③
公園の片隅。そこだけがひんやりとした涼しい場所になっていた。
美千代が大きく深呼吸をする。
土肌を撫でるように、チョロチョロと湧き出る水。
美千代は呼吸を整える。
伸ばした手に伝わる冷たさ。
「冷たい」
はしゃぎ声を上げる美千代を、引き攣った笑顔で洋平が見ている。
もうそれほどまでに醒めてしまっているのかと、美千代は思い知らされる。
湿気た場所。
洋平にはそう思えるのだろう。
態度に出す洋平を横目に美千代は、一度目を瞑る。
「何だこれ、全然役に立ってないし」
洋平が看板を見てせせら笑う。
「早く行こうぜ」
「待って」
叫ぶように言う美千代を、驚いた顔で洋平が見る。
大事な目的。
どうしてかな、無性にあなたとここへやって来たかった。
初めて会った時、運命的なものを感じたのも本当。そしてやがて訪れるだろう別れも予知していた。
すべて承知の上で始められた恋。
そうだずっと分かっていたんだ。
「私、ここに何が書かれているのか知っている」
目が上げられないまま言う美千代に、洋平が半笑いで返す。
「嘘つけ」
「嘘じゃないもん。ちゃんとばあちゃんから教えてもらったもん」
「はいはい」
相手にしてくれない洋平を無視して、美千代は勝手に語り始める。
だってすべてわかってしまったから。理屈じゃない。だけど美千代には確信があった。
これは、遠い遠い昔の話です。
道は草花が生い茂り、人も虫も動物も自由に生きていた頃、たいそう働き者の権助という若者がおりました。
権助は、母一人子一人の身。貧しくその日に食べるのがやっとの暮らしをしていました。
朝は畑仕事に、夜は藁を編み、少しでも暮らしの足しになるようにと、時々村へそれを売りに行くのです。
その頃同じくして、一里ほど離れた村に、睦という娘が住んでおりました。
睦はあまり器量はよくはありませんでしたが、権助に負けないくらいの働き者で、人里離れた小川へ何往復もして、皆の為、水を汲みにやって来ます。
ゆるりと流れるせせらぎに合わせ、睦が水を汲んでおりますと、「気持ちがいい」という声が聞こえ、かおをあげます。
驚くことに、滅多に人など来ない場所です。それがどうでしょう。向こう岸で男の人が、気持ちよさそうに顔を洗っているではありませんか。
それは、村まで藁で拵えたものを売りに行った帰りの権助です。
いつもなら山道を上がって戻って行くのですが、村で小川の水は良薬と聞かされ、体がめっきり弱ってきた母親の為に、汲みに寄ったのです。
向こう岸で、睦が同じように水を汲んでいることを、権助は全く気が付いておりません。それどころか、散々歩いて来て火照ってしまった体を冷やそうと、上半身着物をはだけ、ジャブジャブと浴びるように顔を洗い出す有様でした。
睦はもう何年も通っておりましたが、ここで人に会うのは初めてのことです。目を大きく開き、その光景に見入ってしまいます。
「ひゃっけい、ひゃっけい」
ぶるっと頭を振った権助は、腰にぶら下げてあった手拭いで顔を拭ったところで、初めて対岸に睦がいることに気が付いたのです。
睦は権助と目が合ってしまい、大慌てでその場から離れようと、大急ぎで水を一杯張った桶を肩に掛けた拍子に、足を滑らせひっくり返ってしまいました。
さぁ大変です。
その水音は、鳥も魚も大騒ぎにさせます。
慌てた睦は手足をばたつかせ立ち上がろうとしましたが、足が滑って上手く行きません。
さてさて、それを目の当たりにした権助は、着物が濡れるのも構わず川を渡り、睦をひょいと抱き上げ岸へと上げてやったのです。
わずかな言葉を交わした二人に、静けさを取り戻した小川のせせらぎが、恋の歌を奏でます。それに合わせ鳥がさえずり、草花が彩って行きます。
それからというもの、月にいっぺん会うこの日を、二人は待ち遠しくしておりました。
そんなある日のことです。
いつものように権助が藁を編んでいますと、戸口を叩く音がし、母親と権助は顔を見合わせました。
こんな夜更け、ましてや山深い場所を訪ねて来るものなど想像が付きます。
息を飲み母親が見守る中、権助は鉈を構え、そっと戸を開けました。
「お助け下さい」
流れ込むように倒れ込んだできた女は、権助の胸で小さく震えているではありませんか。
「わたくしは決して怪しいものではありません。人に追われ、ここまで逃げて参りました」
胸元に顔を沈めていた女が、救いを求めるように権助を見上げます。
なんとも言えぬ美しさでしょう。
色が白く、一糸乱れた黒々とした髪に真っ赤な唇。怪しい光を持つ瞳が、権助を虜にするのに、数分もかかりませんでした。
「分かった。事情はよく分からんが、あなたが気が済むまでここで暮らせばいい」
権助は、あっさりと女を家へ招き入れてしまったのです。
一呼吸を置いて洋平を見る。
まるで無関心で、携帯に目を落としている洋平に構わず、美千代は語り続ける。