逃亡者たち5
突如現れた増援に、しかし驚く素振りも見せず、術師は再び印を結び始める。
「もういいよ、君」
いいながら指先を踊らせるアレス。
途端に術師は動きを止めた。
その様子に、ヒューリは誰にでもなく頷いた。おそらく、呪術のみを阻害する法衣であろう。徹底した殺意が窺える。
「なるほど、徹底していますね」
あの漆黒の法衣がそうなのだろう。随分と手の込んだことである。よほど、ヒューリを殺したいらしい。
「まあ、帝都は近頃おかしなことになっていましたからね。逃げる準備をしていてよかったですよ」
楽しそうに笑うアレス。聞くところによると、この事態をある程度予想していたらしい。
まだ少年であるにも関わらず、とんでもない封術師である。
「さて、それじゃあ色々と聞かせてもらおうかな。ね、ヒューリ・クロフ様」
ヒューリに確認を取り、答えも聞かずに動きの封じられた術師へと近づいていくアレス。
と、途端に術師が震え出した。動きを制限されているにも関わらず、術師はもがき苦しみ、首の辺りを引っ掻き回す。
最期は半狂乱になって、その場に倒れた。
「ありゃりゃ。参ったなあ。どうします? これ」
そうはいっても、アレスの浮かべた苦笑は、さして困ってはいないように見受けられた。
術師の方は、確認するまでもない。おそらく、あらかじめ捕虜にされるくらいなら死を選ぶことを命じられていたのだろう。
自分自身でか、他人によるものか。どちらにせよ、死人に話を聞くわけにもいかない。
「捨て置きましょう。殺そうとしてきた輩を弔ってやる義理もない。さっさと帝国を出なければなりませんしね」
そこでふと、ヒューリは思い出したかのように、
「一応、聞いておきたいのですが」
そう前置きしてから、アレスに訊ねる。
「証人になってもらうことは可能ですか?」
アレスは看守長を任されていた。彼ならば、ヒューリの無実を証明できる。
あそこに訪れたヒューリのことも、そこでの経緯もヒューリの無実を証明するには一番の材料である。なにより、ヒューリが殺したとされている当の本人が、こうして生きているのだ。これ以上ない適役といえる。
しかし、アレスは苦笑ぎみに首を振ってみせた。
「……残念ですが、それは無理です。死んだことになっていますからね。のこのこ出ていったところで、なにかしらの理由をつけて処刑されるでしょう。ことがことなだけに、向こうもなりふり構っていられないでしょうしね」
「まあ、そうでしょうね。それにその言い方だと、やはりシャルマンは大それたことを考えているようだ。なおのこと、さっさと消えるとしますか」
くだらない権力争いの巻き添えを食うなど冗談ではない。
監視つきとはいえ、普通の生活をおくれたことには感謝もしている。が、庇護への対価は充分すぎるほどに支払った。
ヒューリにはもう、帝国に止まる理由などない。
幸いなことに、アレス・ルインオーラは封術師である。それも、看守長を任されるほどの力を持っている。おそらくは、上級術師相当の。
彼が協力してくれるなら、安全に帝国を脱出できるはず。
「共に行きましょう、アレスさん。追手の少ない今なら、二人だけでも国境を越えられるはず」
「ぼ、僕とですか? 光栄です! “特一級術師”との脱出劇なんて、とてつもなく魅力的だ!」
アレスはこれ以上ないくらいに瞳を輝かせ、何度も頷いた。
しかしその直後に、ですが、と僅かに表情を曇らせ、続ける。
「同行できるのは、国境を越えるまでです。僕にも少し、調べたいことがあるので」
心底残念そうなアレスに、それだけで充分だと告げる。
すると、アレスはたちまち笑顔を取り戻した。
「行き先はやはり、南部ですか?」
アレスの問いに、ヒューリは頷く。
「ええ。東部も考えましたが、生憎と船旅は得意ではなくて」
帝国より東は海原である。点在する大小様々な島の全てを便宜上、東部地方と呼んでいるにすぎない。つまり地続きではないのだ。
船に弱いヒューリなど、論外である。
「南部に行くなら、気をつけた方がよろしいかと。国境の守護につく将軍はとてつもない石頭と聞きます。生粋の武人で、術師を嫌うとも」
ヒューリの身を案じての忠告。しかし、アレスの真剣な眼差しに、ヒューリは思わず吹き出してしまった。
「はは。私は術師である以前に人ではない。嫌われることには慣れていますよ」
ヒューリの自虐的な言葉に、アレスは首を振って否定する。
「そうではありません。南部に術師は少ない。それに、亡命を許されたところで、問答無用で軟禁されます」
ヒューリは答えなかった。アレスの忠告は無論、想定の範囲内である。
敵国の術師の亡命を受け入れたとしても、それは歓待ではない。情報収集に手を抜くことはないだろう。あるいは、拷問にかけられることも想像に固くない。
「それでも、他に道はありませんからね」
ため息まじりに、ヒューリは肩をすくめてみせた。
東部への船旅は、ヒューリの精魂を残らず絞り取るだろうし、西部は鎖国的と聞く。
北部に至っては論外である。踵を返し、怒り狂うシャルマンと再戦する危険を考えれば、答えは決まっている。北部にそれほどの価値はない。
つまり、南部地方以外に道はないのだ。
「そろそろ行きましょう。早ければ早い方がいい」
まだ何かいいたげなアレスだったが、ヒューリの提案には素直に頷いた。
屍となった術師を残し、二人は南へと歩を進める。
聖域を出てから三日目の朝。
空から注ぐ朝日に眩しげに目を細め、リベルカは傍らに視線を移した。
丈の合っていない軍服、それをまるで毛布のようにして手足を包み、顔だけを出して眠そうに目をこすっているのは、白髪の少女。寝不足なのか、目の下にはくまが出来ている。
「シロ……眠っていないのか? 少しでも休んだ方がいい。それでは身がもたないよ」
街道を避け、獣道を進んできた二人は今、小休止を終えたところであった。
整備されていない道を行くのは、思いのほか体力を奪う。日頃から鍛えているリベルカはまだしも、シロはそうもいかない。
力こそ常軌を逸しているが、やはり身体は少女のものらしく、数十分で膝を屈していた。
それでもここまで来れたのは、シロの脚力がずば抜けていたからだ。体力はなくとも、瞬発力はやはり化物じみており、リベルカは追いかけるだけで精一杯だった。
故に、リベルカは道中に何度も小休止を挟み、体力を回復させながら南下することに決めた。
これなら、シロの瞬発力を活かせる。そう思ったのだが、
「心配せずとも、気配を感じればすぐに動けるよ私は。なんなら、私が見張っていよう。君は少し眠った方がいい」
シロは再会して以来、眠っていなかった。
それが警戒心からくるものなのは判る。問題なのは、その警戒心がリベルカにまで及んでいるという事実。
つまり、行動を共にしていながら、シロは全くといっていいほどリベルカを信用していないのだ。
「シロ、お願いだ。もう、余裕はない。君を守りながら戦うことは出来ない」
事実、リベルカも限界が近かった。
なにより、聖域を出てから何も口にしていないのだ。手持ちの食料は全てシロが平らげてしまったし、道中の村や街で調達しようにもすでに追手の息がかかっており、厳戒態勢が敷かれていた。
それだけではない。
街道付近は現在、おびただしい人数の帝国兵士や騎士で溢れている。当初の予定である馬の奪取もままならないほど、追手の数は膨れ上がっていた。
消耗していく二人に対し、追手の数は増すばかり。
このままいけば、この辺りにも追跡の手が伸びるだろう。そうなればもう終わりだ。
いくら聖騎士とはいえ、少女を守りながら帝国軍の包囲を突破することは不可能に近い。レンダール帝国軍はそう甘くない。それは、帝国軍聖騎士リベルカ・リインフォードだからこそ、嫌というほど理解している。
「……少しでいい。眠ってくれ」
しかし、シロは首を振って否定する。
寒さを凌ぐためだろう。首を縮め、口許までを完全に軍服で覆い隠している。
「リベルカ……お腹すいた」
軍服の下からくぐもった声で告げられるシロの不満。
睡眠はおろか、リベルカの話すら聞いていない。
重要なのは食欲のみ、とでもいいたいらしい。
「すまない。もう出せるものがない」
リベルカが首を振る。
手持ちの食料はすでに底をつき、村や街に立ち寄ろうにも昼夜問わず監視の目が光っている今、食料の調達も容易ではない。
「先を急ごう。国境を越えれば、空腹を満たす余裕も出てくるだろう」
さあ、とリベルカはシロに右手を差し出した。
差し出された手をじっと見つめた後、それを握らずに、シロは無言で立ち上がる。
「早く行こう。お腹すいたし」
それだけいって、さっさと歩き出すシロ。
リベルカは軍人である。シロを鎖に繋いだ人間と職を同じくする立場上、自分を好ましく思っていないのは仕方がない。しかし、そうだとしてももう少しくらい、警戒を緩めて欲しいというのがリベルカの本音であった。
これでは敵同士で逃亡しているような、そんなままならない雰囲気を拭えない。
いつ何時、背中から襲われるやも知れない。そう考えると、本来なら必要のないところにまで気を配らねばならない。
リベルカは、心身共に疲弊していた。