死都8
ヒューリは動けなかった。
クレハに肉薄し、猛威を振るうオーネス。幾度となく、一方的に打ち据えられ、口から血を吐く少女を見ていながら。
命の灯火が消える寸前まで、その一部始終を見ていながら。
何も、出来ないでいた。
彼の呪術は、そのことごとくが正体不明の力に弾き反された。ならば身体でと動こうにも、あの間に割って入って果たしてどうなるというのか。
もはや、ここまで。
ヒューリが諦めかけたその時、首をしめつけられたクレハの唇が小さく動いた。言葉を聞いたわけではない。しかし、その言葉が尋常ならざる力を持っていたことだけは、はっきりとわかった。
空間が軋む。クレハを中心とした周囲の空間が、陽炎のように揺らめいていた。
「──っ!」
異常を肌で感じ取ったのか、オーネスはクレハから手を離し、即座に距離を取る。その間にも、空間は歪み、ねじれ、クレハという存在を歪ませていく。
「クレハさん!」
叫ぶヒューリ。その声に反応するかのごとく、空間が裂けた。
裂け目へ、クレハの小柄な体躯が吸い込まれる。と同時に、大きく弾けた。
「……ふぅ。まさか、ここへきて保険とはね。今度は何をぶん取られるのか。ひやひやもんだな、まったく」
不満げにぶつくさと口にしながら、クレハと入れ替わるようにして、男が現れた。
若い男だ。右手に抜き身の剣を携え、赤銅色の長髪をかきあげる男。ヒューリに、見覚えはない。ただ、途方もない威圧感が、その男から発せられている。どこか懐かしい、あの人と同じような、絶対的強者のそれ。
「……な、なぜだ。貴様は西部にいるはずだ」
オーネスの声が、震えていた。あの獅子が、獅子たる矜持を忘れてしまったのか、見るからに動揺していた。
オーネスの問いに、男はおや、とでも言いたげに片眉を上げた。
「は? おいおい、まさかアンタかよ。姉妹の敵がまさかの獅子ってなあ、驚きだぜ。弱いものいじめはよくねえなあ、オーネスのおっさん」
「ここで何をしている、セロオン・ヴァン・クリスティオン」
オーネスの声に威圧の色がにじむ。
瞬間、男の顔が激しく歪んだ。
「その名は捨てた。欲しけりゃくれてやるよ、獅子。二度とそれを口にするんじゃねえ」
「ふん。ならばその手にあるものは何だ、《天聖》。聖騎士の頂にありながら、その名と責を捨てた貴様がなぜ、今もなお剣を手にしている」
どこか蔑むような声音でセロオンとやらを睨むオーネス。
セロオンは顔をしかめたまま、無言で剣尖をオーネスへ向けた。
「……どういうつもりだ。我輩へ剣を向けるということは、祖国を捨てるのと同義であるぞ」
唸るオーネスに、セロオンの口角がつり上がる。
「悪いが、そういう契約でね。それに、今はアンタの相手をしてる時間も惜しい。とっとと剣をとりやがれ」
向けられた戦意に、オーネスはセロオンを見据えつつ、ゆっくりと後退していく。視線はそのままに、腰を落とし、足元の剣を拾った。正眼に構え、踏み出される一歩。
「ああ、悪いがこずるいのは無しだ」
対するセロオンが言った──瞬間。
オーネスの表情が変わった。目を見開き、唇をわななかせるその様に、獅子たる威風はとうにない。まるで、理解できない恐怖を前に小さく震える子犬のようですらあった。
「貴様、何をした……我輩に一体何をしたっ!」
うろたえ、激昂するオーネス。
そんな獅子の無様をセロオンはせせら笑った。
「俺の体質を忘れたかよ。正々堂々、剣で勝負といこうや。昔みたいによ」
「くっ。化物め」
呻くオーネスに視線を向けたまま、ふと思い出したように、セロオンは、
「ヒューリ・クロフ」
とヒューリの名を呼んだ。
答えるより先に、セロオンは続ける。
「ここは任せて、お前は行け」
どこに、とすら聞けなかった。
突如、ヒューリの全身を生暖かい何かが包んだ。かと思えば、強烈な耳鳴りと共に、意識は奈落へ。
空間に亀裂が走る。蜘蛛の巣がごとく、幾筋にもわたってひび割れていく景色。その中心へ、呪術師と女剣士が吸い込まれていく。
オーネスは、ただ呆然と彼らを見送った。
空間転移。高位術式──それも太古に消失したとされる幻の術である。
「……セロオン。貴様、何を捨てたのだ」
「ん? 何の話だおっさん」
肩に剣を担ぎ、怪訝そうに首を傾げてみせるセロオン。
その仕草の、何と白々しいことか。
「とぼけるでない。いくら貴様とて、太古の術をそう易々と扱えるはずがなかろう。代償を払ったはずだ」
途端、セロオンの顔から笑みが消えた。
無言の肯定。
かつての友の犯したであろう過ちに、オーネスは満面を苦渋に染めた。
「愚かな。誇りまで捨てたか」
「黙れ」
低く、底冷えのする声音が、オーネスの耳朶を打つ。
「西部で何が起きているのか、アンタは知らない」
だから、そんなことが口にできる。そうとでも言いたげなセロオンの言葉。しかし、彼のそんな姿がより一層、オーネスには哀れに思えた。
かつての彼なら、負けはしなかった。
いかな障害も、不幸も不条理も、彼は乗り越えてみせた。だからこそ、彼は《天聖》だった。
そんな彼が、屈している。諦めている。
「契約と、そういったな」
セロオンは答えない。
だが、答えなど分かり切っていた。
高等術式。契約。保険。姉妹。全ては、一つへ。
「魔女と契ったか、ヴァン」
瞬間、セロオンの瞳に激情が揺らめいた。
殺意の風となり、オーネスに突貫する。
さすがに速い。息つく間もなく間合いを詰められる。上段から唸りを上げて迫るセロオンの剣を視界に捉え、すかさず受けの姿勢に入るオーネス。
が、手応えはない。刃と刃が触れるも、その感触はなく、また音もない。訝るオーネスの眼前で、セロオンの剣が、受けに入ったオーネスの剣を透過した。
驚嘆する暇もなく、咄嗟に身を翻す。透過してきた刃を寸でのところでかわし、反撃。両手に握った剣を、渾身の力で水平に一閃。しかし、届かない。セロオンの構えた剣に接触するなり、込められた力は霧散し、剣の軌道はあらぬ方向へとそらされる。
「相変わらず奇怪な剣を使う」
「はっ。アンタも相変わらずだなあオイ」
返す言葉の代わりに、オーネスは頭上に剣を振りかぶった。
全力の一撃。が、
「わかりやすすぎんだよ!」
セロオンの姿が霞む。
オーネスの剣は虚しく空を切り、地に激突。直後、全身を撫でる悪寒。
咄嗟に右手を剣から放し、腕を己が首へと巻き付けるように、急所を隠す。
鮮血が舞う。たまらず、膝を折った。
全身のいたるところに、裂傷が刻まれていた。《天聖》の得意とする連閃。相手を刹那の間に小間切れにする刃の嵐。
刃の嵐が止めば、いつの間にか距離をとっていたセロオンが、冷めた表情で傷だらけのオーネスを見下ろしていた。
「相変わらず真っ直ぐな剣だ。とことん、戦争屋にゃあ向いてねえ」
「ぐ、愚弄する、な」
我輩を愚弄するな。
その眼で見るな。
弱者だと笑うな。
「我輩を……」
立ち上がろうと脚に力を込める。が、それを虚しい足掻きだと嘲笑うかのように、傷口が開いた。
「立つな。命はとらん。昔のよしみだ。契約分だけでいい」
「何故だ、ヴァン」
訊かずにはいられなかった。
「え、英雄に、お前こそ、我輩の……」
友であり、弟であり、越えるべき壁であった。
そして──




