双頭の蛇6
夢を見ていた。もう顔も思い出せない両親と、故郷の夢。
懐かしい草原の匂いと、口うるさい母の怒鳴り声。近所のパン屋のおばさんの笑顔。昼間から酒を煽るやる気のない詰所の兵士からチビとからかわれ、それをいさめる兵士の奥さん。故郷を駆け回る今よりもずっと小さな自身の身体。そして、やんちゃな自分を止めにくる、困り顔の父親。
もう二度と目にすることのないありふれた日常。
「…………またか」
ゆっくりと目を開け、頬を伝う雫に気づくと、それを拭って辺りを見渡した。
知らない場所である。というより、闇が濃いせいでどこにいるのか判断がつかない。記憶を探ってみても、南部の兵士に拘束されてからの記憶がなかった。そこで、シロは思考を放棄する。判らないものは判らない。つまり、どうでもいい。
それよりも、とシロは思う。
また夢を見た。ここ最近は見なくなっていた、ありし日の故郷の夢。
「…………やっぱり、思い出せないか」
いつものことだ。風景も匂いも鮮明に思い出されるのに、両親の顔だけはいっこうに脳裏に浮かんでこない。そして、空しくなる。
ぼんやりとこれまでのことを思い返す。思えば、ずいぶんと遠くにきたものだ。あそこで老いて死んでいくはずが救い出され、今は南部である。いや、ここがどこなのか知れない今、もしかすると南部を出ているのかも知れない。
「あ、起きたか」
声と共に唐突に飛び込んできた強烈な灯りに、シロは思わず目を逸らした。目が光に慣れていないせいか、一瞬だけ見えた光が瞼の裏を焼く。
「食いな。ほれ」
うっすらと目を開けると、松明を片手に小柄な少女がパンを差し出してくる。
桜色の髪。見覚えのある少女だった。誰かと疑問に思うよりも早く、シロは気づく。アバンを救おうとしてくれた、いつぞやのお医者さんである。
「あ、お医者さん」
「法医ね。ほら、さっさと食いな」
手渡されたパンをじっと見つめるシロ。硬い。それでいて乾き切っている。試しにかじってみる。が、途端に表情を歪めて吐き出した。
「な、なにこれ」
「なにってパンだよ」
「か、硬い」
苦々しく告げるシロ。と、少女は何を思ったのか、シロからパンを取り上げると、再びそれをシロの口へとねじ込んだ。それこそ、殴りつけるような勢いで。
「ふぐっ」
「贅沢いってんじゃないよ。貴重な食糧だ。黙って食いな」
ぎろり、と蒼い目で睨まれ、しぶしぶ口の中のそれを咀嚼する。
やはり、硬い。ヒューリと行動していた時とは大違いである。監獄での食事よりはマシだが、それでもヒューリとの生活に舌が慣れてしまっているせいか、とてもパンとは思えない。
再び吐き出そうとするシロの顎を、少女が掴む。
「飲め。出すな」
これまたしぶしぶ、シロは口の中のパンを飲み込んだ。味はない。栄養があるのか疑わしいほどの無味である。
「さて、それじゃあ失礼して」
いいながら、唐突にシロの身体をまさぐり始める少女。
抗議の声を上げようにも、パンが喉に詰まって声が出ない。
「──って何をやってんだい。ほれ」
差し出された水を飲み干し、
「い、いきなり何だよ! 触らないで!」
「何って仕事だよ。ただでさえ意味不明な身体なんだ。ある程度は調べとかないとね」
落ち着き払った声で告げる少女。当たり前だろ、といわんばかりの表情である。
「意味不明な身体?」
首を傾げたシロに、少女は頷いてみせる。
「ああ。意味不明だね。白死病だか何だか知らないけど、病ってより異常体質って方がしっくりくる」
そして、再びシロの身体をさわり出す少女。
「うーん。筋繊維の発達も異常だね。法気の流れは……正常っと。ったくどうなってんだか」
「そんなに変?」
「とびっきりね。流れは正常だけど、普通の法気じゃない。なんかこう複雑な感じになってる。ま、説明したところで判んないだろうけどね」
自分は、そこまでおかしいのだろうか。
確かに、自分を見る他人の反応を目の当たりにすれば、自分が疎ましがられていることは容易に想像がつく。が、病気だと思われているところがシロには理解できない。
「どうでもいい。それよりもう飽きた」
ここにいてもヒューリには会えないし、そもそも暗い場所は好きじゃない。
「どこにあるの出口」
「ないよ、そんなもん」
返ってきたのは、冷たい声。
「まだ寝ぼけてんのかい。アンタはここから出られない……ずっとね」
つまり、囚われの身ということか。それを聞いて、シロは自然と口許が緩むのを感じる。枷もなく、自分とそう歳の変わらない子供が自分を止め得るはずがない。
「じゃあ、殴り倒して出ていく」
いって少女との距離を計る。
幸いなことに、松明のおかげでずいぶんとよく見える。これなら、一瞬でカタがつく。
思考に半秒。シロは飛びかかった。
一発殴ればそれで決まりだ。アバンのこともある。手加減は忘れずに、右腕を振り抜いた。
が、しかし──
「あ、え?」
間抜けな声をもらし、視線はあらぬ方向に向いていた。そして徐々に、打ちつけた背中が痛みを訴えてくる。投げられた──その事実に気づいた時には、腹の上に少女が馬乗りになっていた。
「力任せはよくないねえ、クソガキ」
背筋の凍るような眼で、少女が見下ろしてくる。
「闇雲に突っ込んできてこの私がどうにかなるとでも? 眠てえな、おい。世間知らずのクソガキ様」
「ど、どうして」
負けた。それも子供に。信じられない。シロの動揺は、そのまま口を突いて出てきていた。
動揺を隠せないシロを、少女は鼻で笑う。
「何だよ。今まで力で解決してきたのかい? どこまで馬鹿なんだか」
呆れたような少女の声に、シロは弾かれたように飛び起きる。起きるついでとばかりに、右足で少女を蹴り上げようと試みる。が、呆気なくかわされた。
「はあ……ったくこのじゃじゃ馬が」
「馬鹿じゃない! 訂正しろ!」
「余計に馬鹿っぽく見えるよ。そうやってムキになるところとかね」
にやり、と笑う少女に再びシロが殴りかかる。
顔面を狙った本気の一撃。しかし、少女は表情すらかえずにこれをかわす。そして、そっと腹の辺りに手が差し入れられる。
次の瞬間。
腹部で何かが弾けた。続いてやってくる衝撃。それと同時に、シロは後方へと弾き飛ばされる。
「あがっ」
背中を打ちつけ苦悶の声を上げると、ずるずるとその場に崩れ落ちる。
「どうした? もう終わりかクソガキ」
挑発的な笑みを浮かべる少女。
シロは、未だ衝撃の残る腹をさすりながら立ち上がる。
一撃だ。一撃さえ入れば、それで決まる。
意を決して飛び込むシロ。そしてその直後、呆気なく地を転がされる。まるで歯が立たない。一撃どころか、かすりもしない。
「無様だねえ。ま、食後の運動にゃ丁度いいだろうさ。これに懲りたら、私のいうことは聞くように」
それじゃあ、といって背を向ける少女。何か大きなものが動くような音をたてたかと思えば、再び暗闇がシロを包み込んだ。
未だ地に伏したまま、シロは決意する。必ずあいつを殴り倒す、と。




