死都
機を伺っていた。
息を殺し、微動だにせず、ただその時を待つ。
手には一振りの長剣。これまで、幾度となく己を救ってきた相棒。何度も握りを確かめ、神ではなく己が相棒へと祈る。
木陰に身を潜めながら、リベルカ・リインフォードは夜明け前から、じっと待っていた。
時刻は昼過ぎ。場所は、カナーロから徒歩で二時間弱。帝国軍の野営地である。
息を殺すリベルカの視線の先には、出陣の合図を待つ多数の帝国兵。整列した彼らは、甲冑に身を包み、槍を携え、静かにその時を待っていた。
リベルカに与えられた任務は敵陣への単騎突貫。つまりは、敵将“紅蓮”ジル・ドーラムの暗殺である。完全に背後に回り込み、視界には“紅蓮”らしき男も捉えている。後は、敵が一人でも数を減らしてくれることを祈るだけ。
そして──時は来た。
『ウォオオオオオ!』
突如、帝国軍から雄叫びが挙がる。
突撃の合図だろう。見れば、やはり整列した兵士たちが一斉に動き出していた。
好機だ。ここしかない。リベルカは剣を握る手に力を込める。
相手はあの“紅蓮”。殲滅戦でこそ、その真価を発揮する。一対一に持ち込めば、勝機はあるはず。
ジル・ドーラムへの勝利を信じ、件の敵将に目を向ける、が──
「──っ!?」
目が合った。合ってしまった。
息を殺し、殺気も完全に隠しきっていたはずだった。にも関わらず、遥か遠方のリベルカを発見した。それだけではない。気づいていながら、ジル・ドーラムは何もしなかった。進軍を止めることもなく、周囲の側近に指示を出すでもなく、数秒目が合った後、リベルカからすっと視線を外したのだ。
まるで、歯牙にもかけていない、と言わんばかりに。
動かない訳には行かなかった。同じ聖騎士でありながら、敵と認識さえされない屈辱。リベルカ・リインフォードの矜持が、彼女の背中を蹴りつける。
木陰から飛び出した。
矢のように鋭く、風を切る。
地を駆けながら刺突の構えを取り、片手で印を結ぶ。狙いは一撃。即座に間合いを詰め、心臓を貫く。
しかし、
「……来るだろうと思っていた」
激しくぶつかり合う剣と剣。
完全に受け止められ、かけられた声と共に弾き返される。
「やはり単騎か。そうだろうな。それ以外、貴様の使い道はない」
まるで、リベルカが来ることを予想していたかのように、男は周囲に敵の姿がないことを確認すると、にやりと口角を吊り上げた。
「予想通り、だと?」
屈辱からか、目の前の男を睨みつけるリベルカ。
男の三白眼と視線がぶつかる。男は笑みを崩さない。
「あの老いぼれの考えそうなことだ。大方、共倒れを期待してのことだろう」
だが、とジル・ドーラムは剣を鞘に納め、笑みを消す。
「奴の思い通りに運ぶのはここまでだ。降伏しろ、リベルカ・リインフォード。自慢の翼を灰にされたくはないだろう?」
「断る。貴方は殺しすぎる」
聖騎士ジル・ドーラム。“獅子”と並び称される帝国屈指の戦力の一人。その性質は、冷酷かつ無慈悲。“紅蓮”の通り道には、灰しか残らないと言わしめるほど、彼は虐殺を徹底してきた。
リベルカは退かない。ここで食い止めなければ、南部に人はいなくなる。
「…………南部人の血か。いいのか。罪を重ねるだけだぞ」
「私は私の信念に従う。子供を鎖に繋ぎ、それを追うために暴力を振りかざす。貴方は本当に、これが正しいことだと胸を張っていえるのか」
「愚問だな。祖国に仇なす者はみな敵だ」
それがジル・ドーラムの最後の言葉だった。
これ以上は問答無用と判断したのか、一度は納めた剣を再び抜く。されど構えず、剣尖は地に向いている。
にもかかわらず、焼けつくような殺気がリベルカの肌を撫でた。
リベルカは印を結ぶ。風をまとい、距離を詰める。眼前にジルをとらえ、今まさに剣を振るおうとしたところで、下方から吹き上げてくる熱風に動きを止めた。
──来る!
直感だった。すぐさま身をそらすと同時。紅蓮が視界を薙いだ。地から競り上がってきた炎の壁が、リベルカの前髪をわずかに焦がす。
すぐさま後方に跳躍。直後、炎の壁が伸びる。竜の息吹きのように、燃え盛る火炎がリベルカに迫る。
リベルカは再び地を蹴った。二度、三度、と地を蹴りつけ、疾風のごとく、目にも止まらぬ速さで狙いをつけさせないよう、不規則に動き回る。
それが功を奏したのか、立て続けに飛来する炎球のすべてを回避。遠回りしつつも、確実にジルとの距離を詰めていく。
「逃げてばかりか。速さばかりでは、この俺には勝てんぞ」
静かにいい放ったジルの指先が、リベルカをとらえる。
リベルカは咄嗟に剣を前に突き出した。“疾風”の術式は、常に動きを高速化するものではない。風のごとく反応できるのは、一度の動作にのみ。つまり、連続した動きの中で、急停止する瞬間が必ずあるのだ。
その瞬間こそ、今だった。
「うぐっ」
飛来した炎球がリベルカの剣に触れると同時に爆散した。衝撃と熱さに、顔をしかめるリベルカ。
態勢を整えようと試みるも、そこへ次の炎球が飛来する。得物を狙った正確な一撃は、彼女の長剣を弾き飛ばし、なおかつ利き手を焼く。
続いて左肩に衝撃。右膝、左膝、と続く衝撃に両膝を地に落とす。最後にやってきた胸への衝撃で、リベルカは呆気なく吹き飛ばされた。地に背中を打ち付け、仰向けに転がされる。朦朧とする意識の最中、空に向かって右手が伸びた。何かを探すようにさ迷う右手が、他の手に捕まれる。
「遅れて申し訳ありません。後は私に任せて、こちらへ。さあ、早く」
力強く握られた右手。それをどこか他人事のように感じながら、立たされる。朦朧としながらもジルを探すが、視界は漆黒に塗りつぶされ、ジルの姿はおろか、景観さえろくに認識できない。
あるのは、自身の右手と、そこに繋がれた誰かの手のみ。その手でさえ、手首から上は黒に塗りつぶされ、確認できない。
「ご安心を。私の術です。攪乱のための防護術です」
その言葉でやっと納得できた。おそらく、影術師のもちいる隠術の一種だろう。かの術師は、攪乱や隠匿を得意とするらしい。この漆黒も、それに類するものなのだろう。
手を引かれ、ふらふらとおぼつかない足で歩くこと数分。唐突に、視界が晴れた。見慣れない場所だ。体感的に、ジルといた場所からそれほど離れてはいないだろう。
まず、陽光を反射して煌めくそれが目を惹いた。巨大な湖である。木々に囲まれ、巨大な円形を為す湖に、リベルカで内心で首を傾げていた。
ジル・ドーラム急襲に先駆け、周囲の地形は何度も確認していた。山岳、渓流、身を隠せる場所と、帝国軍の進行ルート。他にも、伏兵の有無や、南部の援軍の可能性まで。地図上の全ては、頭に叩き込んである。なのに、この美しくも壮大な湖が、脳内の地図上には存在しない。
「驚かれたでしょう。無理もありません。この場を知るのは、陛下を除いて、私と貴女以外にはいませんから」
無言のリベルカの胸中を察してか、傍らから声が上がる。
改めて視線をやってみれば、思わず目を見開いた。声の主はあの黒ずくめの護衛。リベルカの視線に気づくと、護衛は、唐突に膝を折ってみせる。その場に片膝をつき、頭をたれた。
「お待ちしておりました、巫女様。おかえりなさい」
「……な、なんだって? 巫女?」
何の話をしているのか。
思わず聞き返すリベルカに、護衛は頭巾を脱ぎ捨てた。
そこにあった顔に、リベルカは言葉を失った。まず男ではない。しかし、問題はそこではない。頭巾からこぼれ、肩に流れた髪は金。熱を帯び、潤む瞳の色は海のそれ。筋の通った鼻梁と、引き結ばれた唇。見慣れた顔だ。それもそのはず。そこにあったのは、リベルカ自身と瓜二つの顔だった。




