ミリア王国 三
王都のメインストリートは透き通ったヴァスト川によって二分され、川の南側が住民区、北側が商業区となっている。
商業区のシュテール大通りには様々な商店や文化施設が立ち並ぶ。
一年の半分は雪に覆われている王国だが、今は初夏の季節。
気候は冷涼で避暑地としては最適な場所だった。
シュテール大通りの国立美術館にグレイ、スノウ、オリヴィアの三人が入っていく。
王族であるオリヴィアは変装用のサングラスをかけ、帽子をかぶっている。
王都めぐりの初手に美術館を提案したのは彼女だ。
館内には国内外の著名な美術家の絵画が展示されていた。
「見てください。フアン・ヨンハーの『木苺』ですわ。写実視認派画家であるフアンの代表作。牧歌的でありながら野性的。どこにでもある木苺が彼の手によって見事な意味付けがなされておりますわね。あ、これはシプリアノの『三本足で立つ馬と六五歳の貴婦人』。彼の灰色時代の作品ですわね。この時期に描かれた作品がこの作者に新たな視点を与え、彼は後にあらゆる角度から見た風景を一つの平面に圧縮した革新的技法であるビュービズムを生み出すのです」
額縁の中の絵画を前にしたオリヴィアは、突如、水を得た魚のようにまくしたてた。
「あははー、ダンチョー、超楽しそうだね」
オリヴィアの問わず語りを邪魔しないように、スノウはグレイに耳打ちする。
「でも正直、アタシ馬鹿だから、こういうゲイジュツって、よくわかんないんだよねー」
「安心しろ。あいつも本当は何もわかっていない」
「そうなの?」
「俺はあいつが前に土偶の頭の中で美術史の本を必死に読んでいる姿を目撃した。その知識を丸写しで喋っているだけだ。生まれの悪さに起因するコンプレックスだな。成り上がり者は得てして、過剰な文化資本の摂取を行おうとするんだ」
「えー、でも読んだ本の内容を暗記して人に話せるだけでも立派だと思うなあ。アタシ本とか読めないもん。活字を追ってるとすぐ眠くなって寝ちゃうんだよね。病気かな?」
「商隊が売ってるカストリ雑誌を買え。お前好みの内容が多いから飽きずに読み切れるぞ」
「めっちゃばかにしてない!? グレちゃんアタシのことめっちゃばかにしてない!?」
「気のせいだ」
「おふたりとも、わたくしの話をちゃんと聞いておりまして!?」
振り返ったオリヴィアが眉根を寄せて文句をつける。
「あはは、ダンチョー、めんごめんご☆ もっと絵について教えてー」
スノウが人懐っこい笑顔でオリヴィアの元へ駆け寄り、彼女の解説の続きを促した。
オリヴィアの話していることの意味は一ミリも理解していないが、それでもスノウは「なるほどすごい!」等、オリヴィアの薀蓄を絶賛する。
当のオリヴィアもまんざらでもないご様子。
――他のレベル憑きと同様、スノウも親から捨てられ、
グレイがスノウを拾うまでは祖国で浮浪児として生き続けた。
不幸な生い立ちと不幸な人生の上にスノウも成り立っている。
にも関わらず、彼女は自分の境遇に怒りをもたず、誰も憎まない。
レベル憑きも人類も関係なく、皆に笑顔でいてほしいと思っている。
その思考回路がグレイには、不思議でならなかった。
◇◆◇
次に一行は商業区にある高級喫茶へ入った。
これもオリヴィアの提案だ。
ここでも彼女は持ち前のスノッブ精神を発揮し、運ばれてきた紅茶の香りを楽しむパフォーマンスを取りながら、やれ茶葉がどうだの銘柄がどうだの産地がどうだのと、聞いてもいないことを饒舌に語りまくった。
だが、オリヴィアのドヤ顔知的教養アピールそれはつまりお前らとは住む世界が違うわたくし最高アピールに辟易していたグレイは、店の中で事前にある仕込みを行っていた。
「このロヴァは薔薇の香りに似たやわらかい芳香でありながら、味わいは刺激的で奥深く――」
「それはロヴァじゃない。ロヴァはこっちだ」
自分の手元にあるマグカップをグレイは指し示す。
「ふぇ!?」
可愛らしい声を上げ、口に含んだカップの紅茶をオリヴィアはまじまじと見つめる。
「お前がトイレに立った時に、俺が頼んだ安物の紅茶とすり替えておいた」
スノウが、うわぁまた変な対抗心燃やしてるよこの子、みたいな顔でグレイを見た。
「テイスティングマウントをかますつもりなら、もう少し舌を肥やせ。今のお前はそもそも紅茶を受け付ける舌になっていない。苦手なものを無理に称賛するのは身体に毒だ」
「で、ですから! わたくしは紅茶が苦手などとは一言も……」
「収容区にいた頃は紅茶のコの字にも興味がなかっと聞いたぞ」
「だ、誰がそんなことを!?」
「お前と顔なじみだった収容区のガキどもだ」
「――っ!」
「前に俺があそこにふらっと立ち寄った時に、チクってくれてな。ああ、そういえば、収容区時代のお前は、配給品で出された安物の紅茶を一口飲んで吐いて捨てたとも聞いたな」
カップを持つオリヴィアの手がぷるぷると震えだした。
「こういうのは変に形から入ろうとするな。躓くぞ」
ソーサーの上に乱暴にカップを置くとオリヴィアは真っ赤な顔で椅子から立ち上がる。
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふかゆいですわ!」
「不愉快な」
「怒りで舌が滑りましたの!」
そのままオリヴィアは脱兎のごとく店から出ていった。
店に残された二人。
スノウが、グレイの肩をぽんと叩く。
「グレちゃん。ここの会計、払っといてね☆」
◇◆◇
肩を怒らせ、二人を置いていきそうな勢いでオリヴィアはシュテール大通りを進んでいた。
「ダンチョー、そろっと機嫌なおそーぜー」
「放っておいてくださいまし!」
「めんどくさいやつだな」
「いやいやいや、グレちゃんもちょっとはフォロー入りなよ」
「なぜ俺が? 煽り耐性に欠けるあいつが悪い」
お前が言うな、と、スノウは内心でマジに突っ込んだ。煽り耐性の無さにおいて団内でグレイの右に出るものはいない。
「はぁ~~~~~~」
スノウは東方大陸の伝統料理である《流しそうめん》のように長いため息をつく。
「どうしてそう、グレちゃんってやつは、いじわるなんだろう。だめだよ、それじゃあほんとだめだ。もてないよ、まずいって。好きな子に意地悪していいのは八歳までだって」
「誰が誰を好きなんだよ……」
「ダンチョーのこと、嫌いなの?」
「嫌いなら俺はとっくに団を抜けている」
「じゃあ、好き?」
「普通だ」
「普通に嫌い? 普通に好き?」
「お前は俺からなにを引き出したいんだ?」
「いいから答えてよー」
「別段、嫌いではない」
「じゃあ好きなんだ」
グレイは観念したように肩をすくめた。
「……もうそれでいい。勝手にしてくれ」
「あははー、うけるー」
広がる快晴をスノウは見上げた。
「グレちゃん、最近、ちょこっと思い詰めてるよね? この前の……ラクマ村での魔物退治辺りから、いつも以上にしかめっ面が増えたよ? あの村でなんかあったの?」
「……どうしてそう思う?」
「グレちゃん、色んなことを割り切ってるように見えて、割り切れてないとこあるから」
「…………」
「もしかして、ラクマ村にレベル憑きの子でもいた?」
「…………」
「グレちゃんがアタシを助けてくれた時みたいに、その子も助けようとしたり?」
「…………」
グレイは何も答えなかった。
「ま、いっか」
アイスブルーの双眼をグレイの方へ向けて、勇気づけるように彼の背中を叩く。
「ほら、ダンチョーのところに行ってこい。こういう時はね、男の子の方がちょっとだけ頑張って、へそを曲げた女の子の機嫌を直さないといけないんだよ。法律でそう決まってんの」
渋々、グレイは前を歩くオリヴィアの隣に立つ。
「な、なんですの?」
戸惑い気味にオリヴィアは言った。
「喉、乾かないか?」
「先程、紅茶を飲んだばかりですわよ」
「飲みかけで出てきただろ。俺は渇いた」
グレイは通りの露天商で、氷を詰めたケースに入れられ、キンキンに冷えた瓶のコォラ(世界中で売られているポピュラーな炭酸飲料水)を人数分購入する。
次いで、商人から手渡された瓶コォラの一つをスノウに放り投げた。
「グレちゃん、さんきゅー☆」
ほら、と言ってオリヴィアにもコォラを差し出す。
「そ、そんな大衆的でお子ちゃまな飲み物、わたくし、飲みたくありませんわ……」
「冷たくてうまいぞ」
収容区の子どもたちからグレイは聞いていた。
昔の彼女は炭酸飲料に目がなかったことを。
オリヴィアは瓶のコォラを受け取り、反射する瓶の蓋を見ながら、ごくりと喉を鳴らした。
逡巡はすぐに終わった。
瓶の蓋を開けると、口では嫌と言いながらも、
「もきゅ、もきゅ」
変な効果音で喉を鳴らしながら、オリヴィアは飲んだ。炭酸一気飲みを敢行した。紅茶を飲んでいる時より、明らかにその顔は高揚している。満足気である。
「ぷはっ……ふ、ふん。こんなの、おいしくもなんともないですわね」
「おかわりもあるぞ?」
グレイの手には自分の分のコォラの瓶。まだ蓋は空いていない。
「……ぐ、グレイさんが飲みたくないなら……わたくしが処理する分には吝かではありませんわ」
王族の地位に放り込まれ、それに相応しい淑女たろうとするオリヴィア。
そんな彼女のはしたない瓶コォラ二本分の一気飲みと、その後に鳴ったゲップ音が、グレイたちの耳を炭酸以上に刺激した。




