双頭の蛇8
「アンタ、名前は?」
問いかけてみても返答はない。それ以前に、そっぽを向いたまま、目を合わせようとすらしない。
「いつまですねてんだよ。せっかくここから出してやろうと思ったのに」
「ホント!?」
即座に顔を向けてくる少女。期待に満ちた目が輝きを放っている。わかりやすい。どうにも現金な少女であった。
クレハが頷いてやると、少女はそれなら、と口を開く。
「名前は忘れた。今はシロって呼ばれてる」
「おいおい。忘れたってアンタ──」
そんなわけないだろう。そういいかけ、しかし止めた。白死病といえば、アスヴィオルの悲劇として有名だ。帝国でも有数の大都市が滅んだことも。生存者がただの一人もいないことも。
つまり、少女を知る人間はもうこの世にいない。
「まあいいや。それにしてもシロ、か……まんまだね」
「うん。アタシもそう思う」
「よく生きてたもんだ。白死病は不治の病だってのに」
クレハの台詞に、シロと名乗った少女は真剣な面もちで首を左右に振った。
「違う。病気なんかじゃない」
確かに、病の症状ではない。それは法医であるクレハから見ても明らかだった。
考えるクレハをよそにシロは続ける。
「軍の人が街にきた。たくさんきた」
シロの目から光が失せる。虚ろな瞳はどこか遠くへと向けられ、表情もなく淡々と語っていく。
「みんな剣をもってた。動けば殺すって。大人はみんな怒ってた」
シロが語るにつれ、クレハの表情も徐々に真剣なものへと変わっていく。シロの話す内容は、帝国の闇そのものであった。
「その日から、街を出れなくなった。いつも見張られていて。それでしばらくたって──おかしくなった」
「おかしくなった?」
眉を寄せるクレハに、シロは小さく頷く。
「みんな白くなっていった。髪も目も。ぜんぶ真っ白に。それからみんな死んでいった」
淡々としたシロの口調。無表情で話してはいるものの、シロのその態度に、クレハは妙に胸がざわついた。
まだ幼い。それも自分よりも。幼い少女が語ることにしては、あまりに酷い話だった。何でもないことのように話すシロの姿が、だからこそクレハには余計に痛々しく見えた。
「軍人たちは誰も助けようとはしなかった。アタシが助けてっていっても、ただ見てるだけだった」
クレハの表情が歪む。脳裏にその光景を思い浮かべてしまった。だからこそ判る。その光景がいかに異様か。
「シロ、アンタその時なにかされなかったかい? 何でもいい。例えば身体に触れられたとか」
問われ、首を左右に振ってみせる。
「起きたら真っ暗な牢屋にいた。だから、なにも知らない」
真っ暗な牢屋。そう聞いて思い浮かぶのは、奈落の牢獄。極悪人たちの終末の地。千年塔。
クレハも人づてに聞いた話を知っている程度だが、それでもこの世の地獄であることは容易に想像がつく。狂人と化す者も少なくないという話だ。到底、目の前の少女に耐え得るものではない。
「…………何が目的なんだろうね」
思考が口をついて出る。
アスヴィオルの悲劇が意図的なものだったとしたなら、その目的はどこにあるのか。生き残ったシロこそが、おそらくは奴らの目的そのものなのだろう。そうでなければ、わざわざ生かしておく必要もない。
監獄にいたという割りに拷問の跡が見受けられないことも、クレハの判断材料の一つであった。
「ここから出たとしてさ、アンタはどこへ行きたい?」
純粋な疑問だった。シロに帰る場所はないだろう。もはや、彼女の帰りを待つ人間がいない。
しかし、クレハの予想とは違い、シロははっきりと答えた。
「ヒューリのとこ」
「ヒューリ? 誰だいそりゃ」
クレハが訊ねると、シロは嬉しそうに頬を緩める。
なるほど、とその表情を見てクレハは思う。きっと、大切な人がいるのだろう。
「アタシに優しくしてくれた人。あそこから出してくれて、いつもおいしい物をくれるんだよ」
いいでしょう、と微笑むシロ。その姿がどういうわけか、クレハには輝いて見えた。とても大切な、それでいて亡くしてはならないもの。
自分には、もうないもの。
「よし! それじゃそろそろ行くか」
とびっきりの笑顔で、クレハはシロに右手を差し出した。
「ここは迷いやすい。しっかりついてきな」
──お前の笑顔は、私が守ってやる。
「ヒューリだっけか? 会えるといいね」
軟禁に使っていた一室を出る間際、告げたクレハの言葉にシロは大きく頷いた。
背中に岩が滑る音を聞きながら、クレハは進む。
アジトの構造は複雑だ。素人が目的地にたどり着くことは不可能だろう。知らぬ者からすれば、一種の迷宮である。
おまけに、侵入者撃退用のトラップも多数仕掛けられている。こうして手を引いてやらねば、どこで致命傷を負うか判らない。
「はいそこでストップ。次はこっち」
シロの手を引きながら、松明の灯りを便りに進んでいく。といっても、シロのための灯りであってクレハには本来必要ない。目を閉じていても自由自在に動き回れる程度には、アジトの構造を理解している。
「よし、ここでいったん休憩にしようか」
「やだよ。さっさといこうよ」
クレハの提案に、シロは即答する。
が、残念ながら休憩する他ない。
向こうから誰かがやってきた。
「……姉御」
声をかけてきたのは、クレハのよく知る男。
男はクレハの背中へと視線を移し、表情をわずかに歪め、再び視線を向けてきた。
「なにやってんです?」
咎めるような声で男はいう。
「そいつ、ローランのでやしょう? 勝手に連れ出すのはいかがなもんかと思いますぜ」
「おいおいジャック。いつからローランの肩を持つようになったのさ」
ジャックは答える代わりに肩をすくめてみせる。
そして表情を消すと、腰から短剣を抜いた。
クレハの眉が跳ねる。
「抜いたね…………本気かい?」
「姉御こそ、本気なんですかい? 俺ぁ通しませんよ」
短剣を構えるジャックに、クレハは背中のシロに、
「下がってな。それからじっとしとくこと」
シロの答えも聞かずに、クレハは両の拳を握った。
「……ジャック。サリヴァンはもうダメだ。悪いことはいわない。ここを出ていきな」
「話が見えねえな。頭の何がいけねえんです?」
「アンタにも判るはずさ。あいつは私に、この子を始末しろっていったんだ」
思い出しただけで吐き気がするクレハ。
声だけでジャックもクレハの怒りに気づいたのだろう。わずかに目を見開き、静かに短剣を下ろした。
「だからってよお──こりゃあねえぜ姉御。アンタだから、ついてきたんだ。アンタだったから、命を預けてもかまわねえって思えたんだよ俺ぁ」
寂しげに肩を落とすジャック。殺気を消してうつ向く男。線の細いジャックがいつにも増して小さく見えた。
「ジャック…………」
呟くクレハの眼前で、顔を上げた男は再び短剣を構える。
「頭のこたぁ心配いらねえよ。俺が調べときやしょう。ただし、けじめはつけてってくだせえ」
「アンタも馬鹿だねえ。威勢だけは一丁前じゃないさ」
負ける気まんまんの男に、思わず笑ってしまう。
そうだ。ずっと二人でやってきたんだ。クレハの人となりも、その実力も、眼前の男はよく知っている。誰よりもクレハを理解しているはずだ。
だからこそ──
「悪いね、ジャック」
「がっ! ち、ちくしょうが」
クレハの拳が、ジャックの腹部にめり込んでいた。さらに力を加えると、周囲の骨をきしませ、呻くジャックの声がより苦しげなものへと変わっていく。
「馬鹿だねえ、ホントに。でもまあ、楽しかったよ。それから──」
──ありがとう。
クレハのその声が届いたのかどうか。それは彼女にも判らない。
すでにジャックは気を失い、地に伏していたから。
「もう……いいの?」
遠慮がちにかけられた背後からの声。
クレハが振り向むくと、シロは複雑そうな顔を向けていた。
「ああ。これでいい。さあ、それじゃあ行こうかね」
少女の手を引き、クレハは再び走り出す。




