逃亡者たち
暗き森の奥底に、聖域と呼ばれる場所があった。
レンダール帝国の遥か北に位置する大森林。
生い茂る木々に陽光は遮られ、日中にも関わらず薄暗い。紅葉の名残であろう落ち葉が地を埋めつくし、時折吹く風がそれを散らす。
生命の息遣いはない。獣の足跡も、鳥の声もない。そこにあるのは、風に揺れる梢のさざめきのみ。
森の最奥──聖域と呼ばれるそこに、ヒューリ・クロフはいた。
この世の終焉を目にしたかのような、ありったけの絶望を表情に浮かべて。
目を見開き、肩を大きく上下させ、荒い息遣いでそこにいた。
傍らには、白髪の少女。こんな状況にも関わらず、眠そうに目を擦っている。
そしてもう一人、金髪を頭上で結い上げた甲冑姿の女。こちらはヒューリと同じく、顔面蒼白といった有り様だった。初めて目にした護衛騎士の動揺。普段なら、弱味を握った気にでもなれただろう。しかし、今のヒューリにその余裕はない。
ヒューリは過呼吸気味の呼気を整え、改めて目の前の絶望と向き合った。
「…………なぜ」
誰にでもなく、震える声で問いかける。
そこには、巨木があった。
聖域の象徴たる古木。人がこの世に生まれる以前から存在していたとされる、最古の木である。
聖域に立ち入る者はなくとも、天にも登るその巨木は、誰の目にも確かな神秘として刻まれていた。故に、聖域が巨木を示すのであろうことは、誰もが知っていた。
「…………なぜ」
その聖域の象徴たる巨木の中心。太く頑強であるはずの幹に、風穴が空いていた。
傷ついた幹肌は、削られたように抉れている。傷はそのまま幹の中心にまで進行し、向こう側へと突き抜けていた。
「…………なぜ」
呆けたようにつぶやき、ヒューリは天を仰ぐ。
巨大な風穴を開けられた古木の枝先には、今もなお青々とした葉が健在し、とても傷ついたようには見えない。
しかし、その場にあるはずのものがない。その事実こそが、ヒューリに果てしない絶望を与えていた。
「説明してください、ヒューリ・クロフ」
真っ先に正気に戻った様子のリベルカが、ヒューリに詰め寄った。
「ここが聖域ではないのですかっ! なんなのですか、あの穴はっ! なぜ《法気》を感じられないのですかっ! 答えてください! 貴方は術師でしょう!?」
今にも斬りかからんばかりの剣幕で激昂するリベルカ。その眼前に、小さな影が躍り出る。
犬歯を剥き出しにし、獣のごとく唸るのは白髪の少女。ヒューリとリベルカの間に割って入るその様は、主を守る番犬のよう。
「リベルカ、うるさい」
「やめなさい、シロ。私は大丈夫ですから」
幾分か落ち着きを取り戻したヒューリが優しく告げ、そっとシロの肩に触れる。
それを合図に、シロはすっと後ろに下がる。
シロが落ち着いたのを見届けると、ヒューリは改めてリベルカと視線を合わせた。
「リベルカさん、私の話をよく聞いて。そして、よく考えてください」
いつになく真剣なヒューリの眼差し。
対するリベルカも、真剣な表情で頷きを返す。
「ここはもはや、聖域ではありません。いえ、それ以前にこれは異常事態です。すぐにこの場を離れた方がいい」
「異常なのは判っています。どうにかできませんか、ヒューリ・クロフ。術師の貴方なら──」
すがるようなリベルカの声を、続くヒューリの言葉が切り捨てた。
「無理です。貴女も判っているはずです。私は術師であっても、普通ではない」
そう。ヒューリ・クロフは術師でありながら、身の内に法気を持たない《厄種》。
「それが何ですか? 私には同じ人間にしか見えません。自分の価値に泥を塗って、目を背けようとする。貴方の悪いクセです」
リベルカの台詞に、ヒューリは思わず言葉を失った。
そんな風にいわれたのは、初めてだった。それに、リベルカ・リインフォードから、彼女自身の意見が飛び出したことも、余計に衝撃だった。
仕事以外のことは、全く語ろうとしない女だったはず。
「呆けている場合ではありませんよ、ヒューリ・クロフ。早く対処を」
急かすリベルカ。
どうしたものか、とヒューリが考えをまとめようとした矢先。
周囲から、足音が聞こえてきた。それも複数。同じく聞こえてくる金属音は、おそらく甲冑のそれであろう。
応援か、と喜色を浮かべるリベルカ。
しかし、足音の正体を目にした瞬間、鞘から長剣を抜き放っていた。
「おやおや、本当に笑えないですねこれは」
苦し紛れに笑うヒューリ。
現れた者たちの武装は、間違いなく帝国軍のもの。
しかし、その様相が普通ではなかった。
青白い顔で白眼を剥き、涎をたらしながら近づいてくる。ふらふらと死霊のように定まらない足で、剣を手に向かってくる。
「なんですかこいつらは! なにをしたのです!」
「私に聞かないでくださいよ。ああ、それとリベルカさん。前衛はお任せしますよ。自慢じゃないですが、呪術師はひ弱でしてね」
ヒューリがいい終わらぬ内に、向かってくる死霊もどきの一人に斬りかかるリベルカ。
その隙に、ヒューリはシロを手招きで呼び寄せる。
「シロ、よく聞いて。とりあえず、リベルカさんの手助けをしてあげましょう。あのおかしな連中をぶん殴ってください。大丈夫、手加減は無用です」
こくり、と頷くシロ。
「……わかった。殴ればいいんだね」
いい終わるや否や、走り出すシロ。
瞬時に死霊との距離を詰めると、その顔面に拳を叩きつける。骨の粉砕する鈍い音と共に、後方へ吹き飛ばされる死霊。
倒れ込んだ死霊は、しかしゆらりと立ち上がる。あらぬ方向へと傾いた首をそのままに。
「なるほど。不死身というわけですか。リベルカさん!」
声をあげるヒューリ。
僅かに視線を向け、反応するリベルカに指示を出す。
「奴らは不死身のようです! とりあえず手足をちょんぎってください!」
いいながらも、ヒューリの脳裏にはとある推測が浮かんでいた。
死霊のような人形と化した人間。魂を失ったかのような様相。そして、死を超越した肉体。
それらを可能とする術。禁忌とされる呪術の一つに、似たようなものがあった。
ヒューリの記憶が確かなら、この場をやり過ごすのは容易ではない。
死霊たちはおそらく、調査に向かって行方不明となっている者たちだろう。その数、数えるのも馬鹿馬鹿しいほどである。
相手は不死身。消耗戦に勝ち目はない。
ならば、とヒューリは指先を死霊の一人に向けた。
「だから嫌だったんですよ、聖域の調査なんて。ろくなことにならない」
呆れたように告げるヒューリの眼前で、指先を向けられた死霊が崩れる。その肉体は、塵のようにボロボロと崩れ、やがて風に乗って霧散した。
「さすがですね、ヒューリ・クロフ。それが呪術ですか」
いつの間にか、傍らに立っていたリベルカが感心したようにいった。
その賛辞に、ヒューリは首を振って否定する。
「いえ、正確には術ではありません。ただの呪詛返しです」
呪詛返し、と聞き慣れぬ単語に首を傾げるリベルカ。
「呪詛は呪術の源。法術における法気のようなものです。つまり、術者に呪詛を返して差し上げたのですよ。寂しい思いをしているといけませんからね」
説明してやると、リベルカは未だ理解できていないようで、首を傾げたままであった。とはいえ、懇切丁寧に説明してやっている時間はない。
ヒューリはすぐ様、次の標的に指先を向ける。
推測は正しかった。術は《呪魂》。肉体から魂を抜き出し、仮初めの命を与え、術者の意のままとする禁忌の呪術。それが大量に作り上げられている。
聖域を侵す者は、誰一人逃がさない。術者のそんな意図が透けて見えるようだった。
聖域からは法気が消失している。
今はまだ無事だが、おそらく古木は枯れる。すでに聖域の象徴たる法気が枯渇しているのだ。そう長くはないだろう。
そして、今回の調査。
異様なまでに作為的だ。
「何が起きている。陛下は何を──」
皇帝の意図がどこにあるのか、ヒューリは考えを巡らせていた。
今回の調査は、おそらく皇帝の指示ではない。大勢の行方不明者のことも知らない可能性が高い。
では、誰か。
この異常な状況を知っていてなお、自らは動かず、秘密裏に事態を鎮めさせようと画策する者。
そして、それと対立する呪魂の呪術師。
特一級術師に聖騎士、そして白死病の少女。
確かに、事態の終息には申し分ない面子である。
「ヒューリ! いっぱいきた!」
叫ぶシロの声に、思考を中断するヒューリ。
続いて、絶句。
大量の死霊が蠢いていた。その数、視界を埋め尽くさんばかり。
「リベルカさん! 逃げますよ!」
吠えるヒューリ。
しかし、リベルカは動かない。
確かに聞こえているはずなのに、眼前の標的のいくつかを斬り伏せ、蠢く死霊の大群に向かっていこうとする。
「死ぬ気ですかっ! 訳もわからずこんなところで!」
叫ぶヒューリの声にも、反応しない。
仕方がない、とヒューリは指先をリベルカに向ける。
「シロ! 合図をしたら、リベルカさんを抱えて走ってください!」
シロの返答を待つ時間すら惜しみ、即刻リベルカに術をかける。
呪をもって縛する。指先に乗せた呪詛を、リベルカ・リインフォードの名前に刻む。
──《呪縛》。
途端に、走るリベルカの足が硬直する。そして、そのまま石のように動かなくなった。
「今です! 走って!」
シロの反応は素早かった。
ヒューリが叫ぶ直前には動き出し、直後にはリベルカを抱えて走っていた。
白死病の末期罹患者。その特徴の一つである異常な膂力によって、大の大人を肩に担いで地を駆ける。
古木に背を向け、走るヒューリとシロ。
そして、小柄な少女に担がれ、恥ずかしさのあまり喚き散らずリベルカ。
幸いなことに、死霊どもの脚はそう早くない。
逃げ切れる。そのはずだった。
この時、少しでもヒューリが別の可能性に思い至っていれば、事態は変わっていたかもしれない。