追憶の獅子4
宵闇の裏路地。
街灯はすでになく、しんと静まり返った路地で、オーネスは疲れたように目頭を押さえていた。
「何をしておるのか、お前は」
眼前には、満面を朱色に染めたにやけ面。路地に座り込み、唸る赤髪の青年の姿があった。
その頬には、手酷い一撃を思わせる跡が見受けられる。
「まいったぜ……エレナの奴、気が短いにもほどがある」
「どうせまた、お前の軽薄ぶりに嫌気が差したのだろうよ。ほれ、行くぞ」
ヴァンの片腕をとり、立ち上がらせる。
鼻をつく酒気に、思わず顔をしかめた。
「呑みすぎである。酷いぞ、ここしばらく」
「はん。呑まなきゃやってられんぜ」
ふと、感情を圧し殺したようなヴァンの声に、オーネスは眉を寄せた。
何も聞かずにいるオーネスをよそに、ヴァンはふと、言葉をもらした。疲れたように、自嘲の響きをもって口から出たのは、聞き慣れぬ名。
「……クリスティオンだってよ」
「なに?」
聞き返すオーネスに、しばし反応はなかった。
ふらりふらり、と肩を借りて路地をゆくヴァンの足には力強さがない。それが、酔いのせいだけではないことは、何となくオーネスにもわかっていた。
「なあ、オーネス。俺ぁマクスウェルの名に誇りを持ってる」
らしくない台詞に、オーネスは思わず笑ってしまった。
「実に今さらであるな。やはり、呑みすぎであるぞ。お前の口から誇りなど──」
「セロオン・ヴァン・クリスティオン」
告げられた名に、思わず足を止めた。
呼気さえ止まったかのごとき錯覚が、オーネスを襲う。
その名は、天上人より賜る栄誉。並み居る聖騎士の中において、序列一位。天にもっとも近き聖なる騎士──
「…………《天聖》で、あるか」
ヴァンは答えない。
その序列を勝ち取った者は、ここ数百年に一人とていない。故に、空白の序列とされていた。セロオンの名は、誰にも触れ得ぬ神聖。
「うむ。実に……実に、名誉であるな」
そう言ったオーネスに、ヴァンは心底つまらなそうに鼻を鳴らした。
「どこが。俺はマクスウェルだ。今さら、家名なんざいらねえ。新しい名前なんか……欲しく、な、い」
と、そこで言葉は途切れた。
重さの増した身体に、耳許に聞こえる安らかな寝息。
相当に、呑んでいたのだろう。仕方のない奴だ。
オーネスは寝入ったヴァンを背負い、家路につく。
これより、ヴァンは聖域守護の任につく。貴重な身体だ。己など取るに足らぬほどに。
「護らねば、な」
何を置いても、この身を捨ててでも、護らねばならない。
北部一体を治める大国、ホウガ。
流民受け入れにも積極的な姿勢を見せ、力なき者には過酷な環境であるものの、力さえあれば一国を担う輝きを放つ者となる。
貴族と平民の垣根が薄いお国柄で、世襲性ではなく、決闘で国長を決めるという。
そんな血生臭い国と帝国を隔てる国境線。
そびえる白王山脈を背に、列を成すホウガの軍。
対峙するは、レンダール帝国軍。先陣には、剣豪ガイウス・マクスウェル率いる第二師団。その小隊に、オーネス・グラリエスはいた。
父より与えられた甲冑は、新調したもので、傷一つない。初陣に玩具を与えられた子供を嘲笑うかのごとく、グラリエスの落ちこぼれが、と揶揄する声が小隊内からいくつも聞こえてくる。
──またか。揶揄のさえずりに、甲の下で顔をしかめるオーネスの背が、大きく叩かれた。見ずともわかる。
「柄にもなく緊張してんのかい、デカブツ」
「ふん。デカブツではない」
突撃の号令と共に、剣を抜く。
「我輩、誉れ高きグラリエス家が剣。オーネス・グラリエスである!」
開戦。
初手、両軍共に速突隊による突撃。この速突隊こそ、オーネス、ヴァン両名が身を置く小隊である。
先陣の誉れ、とはいうものの、捨て駒という認識が正しい。現に、変人かつ嫌われ者の師が先陣を任されている。死ねば儲けもの。そんな中流貴族どもの思惑が透けて見える。
だからこそ、この一撃で目にものを見せてやろうと、オーネスは気を昂らせていた。
結果として、その一撃は大きな好機を呼び込んだ。
初撃にて、第二師団は怒濤の勢いを見せたのである。
オーネスは恵まれた体躯を活かし、力任せに眼前の敵を蹴散らした。盾ごと吹き飛ばされ、あるいは両断されるホウガ兵。決して素早くはない動きの中にあって、しかし、その痛烈な一撃一撃は怒れる獅子を思わせた。
獅子の咆哮の隙間を縫うようにして、敵へ斬りかかるのは、神速の影。崩れかけた味方を叱咤する敵軍の指揮官へ、狙いすました矢のごとく、その首を刈る閃光。ヴァンである。
「やるねえ、おっさん。いつにも増して気合い充分ってか?」
「おっさんではない。オーネス・グラリエスである」
敵のただ中にあって、言葉をかわせる余裕が二人にはあった。
と、突如、眼前に踊り出た敵を前に、オーネスの剣が止まった。
「こ、これは……」
幼く、あどけない顔の少女であった。
甲冑もなにもない。襤褸を纏っただけの貧相な体つきの幼子。まともに振るうこともできないくせに、剣だけは立派なものを構え、こちらに向かってくる。
その瞳には、敵意と殺意。
オーネスの瞳が揺れた。
「なにやってんだっ! おっさん!」
瞬間、身体が傾いだ。
やけにゆっくりと移ろう視界の中、己を突飛ばし、前に進み出る赤銅色の後ろ姿。その背が突き出た刃を見て、
「ぁ、う」
胸がざわめく。
脈打つ心音はやけに大きく、なのに、肉体はどんどん冷えていく。
剣戟の音色も、怒号も、悲鳴も、遥か彼方へ。
「よ、よせ」
倒れ伏す友の姿に、無我夢中で駆け出していた。
それから先は、酷く記憶が曖昧だった。
友を抱き、血塗れで後方へと下がった。その全ては返り血と友のそれ。己の傷など一つもなく、勝利に湧く味方の喝采をどこか遠くの出来事のように見守り、医務室で夜を明かした。
「状況は把握した」
いまだ目覚めぬ寝台のヴァンを見下ろしつつ、師が低く告げられた。
「お前の目指す剣は」
「護る……剣であります」
「……そうか」
直後、頬に衝撃。
激しくぶれる視界。後頭部を壁に打ちつけ、頭上から医療品やら書物やらが雪崩れ落ちてくる。
「護れ。そう、言ったであろうが」
どこか悔しげに呻く師。
その様に、失望の念を感じとった。何も言えず、オーネスは目を伏せる。
「幼子の血に塗れることを嫌ったか。お前が護ったのは、他の誰でもない──」
続く言葉を最後に、師は医務室を出ていった。
「己であろうが」
オーネスは立ち上がり、書物を手に取った。
年季の入った医術書である。法医に関するそれを手に取り、埃を払う。何度も何度も、意味もなく埃を払い続ける。
表紙が、血に塗れていた。それを払おうと力を込める。震える指先で、幾度となく。
だが、当然、血が払われることはない。
「辛気くせえな、おっさん」
かけられた声に、はたと顔を上げた。
血の気の失せた顔で、口の端を持ち上げるヴァンと目が合った。
「お、おお。ヴァンよ! 無事か!」
慌てて駆け寄ろうとするも、鬱陶しそうに片手をひらひらと払われる。
立ち止まり、どうしたものかと思案していると、
「腹をぶっ刺されたんだぞ? 無事なわけねえだろが」
「う、うむ。すまん。我輩が手ぬるいばかりに」
なおも、にやけたまま口にするヴァンに、頭を垂れる。
そんなオーネスの様子に何を思ったのか、ヴァンは唐突に舌をうった。そして、忌々しげに、
「しっかし、おやっさんも手厳しいなあ。勝ったんだぜ? もちっと褒めてくれてもよお……なあ、おっさん」
オーネスは答えない。ただ、無言で顔を伏せた。
勝利を掴んだなどと、どうして思えようか。
「なあ、オーネス」
珍しく名を呼ばれ、オーネスは顔を上げた。
「お前の目指す剣は」
厳めしい顔を作り、声音まで真似て、問いかけてくる。
欠片も似ていないその様に、それでもオーネスは答えた。
「護る剣であります。祖国と……その民、すべてを」
答えれば、これまた作りものの厳めしい顔で、うむ、などと頷いてみせるヴァン。その顔に、ふと笑みが浮かんだ。
「なら、いいじゃねえか。自分を守ってやってもよ」
にっと笑ってみせるヴァンに、オーネスは言葉を失った。
口を半開きにし、硬直するオーネスに、ヴァンはなおも笑って告げる。
「アンタが自分も他人も、胸張って護れるように、俺がアンタの剣になる。だからよ──」
胸を打つものがあった。
あの粗暴な山犬だった小僧の心に、しかと故郷はあった。
「泣くんじゃねえよ、おっさんのくせに」
みっともねえ。
そう言ってまた、ヴァンは笑った。




