逃亡者たち3
切りつけるような風の中、リベルカ・リインフォードは走っていた。
陽光はすでになく、真冬の冷たさを孕む大気が幾度も口腔へと流れ込み、肺を冷気で満たす。
日頃の鍛練で馴らした健脚である。この程度で疲れることなどあり得ない。それなのに愛用の甲冑は酷く重く感じられ、脚は鉛のようだった。
流れる景色からすると、もう随分と南下している。
帝国から聖域へと走る街道を行けば、迷うこともないだろう。しかし現状、それは許されない。容易く発見されるであろう道は選択肢にない。
無実が証明されるまで、そう時間はかからない。リベルカは確信していた。
故に、街道を僅かに逸れる道を選んだ。大回りになれば、時間がかかりすぎる。それにもし発見されたとて、その頃には冤罪が確定しているだろう。
一番の問題は先に飛び出したシロである。幼いのはもちろんだが、なによりもあの少女には一般的教養がない。皆無といっていい。
おまけに、異様な狂暴性を秘めている。いや、素で狂暴だといった方が正しい。
千年塔から出てきた彼女を、当初こそ可愛らしいと思ったものだが、少しでも気に障ると、ただをこねる子供の代わりに暴れ出す始末。まるで獣である。
あの狂暴性は見過ごせない。
いくら謂れなき罪を着せられようとも、リベルカ・リインフォードの愛国心が曇ることはない。
民に仇なす前に、説得する必要がある。それが容易かどうかは別にして。
──と、その時だった。
誰かの悲鳴がリベルカの鼓膜を打った。次いで、絶叫。
「……街道の方からか」
急いだ方がよさそうである。
リベルカは自身の耳を頼りに、街道へ戻る道を選択。
おそらく、シロの仕業だろう。
何も考えずの正面突破。シロならあり得る話だ。
街道に出ると、数名の騎士が地に伏していた。一撃で昏倒させられたのだろう。争った形跡はなく、剣を抜く暇もなく殴り倒されたようだった。
「う、動かないでください!」
と、リベルカの眼前で叫ぶ者が一人。
帝国の騎士だった。若い。まだ十代半ばといったところか。
正面に剣を構えてはいるものの、隙だらけである。入団したての騎士見習いだろう。
見逃したのか、それとも相手にしていなかったのか。シロの手から逃れた幸運の持ち主のようだった。
「退きなさい。君に私は止められない」
相手をしている時間さえ惜しい。
リベルカは抜く素振りすら見せず、素通りしようと踏み出す。
「リインフォード様! どうしてですかっ! 聖騎士のアナタがどうして!?」
若い騎士の叫びは、悲痛な響きに満ちていた。
リベルカを英雄視している人間の一人なのだろう。裏切られた、といわんばかりに瞳に涙をためている。
「何を聞いたかは知らない。それが真実だと思うならそれでもいい。だが、今は通らせてもらう。同志とて容赦はしない」
告げるリベルカの瞳から、僅かな殺気が浮上する。
それだけで、若い騎士はガタガタと震えだした。立っているのがやっとの有り様で、それでも気丈に剣を構えるその姿は、実に微笑ましい。
こんな状況にも関わらず、リベルカの胸の奥底は歓喜に溢れていた。
頼もしく、また力強さもある。将来は立派な騎士になるだろう。
僅かとはいえ、聖騎士の殺気を正面から受けたのだ。常人なら腰を抜かしていてもおかしくはない。それが見習いの騎士となれば、なおさらである。
「退かない、か。いいだろう」
さらなる殺気をぶつけて素通りすることもできた。本来なら、それが正しいのだろう。
しかし、リベルカは勝負を選んだ。それが騎士として、若葉の騎士に対する礼儀であろう。
腰の長剣を抜く。
と同時に地を蹴った。
「──っ!?」
驚愕に目を見開く騎士。
反応できたのは、それだけだった。
リベルカの剣速に、騎士は棒立ちのまま一切の反応を許されない。目を見開いた時にはすでに、騎士の手から剣はこぼれていた。
リベルカの重く鋭い一撃は、見習いの身で耐え切れるはずもなく、あっさり弾き飛ばされた。
決着。
一瞬にして、騎士の小さな信念は吹き飛ばされた。
「忘れるな。騎士たる者、決して折れてはならない。たとえ己が剣を叩き折られようとも」
呆然と立ち尽くす騎士を見据えるリベルカ。
鞘に長剣を納め、騎士の脇を通りすぎようとして、ふと問いかけてみる。
「少女を見たか? 白髪の──とんでもなく狂暴な少女なんだが」
リベルカが訪ねる。
と、途端にガタガタと震えだす騎士。よほど恐ろしい目に合ったのか。瞳は恐怖一色に彩られ、表情を蒼くして怯えているようだった。
思いだそうとするだけでも、相当な労力を使っているのか。なかなか答えようとしない。
「……いや、もういい。悪いことを聞いた。許してほしい」
騎士の反応を見れば、シロと遭遇したのであろうことは容易に想像がつく。
この修羅場を作り出した張本人である。さぞかし暴れたのだろう。経験の浅い者にとって、それが以下に畏怖すべき存在なのかはいうまでもない。
思い出させては、あまりに酷というものだろう。
「私はいくよ。また会おう、小さな英雄君」
未だ震え続ける騎士に背を向け、リベルカは再び走り出した。
このまま街道を進めばおそらく、シロに殴り倒された帝国兵が転がっているだろう。それを目印に進めばいい。
街道を進むと案の定、リベルカは倒れた何人かの帝国騎士と出くわした。いずれも、地べたに転がされた情けない姿である。
先ほどの騎士のような幸運に恵まれたものはいない。発見した者の全てが、見事に昏倒させられていた。
そして、走ること数十分。
──いた。
剣を構える帝国兵を相手に素手で暴れ狂い、あろうことか甲冑ごと相手を殴り飛ばす獣が。
「ま、待つんだ! シロ!」
リベルカの制止の叫びに、ぴくり、と僅かに肩を跳ねさせる小柄な背中。
しかし、聞こえているにも関わらず、シロは止まらない。一人、また一人と騎士を沈めていく。
「よせ! もういい!」
小柄な身体を背後から羽交い締めにし、声を張り上げるリベルカ。
しかし、止まったのは僅か数秒。ふっと足が地を離れたかと思うと、次の瞬間には背負い投げの要領で宙に放り出されていた。
背中から地に衝突し、甲冑の重さも相まって、強烈な衝撃が背中から全身に駆け巡る。
呼吸は断絶。肺を満たす空気が一挙に外へと吐き出され、その息苦しさにリベルカはぐっと呻き声を上げた。
続いて、激しく咳き込む。失った空気を取り戻そうと、肺が暴れまわっているかのようだ。
立ち上がろうとするも、胸にのし掛かってきた重みがそれを許さない。
「ヒューリはどこ」
拳を振り上げた姿勢のまま、シロは問う。
問いに背けば、握りしめられた小さな拳はすぐにでも、リベルカの顔面に打ち落とされるだろう。
「し、知らない。先に飛び出してきたからな。でも、彼ならきっと大丈夫だ。だから、今は」
逃げよう、とは口にしたくなかった。それを口にすれば、罪を認めたようなものだったから。
沈黙するリベルカ。
「どこって聞いてる。答えてリベルカ」
瞳孔までもを白く変色させたシロの瞳が、リベルカを射抜く。
その双眸から逃れようと、リベルカは周囲に視線を巡らせた。
いつの間にやら、騎士たちの姿がない。逃げたのか、それとも一時的な撤退か。どちらにせよ、シロの化物じみた力を恐れてのことだろう。
「お前は嫌いだ」
シロの拳が迫る。
それと同時に、リベルカも動いていた。
馬乗りになったシロの身体を跳ね退け、距離を取る。いくら化物じみた力を持っていようとも、身体は少女そのもの。そう易々と転がされはしない。
敵意一色の視線をぶつけてくるシロ。問答無用といったところか。リベルカを完全に敵と認識しているようだった。
「私は君が嫌いじゃない。今は何も言わず、共に行動しよう。それがヒューリ・クロフの望みでもある」
「……わかった。それならいい。早くいこ」
ヒューリの名前を出した途端、シロの全身から吹き出ていた殺気は霧散する。
同時に、腹の辺りから大きな音が聞こえてきた。
「ついてきて。まずは腹の虫をなんとかしよう」
リベルカの提案に、こくこくと頷くシロ。
相当に腹が減っているのだろう。先ほどから、腹の音は鳴り止まない。
「なるべく街道を避けて進む。ああ……馬がいるな。それもなんとかするとして、ところでシロ」
リベルカに名を呼ばれ、シロは小首を傾げるのみで反応を示す。
「馬に乗ったことは?」
首を振って否定する。
どれだけの力があったとしても、その実態は幼い少女である。判ってはいたが、改めて本人の口から聞かされると安堵する。少し変わった少女、という認識を曲げずに済みそうだ、と。
「私の後ろにしがみついていればいい。国境付近まで駆け、その辺りでヒューリ・クロフを待とう」
これには、激しく首を縦に振るシロ。
なんとも判りやすい反応だった。
少女の瞳に写るヒューリ・クロフは、暗闇から自身を救い出してくれた英雄なのだろう。
一方、侮辱や差別をことごとく受け入れる軟弱者、とはリベルカの瞳に写るヒューリ・クロフの姿である。
「いこう。夜明けが近い」
今はただ闇に紛れて少しでも進んでおきたい。
聖騎士と獣は行く。