災禍、白き慟哭と共に8
驚愕のあまり、声を張り上げるシュエレン。
対するリベルカは淡々としていたが、次の瞬間にはあり得ないことを口走っていた。
「穴が開いていた。法気を感じられなかったんだ、欠片も」
リベルカの語った内容に、シュエレンは絶句した。
言葉が鼓膜を打ち、脳を揺さぶる。鼓動は癇癪でも起こすように早打ち、例えようのない冷たい何かが全身を這う。
「……んだよ、それ」
「わからない。ただ、それがきっかけだったのは確かだ。私は罪人の脱獄を助けた上、聖域を汚した大罪人というわけだ」
「そんなこといってんじゃねえっ!」
そう、そんなことはどうでもいい。
リベルカがどうして今ここにいるのか、そんなことは問題ではない。この国へ亡命してきた経緯を知れたのは、なるほど確かに僥倖だろう。だが、それだけだ。
聖域が機能しなくなる。そんな異常にすぎる現象に比べれば、リベルカの身の上など些末なこと。
「ふざけんなよ。聖域だぞ? アンタんとこの巫女はなにやってたんだよッ!」
「……なに? 巫女?」
怒鳴るシュエレンに返ってきたのは、疑問の声。
まるで知らない単語を聞いたかのように、何だそれはといわんばかりに、リベルカは眉をひそめた。
「ちょっと待て。まさか、知らないのか?」
一拍おいて、頷きが返ってくる。
思わず、笑ってしまいそうになった。
そして、思った。クルセニスと帝国で、ここまで違うのかと。
ここまで認識の違いがあるのかと。
「一応、訊く。聖域とは?」
「法気の満ちる、何人たりとも立ち入ってはならない場所」
その答えは、シュエレンの懸念をよりいっそう確かなものに。
疑惑は確信へ。そして、絶望へと変貌する。
「違う……のか?」
反応を返さないシュエレンを不審に思ったのか、リベルカが不安げな顔で聞いてくる。
違う。
正確には、違うというよりも、もっとも重要な情報が欠如している。
「聖域には別称がある。なんでだよ? 何で帝国人のお前が、それを知らない」
「待て、シュエレン・ルトニカ。君はいったい…………何の話をしている。どうして、そんな顔をする」
自分は今、きっと酷い顔をしているのだろう。
だって、この女があまりにも無知だから。その愚かしさは、容易く呆れを通り越す。呆れよりも、おぞましさが勝る。
だから、きっと己のそれは酷い顔なのだろう。それこそ、絶望一色に染まっているはずだ。
「聖域はただの法気の源泉じゃない。世界に溢れんとする邪気を糧に、この世に法気を芽吹かせる──器なんだよ」
「……話が見えない。つまり、どういうことだ」
「アンタ、腕っぷしだけかよ。ここまでいってわかんねえか」
理解力のなさにシュエレンは脱力し、それでも判りやすく、できるだけ率直に答えてやった。
「聖域が機能しなくなれば、この世に邪気が溢れるってことだよ」
やっと理解できたのか、目を見開き、唖然とするリベルカに、シュエレンはさらなる事実を突きつける。
「知ってたか? レンダール帝国の聖域である神木。それこそ、もっとも強力な器だって」
それが壊された。となると、法気が枯れるのは時間の問題だろう。それこそ、戦争なんてしている場合ではない。あまりに馬鹿げている。
だから、シュエレンは忠告する。何も知らないこの女に。
「亡命してきて正解だったな。アンタの国はもう駄目だ」
あらゆる法気が枯渇し、それを糧とする法術は軒並み発現しなくなるだろう。となれば、結界の類も意味を成さなくなる。
「……嘘だ」
「事実さ。そんな時に、アンタんとこの皇帝は戦争を優先させている──いや」
そこで、シュエレンは言葉を切った。
もしや、と思ったのだ。今、この状況だからこそ、本気で南部を喰らう腹積もりなのやも知れぬ、と。
そうだとするならば、話は判る。実に判りやすい。自分の家の庭がもはや朽ちていくのみだと知れば、隣の家の庭を自分の物にすればいい。例え、それを奪ってでも。
「──そうか。だからか」
どういうことだ、と詰め寄ってくるリベルカを無視し、シュエレンは思考に没頭する。
小競り合いだけなら幾度もあった。
だからこそ、違和感があった。
“獅子”や“紅蓮”を投入し、本気で潰しにかかってきていることに。
無論、疑問はある。聖域は国家のみならず、この世界においても重要なものだ。それをあの帝国が、そうやすやすと聖域の消失を許すだろうか。
そもそも、巫女が不在という時点ですでに異常である。聖騎士であるリベルカが知らないという線は薄い。外敵から守るためにも情報の秘匿性は高い。が、その点は絶体不可侵という世界共通の認識が盾となる。
つまり、巫女の存在を隠す必要はない。
だとしたら、何故か。何故、帝国には巫女がないのか。継承者がなかったのか。それとも、はなから必要なかったのか。
巫女の必要性──そこに着眼し、何か掴めそうなところで、シュエレンの思考は途切れた。
「──隊長! シュエレン!」
シュエレンの思考は、険しい表情でこちらに駆け寄ってくるエバンの声にかき消された。
エバンは側にくるなり、堰を切ったように早口でまくし立てる。
「“紅蓮”ジル・ドーラム率いる帝国軍が接近中。ガラント・エルグッド殿指揮の元、これを迎撃。なお、我々速突隊は最前線にてエルグッド殿の副官に従えとのこと」
「副官だ? 誰だよそれ。死んでもないのにまた隊長が替わるってのか?」
不満を隠そうともせず声に乗せ、エバンに食ってかかるシュエレン。
リベルカの時もそうだが、いつだって上に立つ人間は勝手なことをする。こちらの心情などお構いなしに、ただ従えと。
シュエレンには、それが気に入らない。
「おいおい。八つ当たりはやめておくれよ。僕だって納得はいかないさ」
エバンも心情的にはこちら寄りのようだった。
視線を傍らにやると、なるほど、と頷くリベルカがいる。
「つまり、私は指揮から外れるということか。何か聞いているか?」
リベルカの問いに、いいよどむエバン。
よほどいい辛いことなのか、リベルカから目を逸らし、シュエレンに困り顔を向けてくる。
嫌な予感がした。
「いえよ、エバン。ろくでもねえことなんだろ、どうせ」
「残念ながら、ね。隊長──いや、リベルカさんには別の指示がある」
リベルカに下された指示。
エバンは苦渋に染まった顔でそれを告げ、リベルカは何でもないことのように了承した。
ただ一人、やり場のない怒りを握り潰すように、シュエレンは固く拳を握りしめていた。




