プロローグ
大陸南東にラクマ村という小さな村落がある。
紡績業が盛んだが、それ以外には大きな産業もなく、村人の生活は貧しくもなければ裕福でもない。
北方大陸に存在する村々の中では、平均的といっていい生活水準であった。
村の一角。料理店の勝手口兼廃棄品の捨て場所として使われる裏路地に、二つの影がある。
一つは、四つん這いで食べ物を求める少女。
もう一つは、そんな少女の背後に立つ男。
「ゴミ捨て場の残飯を漁るのはおすすめできない」
眼下の少女を淡褐色の目で見おろしながら、裏路地の男は忠言する。
彼は細身の若男だった。
歳は二十一だが成人を迎えているとは思えないほどに童顔。背も同年代平均より下回る。
だが幼さの残る顔立ちに比して、目つきだけは異様に鋭い。
乾燥した墨汁のように艶っ気のない黒髪は、前髪の左側だけ白髪になっている。身に纏うは赤いロングコート。履いているのは刺繍入りの黒いロングブーツだ。
「生ゴミは雑菌が繁殖する。胃に入れればあとは運勝負だ。運が悪ければ腹を壊すはめになる。腹を壊せば下痢が出る。下痢が出れば脱水し体力を失う。体力を失うと死ぬ」
男の言葉を、しかし当の少女は聞いていない。
食事に夢中だったから。
一心不乱に、不衛生な食料を口に放り込む彼女の名は、ニコ・ノクターンという。
歳は十三。愛らしい顔立ちをしているが、その姿格好は、元の素材を完全に殺すほどにみすぼらしかった。ライトブルーのセミロングヘアは手入れがまったくされておらず、枝毛だらけ。着ているものは粗末な貫頭衣。しかも裸足。
そんな浮浪児のような出で立ちで、料理店の勝手口に捨て置かれた大量の廃棄品を彼女は貪り食っていた。
「だから食うなと言ってるだろ」
先程より強めに伝えると、ニコは自分が声をかけられていることに、ようやく気づく。
「あ、あの……どなた、ですか?」
彼女は声のする方へと振り返り、弱々しく尋ねる。
男はそこで、違和感に気づく。
少女の目には、光が無かった。
「お前、見えないのか?」
問われたニコは、はっと俯き、恥ずかしそうに右手で目元を隠した。
男が目を細め、顔の前に掲げられた彼女の右手の甲を凝視する。
そこには青い刺青が刻まれていた。
彼らが暮らす世界で一般的に使われる十進記数法とは違い、古代の象形文字のようなデザインだった。
が、《刺青を持つもの》なら誰でも解読できる。
ニコの右手の甲に存在するこの入れ墨は、数字の1。
つまり彼女はレベル1ということになる。
その事実を受け、男は内心で嘆息した。
――まさかこんな辺鄙な村で《レベル憑き》に出会うとは。しかも目が見えないときた。
――盲目のレベル憑き、か。この世界で生きていくには、どうにも、難易度が高すぎるな。
「ご、ご、ごめんなさい」
か細く弱々しい声が赤いコートの男に許しを求めた。
「も、もう三日も、何も食べていなくて……ほ、ほんとはいけないんですが……つい……」
「親は? 金の持ち合わせもないのか?」
「お母さんは……い、いるんですが、何日も前から声が聞こえなくて。お、お金は、ないです。いつもお母さんが管理しているので、わたしには持たせてくれなくて。それにわたしがお店に行っても……」
ニコが言い淀む。
「う、売ってくれないので、誰も」
石塊が飛んできた。
鈍い音を伴ってニコの側頭部に当たる。
「きゃ!」
女の子の悲鳴を彼女は上げた。
「おい、れべるつき! まっ昼間から出歩くなよ!」「目ざわりなんだよ!」「ばーか!」
ぶつけられた箇所を両手で押さえて蹲るニコに向かって、投石犯である三匹のガキどもの悪口が飛んでくる。
それは彼女の日常においてはありふれた一コマ。
いつものことだ。慣れっこだ。村の子どもたちに石をぶつけられるのは。
大人が率先して自分をいじめてくるのだから、子どもが真似するのは当たり前だ。
だからニコは蹲ったまま、嵐が過ぎ去るのを待とうとした。
赤いコートの男は動いた。
三人の悪ガキのうち、一番横幅のあるデブに近づく。
「あんた誰? 旅人さん? てか。なんでおれを睨んでんの? 殺すよ?」
デブガキは村の有力者の息子だったので、大人を恐れない。村の大人は父の報復が怖いので、誰もこのデブガキに逆らえない。殴られずに育った彼は無敵だった。
無敵の彼は当然、目の前にいる異様な目つきの旅人野郎も、脅し文句一発で退場だと考えていた。
男は無言で屈み込み、その柔らかなデブガキの額へと――
頭突きをかました。
ボコっという骨の響く音とともに、真後ろに倒れたデブ。
転がった脂肪だらけの腹部や下顎、顔面などを男は何度も踏みつける。
無表情に、無感動に、ゴキブリを潰すがごとく。
デブは声を上げて泣きわめき、七秒で負けを認めた。
お仲間の悪ガキ二人は哀れなデブを放って逃げ出す。
「ま、まってくれ~!」
デブも全身の痛みに耐えながら立ち上がると、転がる肉団子のように二人の後を追って赤コートの男の前から消えた。
「……えっと、な、なにが起きたのでしょう?」
不安げな声を上げる少女の前髪についていた翡翠の髪飾りが、陽光を反射して小さく輝く。
男は左横にある二階建ての料理店を見上げ、ニコへと声をかける。
「ここで昼食をとろうと思っている」
「は、はあ……」
「一緒にどうだ?」
「は、はあ……え?」
「残飯よりは、まともなものがでる可能性が高いぞ?」
「あ、あの、わたし……」
「なんだよ?」
「む、むいちもんなので」
「さっき聞いた」
「か、かへいがないと、お外のご飯、食べられないです」
「これも何かの縁だ。おごってやる」
少女が首を傾げた。
「そ、それはつまり、ど、どういうことですか?」
奢るという意味をニコは理解できないでいた。そんな言葉は生まれてから一度として聞いたことがなかった。
「俺がお前の分までメシ代を出すということだ」
ニコが驚きに目を瞬かせた。
――そんな人、今までいたことない。お母さん以外の人たちは、みんな、わたしに厳しかった。
少女の右手が何かを探すように、空を切った。
男は察し、差し出されたニコの右手を握る。
冷たい手だった。死体と何も変わらない。
「あの、お、お名前を聞いても、よろしいでしょうか?」
「俺のか?」
「は、はい……あ、そっか。人になのるまえに、まず、自分から、だった。お母さんがいってた。うん……えっと、わたしは、あの、ニコです……そういう名前のひとです」
「俺は……」
面と向かって人に名を告げるのは久しぶりだなと、彼は思った。
「グレイ。グレイ・メンデルスゾーン。そういう名前の傭兵だ」