死都5
迫る白刃が鼻先でぴたり、とその動きを止める。剣を振り下ろす途中の姿勢で固まった兵士をさえぎるように、桜色の髪が踊り出た。
動きを止められてなお、力ずくで動こうと歯を剥く兵士の脇腹へ、右の拳が叩き込まれる。
突き刺さった拳を包み込むように、兵士の身体が折れると、腕にからみついてきた兵士の身体をひょい、とその場に捨てる少女。
少女は振り返り、にやり、と口元を歪めてみせた。
「おやおやぁ? 男のくせに恥ずかしいね? 女に助けられてさ」
助けられた当の本人であるヒューリの眼前には、にやけ面でしてやったり、とでもいいたげなクレハ。
「恥ずかしい? 冗談でしょう? 甲冑を着た大の男を素手で吹き飛ばす少女ですよ? 恥ずかしさよりも恐怖を覚えます」
「素直に礼も言えないのかい? 呪術師ってのはさ」
ふん、と鼻を鳴らし、眉根を寄せて不快感をあらわにするクレハ。二の句を継ごうとするヒューリを置き去りに、次の標的を求めて敵の群へと飛び込んでいった。
南部軍の包囲は完成しつつある。ご丁寧なことに、ある一点のみ、あえて包囲が緩められていた。こちらを誘い込む腹積もりなのだろう。さあこっちですよ、といわんばかりの見え見えの誘導。ある一点を除けば完璧な包囲網であるだけに、より稚拙さが目立つ。
誘導先は、北。
南部はどうあっても、ヒューリたちを帝国に差し出したいらしい。国内から追い出すばかりか、他国への逃亡すら許さぬ徹底ぶりである。かといって包囲を破るほどの戦力はない。
ヒューリ自身はただの呪術師でしかなく、本来なら彼の居場所は戦場ではなく研究室である。縦横無尽に駆け抜けるクレハとて、疲労の色は濃いようで、徐々に動きが鈍くなってきている。説得に向かったシシカが戻ってくる気配もない。
「……お手上げですね」
誰にでもなく呟くヒューリ。
言葉通り、お手上げだった。それでも、どうにかこの状況を打破しようと思考を巡らせる。敵を牽制しつつ、逃走経路を確保。その上、どこに消えたかも解らないシシカを探し出さなくてはならない。
もっとも避けなくてはならないのは、全員がばらばらに分断され、各個撃破されること。クレハは分断の危険性を理解しているのか、戦場を駆け抜けながらも、決してヒューリの視界から外れようとしない。ヒューリとの距離を常に一定に保っている。
クレハは大丈夫だろう。問題は──
「ユウリ……《呪血》を。包囲を抜ける」
ついさっきまで探し出そうとしていた女が、ヒューリの眼前に躍り出た。南部兵で埋め尽くされた壁を一瞬で切り崩し、刀についた血糊を振り落とすと、鋭い眼差しで周囲を警戒する。
シシカの口にした術の名に、ヒューリは顔をしかめた。
「……禁呪を使えと?」
「躊躇っている時間はない。それに──」
言いながら近づいてきた敵を一刀の元に切り伏せ、ヒューリがひた隠しにしている事実を静かに口にする。
「罪悪感なんて今さらでしょう? 今の貴方には」
シシカに表情はない。
ただ、途方もなく沈んだ声だった。
彼女には、見えている。ヒューリの犯した罪が。幾重にも積み重なった骸の山が。いまこの瞬間も、はっきりと見えているのだ。
「……シシカ。僕は」
「──やめて。聞きたくない。どうせあの女のためでしょう? それに、今はこの状況をなんとかしないとね」
話は終わり、とばかりにシシカは敵の群れへと戻っていく。
彼女はどこまで見えているのだろう。ヒューリの背負った咎のみならず、術師としての本質まで見透かされているのだろうか。
だとすれば、彼女はきっと、失望している。もう、あの頃のヒューリはいない。ユウリ・レキとして生きた少年はもう、この世のどこにもいはしない。
ヒューリは術の準備に入った。
呪術の禁忌。標的に確実なる死をもたらす術。
大がかりな術だ。本来であれば、まず相手の名を知り、真名に呪詛を刻んで魂を縛る。《呪血》の術は魂を死という名の鎖で縛る。
が、ヒューリは標的の名を必要としない。
それはヒューリ・クロフの奥の手であり、呪術師としての禁忌。
呪血という禁忌に、禁忌の上塗り。
もはや、堕ちるところまで堕ちた。
奥の手もシシカは見抜いたのだろう。ヒューリなら可能だと。
──呪をもって喚する。
呪喚によって、ヒューリは己が罪を解き放つ。
──喚ぶは印。
己が身の内で永遠の苦しみにもがく魂を。
──印をもって結とする。
死人の魂を縛る呪印を今、呪詛へと代える。
──《転の呪印》。
溢れ出さんばかりの呪詛を転換。陣の呪術へ。
──《呪血の陣》。
「ぐはっ」
眼前に躍り出た南部兵が、血反吐を吐いた。
一人だけでなく、兵士たちは次々とその場に倒れていく。全身を小刻みに痙攣させ、口許から広がる血の海に沈む南部兵たち。
呪血。流れる血を毒へと変える禁忌呪術。
白眼を向いて息絶える遺体。それらがいくつも、山のように転がっている。つい先ほどまで息をしていたのが嘘のようだった。ともすれば、本当はすでに息はなく、死体が動いていたかのような錯覚に襲われる。
命を繋ぐ糸が切り落とされた。ヒューリの手によって。
酷く呆気なく、抵抗する時間すら与えず、その命に終わりを刻んだ。
「……終わったわね」
ヒューリの側まできて、シシカは刀を納めた。
返り血だろう。凝固した血液が、シシカの全身を黒く染めている。顔にこべりついた血を袖で拭い、シシカは表情を和らげた。警戒を解いたのだ。
「お疲れさま。それで? まず何から訊けばいいのかしら」
問われ、ヒューリは瀕死のシシカを発見してから、これまでのことを語った。
クレハに治療させたこと。謎の女に救われたこと。そして──
「つまり、なに? 王都を目の前にして、突然クルセニスの軍に囲まれたと?」
ヒューリは首肯する。
目を覚まさないシシカを背負い、王都で適切な治療を受けさせ、手がかりを探すつもりだった。幸いなことに、クレハは元“蛇”。それも幹部だという。
王都の資料を漁り、クレハの知恵を借りれば、何かしらの手がかりは掴めるだろうと思っていた。
それがどういうわけか、何の前触れもなく完全武装の正規兵に包囲され、抵抗すれば殺すときた。
「なら、さっさと戻った方がいいわね」
「戻る?」
当たり前のように告げるシシカに、しかし、どこへとは訊けなかった。
訊くまでもない。
「わかっているでしょう、ユウリ。帝国にはもう、戻れない。おまけに南部もこの通り。貴方の旅は終わったのよ」
「僕は戻らない。戻るわけにはいかない」
彼女を救うために、故郷を飛び出した。
先の見えない暗闇の中をかき分け、ようやく、一筋の光が見えたのだ。ここにきて、諦めるわけにはいかない。
「僕は──」
「いい加減にしてよっ!」
シシカの鋭い声に、いいかけた言葉を飲み込んだ。
「今、自分がどうなってるのか、貴方わかってるの? 普通じゃないのよ? ヒサキさんに診てもらっても治るかわかんないんだよ!?」
瞳いっぱいに涙をためて、シシカは声を張り上げる。
きつく鋭い眼光を真っ正面から受け止め、ヒューリは静かに告げた。
「……シシカ。自分のことは自分がいちばんよく知っているよ」
柔らかく、出来るだけ優しく、ヒューリは告げる。
「僕はもう長くない。だから……せめて、彼女を救う材料だけでも揃えておきたいんだ」




