多数の非難の目が向けられる――ネオとフールに。
避難民の引率役を引き受けた王都の神父が、一歩前に出た。
「我々は、けものじゃない。今この場で誰がまともで、誰がまともじゃないかくらいは、判断ができるつもりだよ」
ネオの頭が一気に沸騰する。この神父、ボクに意見するつもりか。さてはこいつレベル憑きシンパだな。売国奴が――今殺してやる。
釘棍棒を握り神父を撲殺しようとするネオの背中へ、二つの足音が響いた。
「……よぉ、てめえら。遅かったじゃねえか」
レッドが顔を上げ、地下水路を進んできたグレイとオリヴィアに声をかけた。
「レッドさん! 無事でしたのね!」
安堵するオリヴィアとは対象的に、グレイは殺意を含んだ目でレッドを睨みつける。
「これはこれは、偽りの姫君、よく生きていたネ」
道化師の声がオリヴィアの耳朶を打つ。
「……っ! フール・モリタ!」
「臣民を見捨てて逃げ出してきたというところカ。さすが偽りの姫君。恥ずかしくないのかネ?」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますわ!」
オリヴィアは両手で握り拳を作り、道化師に吐き捨てた。
「うひょひょ、言うようになったネ! んん、それはさておキ! ヨハン王はいずコ?」
「……父は、死にました」
衝撃的な事実の暴露に、避難民は一気にざわついた。
「うひょひょひょひょ! それはァ、残念至極だヨ!」
「フール、あなたはもう父の影を演じる必要はありませんの。そんな化粧は洗い流しなさいな」
「嫌だネ! 始まりは王の命だったが、今はこの道化こそが吾輩自身ダ! うひょひょひょ!」
道化師は面白おかしく踊りだす。笑うものは誰もいない。
「またレベル憑きが増えたのか! まさにゴキブリだな! どこにでもわきやがる!」
突然の来訪者に対し、手に持った釘棍棒を振り回して威嚇するネオ。それを見たグレイの顔色が変わった。
真剣な表情で、ネオの持つ、返り血がべっとりと付着した釘棍棒を凝視する。
「どうしたゴキブリ! この武器が珍しいか!? せっかくだから殴り殺してやるよ!」
ネオの右手に握られた釘打ちの棍棒。グレイには見覚えがあった。武器自体にじゃない。
その武器で頭蓋を砕かれたとしか思えない死体を――ついさっき見つけていたのだ。
「お前、パープルを殺しただろ?」
人違いだといけないので、尋ねた。
パープルという単語を聞き、一瞬呆けたような顔になった後、ネオはぽんと手を打った。
「ああ、あれか。目を潰したら姦しく鳴いてたガキね」
ピキッ――地下水路の天井にひびが入る。
「確かに、そいつならボクが成敗したが、それがどうし」
言い終わらない内にネオの右手首は斬り落とされた。
汚いだみ声で奇声を上げるネオの脇腹目掛け、グレイは幻影剣を横一文字に振る。
ネオの胴体を斬り裂く前に、レッドの刀がグレイの凶刃を防いだ。
グレイの攻撃に耐えられず、パキンと、ジャスティス丸の刀身が折れる。武器を失ったレッドは勢い、グレイの腰にしがみつき、ネオから引き剥がす。
「やめろおお……おおお、グレイいい……」
「離せ。パープルの仇だろ、こいつは!」
「ころすんじゃねええ……」」
「パープルはお前の大切な幼馴染だったんじゃないのか!? むしろお前が討て! こいつを殺せ!」
ひび割れた天井が崩れた。
そいつはムカデの身体を持っていた。左右合わせて二十四本の足は人型で、口にはドリル状の牙が生えていた。その牙を使って地下水路に向かって掘り進んだのだ。
そいつは穴掘りが得意な、O型魔物であった。
天井から土砂が、何もかもを巻き込んで流れ落ちる。ようやく崩落が止むと地下水路の中は積もった土砂により森林地帯に繋がる西側と、隣国の国境検問所へと通じる東側に分断された。
東側にはレッドやグレイ、オリヴィア、そして避難民たちがいた。
みんな無事か! 神父が叫ぶ。複数人がランタンの明かりをつけた。暗闇の中に光が灯り、目前に巨大ムカデの腹が映った。彼らはランタンを落として逃げ出す。
巨大ムカデの前に、グレイとオリヴィアが立つ。
「オリヴィア様!」
自分たちを守る少女の背中へ、神父は呼びかける。
「民を連れてお逃げなさい! 魔物はわたくしたちが倒します!」
「し、しかし……それではあなたが……!」
オリヴィアが神父へと振り返り、口端を上げる。
「わたくしは、この国の王女ですわ。民を守るのは当然のことです」
神父とその後ろに控えるミリア人たちへと、彼女は優雅に微笑んでみせた。
幾人かのミリア人の目から、涙が溢れる。
それを見てオリヴィアの中にも熱いものが流れた。
レベル憑きの養子に過ぎない自分のために、泣いてくれる人がいる。
オリヴィアにとって、その事実は何にも勝るほど心嬉しいことであった。
神父がオリヴィアの前で十字を切り、深々と頭を下げてから、避難民を引き連れて歩きだす。
オリヴィアは願った。
――どうか、彼らが一人も欠けずに生きて隣国へとたどり着きますように。
オリヴィアの願いとは裏腹に、すでに二つの命がここで散っていた。
「あ」レッドが「ああ……」崩れた土砂を見て「あああああ」その土砂の山に埋もれた小さな手を直視し、「ああああああああああ」――破裂した感情が慟哭となって迸った。
彼が助けた母娘はO型魔物が起こした土砂崩れに巻き込まれ、命を落としていた。
「手が! 手が! ボクの手があああ!」
土砂の向こう側。斬られた右手首を押さえて絶叫するネオの声が、レッドの耳を捉えた。
「ぎゃあああ、こ、こっちにも魔物が現れたヨ! た、助けろレベル憑き! 早ク! 早ク!」
今度はフールの悲鳴。分断された地下水路の西側にはネオとフールがいたのだ。
グレイたちと対峙するO型とは別に、二匹のA型魔物が、地下水路西側の森林地帯からフールたちに迫っていた。
絶望の淵に沈みかけていたレッドは、顔を上げ、土砂を素手で掻き出し始める。
「……………………何をしているんだ? お前は」
頬を引きつらせ、グレイは問いかけた。
レッドとグレイの間に挟み込まれる形でO型魔物は立っていた。
しかし、背後のO型魔物をレッドは完全に無視し、わき目も振らず、土砂を掻き続ける。
「……たすけるんだよ……向こう側の……人たち……を」
O型魔物がドリル状の鼻を回転させグレイを狙った。
グレイの隣にいるオリヴィアが魔法を撃とうと右腕を上げたが、その前にグレイが全てを終わらせた。彼は回転する敵の牙の先端に剣尖をぶち当てる。面ではなく点による攻撃。火花が散り、O型の牙が傘のように広がって砕け散る。牙を無くして悶える魔物をグレイはコアごと斬り捨てた。
戦闘の間中、グレイは一度もO型を見なかった。
その視線は土砂を掘る死にかけのレッドにのみ向けられていた。
「いい加減にしろ。お前が救おうとしているのは虐殺先導者とパープルを殺したクズだぞ」
「ぱーぷるはしんだけど……むこうがわのやつらは……いきてる……いきてるなら、たすける」
「――っ!」
グレイは混乱していた。混乱はやがてどうしようもない程の怒りに変わった。
――こいつの行動は理解の範疇を超えている。
「よ、よし! 早く来いレッド! 真の名誉人類であり続けたいなら、ボクらを助けろ!」
ネオが浮薄な依頼を言い終えた直後、A型魔物二匹がフールに飛びついた。
「うひゃひゃひゃひゃひゃ、痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたーーーーーい、うげぇ!」
苦痛と快楽が綯い交ぜになったかのような断末魔の叫び声を上げ――A型に食い荒らされた道化師(王の影)は、あっけなく、命を散らせた。
その死は誰にも笑われない。
フールが食われる様を間近で鑑賞してしまったネオが、震え上がる。
「い、いいいいい急げ、急げええええレッド! うわああああ!」
――やべえ。早く、早くこの土砂をどかさねえと。
「それ以上手を動かすな、レッド!」
「……うっせえよ……オレはてめえとはちげえ……正義の味方………なんだ。魔物から人を救う。レベル憑きと人が笑い合える世界を実現して……姉さんの夢、叶えるんだ……はぁ、はぁ」
――そうすりゃあ、死んだパープルも、スノウも、収容区のみんなも、ノアの繭のみんなも、むくわれるんだ。だから掘るんだ、おれ。ほって、むこうがわへ……はやく……。
――ああ、なんでだ。めがみえねえ。からだのかんかくもねえ。
――あれ? ぱーぷる? ぱーぷるなのか? おまえいきてたのか。それに……ねえさんもいる。はは、ねえさん、ひさしぶり。よかった。ふたりとも、そこにいたんだな。たく、しんぱいさせやがって。まってろ。これからひとだすけをしたら、すぐにふたりのところに、おれ、
――これからは、ずっと、さんにん……いっしょだ……な……。
エンチャントの効果が、切れた。
反動がくる。
目鼻耳口鈴口肛門爪先毛穴、全身のありとあらゆる穴から血を吹き出し、身体中の骨という骨が砕かれ、心臓を破裂させ、脳が壊死し、内蔵機能が残らず停止して――レッドは崩れた。
落ちゆく身体が、地下水路の地面に届く前に、彼の命は終わっていた。
オリヴィアがレッドに駆け寄り、抜け殻となったその身体に縋り、大声を上げて泣きじゃくる。
ぎりり、とグレイは奥歯を噛みしめた。
擦り切れるほどに、噛みしめた。
――こいつはただマジョリティに認められたかっただけのクズ。そのはずだ。なのに、この敗北感は、いったいなんなんだ?
――どうしてこいつが勝ち逃げしたみたいになっているんだ!
「や、やめろ。くるな、あっちいけ! し、し、し!」
フールの死骸を食い切った二匹のA型は、今度はネオに狙いを定める。残された左手でネオは釘棍棒を拾い上げると、野良犬を棒切れで追っ払うように、その棍棒をA型どもに振った。
二匹が怯む様子はない。血と肉片のついた口器を開き、ゆっくりとした動作でネオへと近づく。
「お、おいレッド! はやくはやくはやく! ああこのさいレッドじゃなくもいい! だれか! おいレベル憑きども! このバケモノどもをおっぱらえ! おっぱらってください!!」
全身全霊。文字通り命がけの哀願にオリヴィアは動いた。土砂を退かすために攻撃魔法の詠唱を開始する。その口をグレイは押さえて、レッドの死体の真横にオリヴィアを押し倒した。
「ぐ、グレイさん、何を!?」
成長途上の少女が持つ柔らかな腹部にグレイは馬乗りになり、オリヴィアを動けなくする。
「どいてください! あの方を助けませんと!」
「助けるな!」
グレイはオリヴィアの言葉を真っ向から否定し、幻影剣を彼女の喉笛に突きつけた。
「奴を助けるなら、お前を殺す!」
――奴はパープルを殺した。収容区のレベル憑きをたくさん殺した。差別心と快楽を満たすためだけに。そんな奴を助ける義理は世界のどこにもない。
「オリヴィア、レッドは異常だ。普通は助けない! 普通は助けないんだよ!」
土砂の向こうではA型の一匹がネオの足に食らいつき、引きずり倒していた。
「落ち着けやめろ話せばわかるこら腹に牙をたてないでうわああああああああ!」
懇願虚しく、腹部は噛み開かれる。
「助けて!」
「助けない!」
単刀直入にグレイは怒鳴った。
「だすげで!」
「助けない!」
助けて! 助けない! 助けて! 助けない!
そんな、意味のない応酬が続く。
グレイの脳裏にはかつて彼が見捨てた人間たちの姿が現れては消えていく。
そうだ、ラクマ村でも俺は、村人を見殺しにした。ニコに石を投げたデブガキを、ニコにピラフを出さなかった料理店の店主と奴の二人の娘を――全員が差別主義者であったから。
「差別主義者は死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね!!!!!」
呪詛を、グレイは撒き散らす。
A型二匹の共同作業によって、ネオの腸が引きずり出された。
「まってだすな、なかにしまって! 腸ないとちょうこまる。あ、こら右腕引っ張るな、ああ取れた、右腕取れた。痛い。やめろ、ああ左腕も取れた。ひ、つぎ右足左足もう堪忍して。歩けなくなる! ああ、腸が全部抜けた。もう消化できない。誰かくっつけてけろ。ぼろぼろになったボクのからだもういちどつないでけろ。ぎゃああああ足もなくなったあああああああ!」
地獄の底の亡者が吐き出すような叫喚。
「ごぼっ。だるまああやだあああ、ぎぃゃああ~~~~~~~~~~!」
耳を塞ぎたくなる気持ちをぐっとこらえ、オリヴィアは両手でグレイの顔を鷲掴みにした。
「贓物を裂くピンクと赤の煌めき実存の魚が泳ぐ比類無き自己愛の拡大解釈冬に絶滅――!」
「こら!」
ネオの叫喚を打ち消すために意味のない言葉をまくし立てるグレイへと、少女の喝が轟いた。
彼女はグレイの顔を掴んだまま、ぐいっと、自分の方へ顔を無理やり向かせる。
「グレイさん! あなたは、あなたのために彼を助ける必要はありませんわ! わたくしのために助けなさい!」
正義という一面において、レッドと違いオリヴィアに確たる信念があるわけではない。
ただ、彼女は人間でありたかった。どんな相手でも目の前で助けを求められたら反射的に助ける。それが人間の善性であり、刺青持ちのレベル憑きであろうとも、そこは変わらない。
グレイは眼球だけ動かしレッドの死体を見た。血まみれの死に顔はあまりにも安らかだった。
畜生と言ってグレイは立ち上がると目の前の土砂を対象に、テスラを放つ。昇雷が、O型が空けた穴を通じて土砂を地上まで吹き飛ばした。水路を塞ぐ障害物が無くなる。
グレイはネオを貪る二匹のA型へと突進し、がむしゃらに叫んで斬って、一瞬右腕に痛みが走ったが構わずコアを砕き二匹とも絶命させ、開腹された腹から内蔵が剥き出しになり、手足がもげた達磨に近づくと、そいつの胸ぐらを掴んだ。
「お前なんか助けてやりたくなかった! 俺は、本当は! スノウやパープルや団員のみんなを! あの村にいたニコを――ブルーを、救いたかったのに!」
もう、ネオにグレイの言葉は届いていない。
ママ……と、一言だけこぼして、ネオ・キガリは首をかくんと下げ、命の灯火を消した。
グレイは膝をつき、頭を抱えて、
「俺は、俺は、俺は、俺は、俺は――」
狂気と絶望の沼へと、自らを沈めていく。
オリヴィアが、グレイの後ろに立つ。
そして、彼を、自分の胸に抱きしめた。
強く、強く。グレイを底なし沼からすくい上げ、心から癒やすように。
「オリヴィア」
「はい」
「俺はクズか?」
「…………」
「救う命とそうでない命を線引きする俺は、間違っているのか?」
「……あなたは」
とくん、と、
「正直な方なんです」
彼女の心音がグレイの耳朶を打つ。
このままオリヴィアの胸の中で、ずっとこの音を聞いていたいとグレイは強く思った。
しかし、願いは叶わない。
数十メートル先までの天井が一気に崩壊を始める。
グレイが撃ったテスラの膨大な熱量によって、部材の強度が弱まったのだ。
グレイはオリヴィアを抱え上げ、崩落する天井から逃れるために走り出した。
レッドの死体の上に大量の土砂が覆いかぶさって、彼の姿は誰の目にも見えなくなった.
東側通路は十メートル先までが、土砂と崩れた部材に埋め尽くされた。
国境検問所へと通じる東側の道はもう塞がれて使えない。
かろうじて崩壊の波から逃れたグレイとオリヴィアは、仕方なく、来た道を戻る。
互いに手を繋ぎながら。
◇◆◇
「さっきは見苦しいところを見せて、悪かった」
「あら、わたくしはまったく気にしておりませんわよ。むしろ普段は偉そうなグレイさんの弱い部分が見られたので、内心と~っても喜んでおりますわ」
「……まったく。いい性格してるよ、お前は」
悪態をつきながらも、繋いだ左手にグレイは力を込める。
「森林地帯に出たら、できるだけ遠くまで逃げるぞ」
――おそらく生き残った団員は俺たちだけ。
二人であれだけの数の魔物の相手をするのは、さすがのグレイも無謀だと判断した。
オリヴィアだけは、絶対に死なせないとグレイは内心で強く誓う。
森林地帯を出ると、空はモノクロ模様に覆われていた。
地下水路に入る前と比較して、数十倍も多くのB型魔物が空を飛んでいたからだ。
王都や収容区は、完膚なきまでに魔物に征服されていた。
グレイの右腕が、ずきりと、傷んだ。
痛みの原因を探るべく、彼は自分の右腕を持ち上げ――息を呑む。
「グレイさん? お怪我をされているなら、わたくしが治療を」
「近づくな!」
物凄い剣幕にオリヴィアはたじろぎ足を止める。いったい何だとグレイに抗議の目を向けたところ、彼の右手首についた噛み跡を発見し、目を見開いた。
グレイの身体に、黄金色の蛇が浮かび上がる。
「そんな……どうして!」
「……感情に任せてがむしゃらに斬るのはよくないな。手元が疎かになってしまった」
地下水路の中、ネオを助けようと剣を振ったグレイの腕に、A型が食らいついたのだ。
グレイが薄汚れた灰色の手袋をオリヴィアに向かって放り投げる。
「悪いオリヴィア。それ持って逃げろ」
彼は口の端をつりあげ、ぎこちなく笑った。
「全力で、俺から逃げろ」
青紫の爆風が起こる。
骨格が膨張する。
遺伝子レベルで異なる生物へと組み替えられていく。
爆風の後に現れるは、黒い鎧を全身に纏い、白い背びれを背中に生やした四足歩行の生命体。
全長十二メートルのO型魔物、だった。
同時に空から超巨大魔物、マリアが降りてくる。降下の自重で森の中に地震が起こり鳥たちは空へと逃れる。
五十メートルの母と十二メートルのグレイを目の前にしてオリヴィアは膝から崩れ落ちた。下肢に力が入らない。一歩も動くことができない。虚無感が少女を支配する。
銀の仮面の向こうの双眸が、オリヴィアを捉えた。
【――コロシテ】
オリヴィアの脳内に念話のような何かが流れ込んできた。
それは間違いなく母の声だった。
「え?」
オリヴィアは顔を上げて、五十メートルの魔物を見上げた。
【ワタシヲ、コロシテ】
「おかあ……さま?」
鉤爪の生えた母の右手がオリヴィアに迫った。
刹那、巨大な質量が大地を疾走する――地鳴りのような音が轟いた。
針葉樹をなぎ倒し、マリアとオリヴィアとグレイの前に――
「マーレイ!?」
高さ四十一メートル。横幅四十五メートル。
土偶の頭を持つ自走する監獄が出現した。
監獄は寸胴体型をひねり、巨木のような豪腕を振り上げ――
マリアの顔面に右ストレートを叩き込んだ。




