第44話 猫の身にも
今日も善次郎の部屋に、いつものごとく美千代と洋平が尋ねていた。
なにがあったか知らないが、活の機嫌が悪い。
体調が悪いわけではないのは、善次郎にはわかっていた。
善次郎が会社に行っている間に、夏と喧嘩でもしたのか。
それとも、激しく降る雨のせいなのか。
夏はというと、いつもと変わらず普通にしている。
別に、夏となにかあったというわけではなさそうだ。
それにしても、いつもおっとりしている活が機嫌が悪いというのは珍しい。
善次郎は、そのことを美千代と洋平に告げて、今日はあまり活に構うなと注意した。
「大丈夫だよ」
善次郎の注意も聞かず、洋平はベッドの上で丸くなっている活を、無理やり抱こうとした。
その時、活が洋平の手を咬んだ。
結構、本気だった。
美千代も洋平も、活や夏に咬まれたことはおろか、爪を立てられたたことすらない。
初めて咬まれたのが、洋平にとって、よほどショックだったのだろう。
いつもの洋平らしからぬ行動に出た。
「なにすんだよ」
声を荒げて、力まかせに活を振り放した。
活が、ベッドの上に落ちる。
猫は、そのまま尻尾を巻いて逃げるような性格はしていない。
洋平に反撃しようと、前身を低くして身構えた。
「やるのか」
振り上げた洋平の腕を、善次郎が掴む。
そのまま、思い切り捩じ上げた。
美千代は、そんな二人と活の間を阻むように割って入ってり、優しく活に声をかけている。
「おい、洋平」
これまで聞いたことのない善次郎の怒りの声に、洋平の身体がピクリと震えた。
「だから言っただろう、そっとしておけと。お前が噛まれたのは自業自得だ。活は何も悪くない。そんな活に、なんてことをするんだ」
「なんだよ。猫のくせに、人間に逆らうなんておかしいだろ」
洋平が顔を真っ赤にして、善次郎に食ってかかった。
自分が悪いのは、洋平自身にもわかっている。
心では、謝らなければと思っている。だが、多感な年頃の洋平は、自分の心を制御することができず、心とは反対の態度を取った。
「だから、僕は躾をしようとしただけじゃないか。それなのに、僕より活の肩を持つのか。そんなことだから、離婚されるんだよ」
そこまで言った時、洋平の頬が、渇いた音を立てた。
殴ったのは善次郎ではなく、美千代だった。
善次郎は、唖然として美千代を見た。
善次郎は、これまで美千代が洋平に手を上げたのを見たことがない。
多分、初めてに違いない。
それが証拠に、殴られた洋平すら頬を押さえて、呆然とした顔で美千代を見つめている。
「猫のくせにって、なんてことを言うの」
美千代のまなじりは、張り裂けんばかりだ。
美千代がこんなに怒った姿も、善次郎には初めてだった。
善次郎が好き勝手していた時でも、美千代はたしなめはしたが、これほど怒ることはなかった。
離婚届けを差し出した時も、ただ悲しそうにしていただけだ。
「人間が偉いなんて、思い上がるんじゃないわよ。あなたが、活と同じことをされたらどう思う。それを考えなさい。それに、活と離婚は関係ない。そんなことは、子供のあんたが口を出すことじゃない」
空気を切り裂くような言い方だ。
洋平は、美千代を見つめて凍りついたままだ。
「お父さんに謝りなさい」
この言葉を聞いて、善次郎の胸が締め付けられた。
「ごめんなさい」
素直に、洋平が謝る。
善次郎は、いいんだと手を振って、軽く流した。
それから洋平の肩を優しく叩き、洋平を座らせた。
優しい眼差しで洋平を見つめながら、善次郎はネットで知ったことや、菊池さんや木島さんから聞いた話を、洋平に話して聞かせた。
人間のエゴで捨てられる猫や殺処分のこと。
野良猫の苦労や野良猫の寿命がいかに短いか。
それに、以前起こった大量の野良猫殺しの事件。
そういったことを、滔々と話して聞かせた。
洋平は、善次郎の話を大人しく聞いている。
俯いた洋平の顎からは、涙の雫が床に滴っていた。
ふと横を見ると、美千代も顔中涙でくしゃくしゃにしていた。
「わかってくれたか」
洋平が、素直にこくりとうなづいた。
善次郎は、今度は猫を飼うことの大変さを語りだした。
可愛いだけではない。
食べ物の世話や下の世話をしなければいけない。
猫だって人間と同じで、体調が悪い時もあれば機嫌が悪い時もある。
言葉を話せないのだから、人間が気を付けてやらなければいけない。
自分の失敗談を交えて語った。
「ごめんなさい」
涙混じりの声でそう叫ぶと、洋平はそのまま床に突っ伏して泣きじゃくりだした。
「わかったのなら、もういい。これからは、優しくしてやれよ」
洋平の背中を優しくさすりながら、。善次郎が労わるように言った。
「あなたが、変わった訳がわかったわ」
美千代の涙はまだ収まってはいなかったが、善次郎を見る目付きには、これまでとは違い、優しい光に満ちていた。
一歩前進だ。
思わぬところで、美千代に点数を稼いだ。
これは、活に感謝すればいいのか、それとも洋平にか?
善次郎は頭を掻きながら、そんな不謹慎なことを考えていた。




