白き病2
案内された場所は、看守たちの共同部屋のようだった。脱獄を警戒してか、窓は数えるほどしかなく、日当たりはないに等しい。
この時季ともなると、寒さは一気に威勢を増す。それこそ、凍死者が出てもおかしくはないほどに。
ここで数日を過ごす者もいるのだろう。部屋中の隅々にまで掃除は行き届いているようで、保存食は無論、寝袋まで用意されている。牢獄だというのに、妙に生活感に溢れていた。
「初めまして! ヒューリ・クロフ様ですね?」
にこやかに告げてきたのは、栗色の髪の少年。その姿に、ヒューリは思わず目を丸くした。
まず若い。十代半ばといったところだろう。幼さの残る顔は、こんな場所には似つかわしくないほどに純朴そのもの。
華奢な体躯を包む軍服は、そもそもサイズが合っていない。その証拠に手は完全に隠れ、ズボンの裾は爪先にまでかかっている。
が、何よりもヒューリが驚いたのは、少年の鳶色の瞳から溢れ出る輝きだった。
その輝きは未だかつて、ヒューリが一度として向けられたことのないもの。
「ゆっくりしてもらいたいところですが、そうもいかないようで残念です。でもこうやって直にお目にかかれる日がくるなんて……」
少年の瞳に浮かぶ輝きは、尊敬のそれであった。
敵意でもなく、嫉妬でもなく、また殺意でもない。
慣れない視線を向けられ、呆けたような表情で固まるヒューリに、少年は照れ臭そうに頭を下げた。
「す、すみません興奮しちゃって。職業柄、呪術師と話せる機会なんてそうそうなくて……それも“特一級術師”となると、そりゃあもう奇跡のようなもので」
「は、はあ。それで? 貴方はいったい……」
ようやく我に返ったヒューリ。少年の態度に戸惑いながらも、先ほどから感じていた疑問を口にする。
「申し遅れました。アレス・ルインオーラです。ここの看守長を任されております。あと、もう一人の案内は故あって不在です」
平然と告げる少年に、ヒューリは絶句する。
極悪人の巣窟である千年塔。鎖に繋がれているとはいえ、彼らは獣と大差ない。そんな彼らを飼育する者の長が、目の前の純朴そうな少年だという。どう考えても不釣り合いだった。
それこそ、獅子の群に迷い込んだ兎である。噛みつかれては無論、怪我ではすまないだろう。
黙りこくっているヒューリを不審に思ってか、アレスと名乗った看守長は怪訝そうに眉根を寄せる。
「失礼。噂の大監獄の看守長にしては随分と可愛らしくて、つい……」
「あはは。自分でもそう思います。場違いなのは自覚してるんですけどね。どうにもここは、僕以外には無理らしくて」
仕方がない、と肩をすくめて苦笑をもらすアレス。
自分以外には無理、という彼の台詞に違和感はあったものの、いちいち訊ねていては話が進まない。
「申し訳ありませんが、そろそろ本題に入って頂けますか? 何しろ、説明もなく突然ここに連れてこられたもので」
疲れたようにため息を吐くヒューリに、アレスは笑顔で頷いた。
「それもそうですね。それじゃあ、早速ですけどついて来てください。歩きながら説明しますので」
幼すぎる看守長に促され、素直に小さな背中を追いかけるヒューリ。
「足元にご注意を。下は相当暗くなってますので。今はまだ大丈夫ですけど」
下、という単語に疑問を覚えたヒューリは、問いかけようと口を開き、直後にその意味を知った。
口を閉ざしたヒューリの眼前に、巨大な大穴が口を開けていたのだ。
看守部屋を出て直ぐ。一際広い空間の床を穿つようにして、奈落が拡がっている。
「上、つまり地上は看守の交代などに使われています。実を言うと、牢獄そのものは地下なんですよ」
知らなかったでしょう、と何故か得意気なアレス。
無論、初耳であるヒューリは食い入るように大穴を見下ろしていた。
そもそも、千年塔の正確な情報は少ない。帝国領内における最悪の人種を収監する牢獄。それだけである。
「ちなみに、下に行くには階段を。罪人を連行する際もこの階段を使います。といっても、後は食事を持っていく時だけですけど」
軽く説明を挟みながら、大穴に足を踏み入れるアレス。
その光景にぎょっとするヒューリを安心させるためか、アレスは振り向いて、
「大丈夫ですよ。ほら、ここ。一段目です」
云われてみると、確かに大穴の一部に足場が見える。薄暗さのせいもあって、決して良いとはいえない視界の中、奈落の底へと向かう暗黒にぽつり、と浮かぶようにして足場が点在している。
「次は……ここ。その次はここです」
言いながら、散歩でもしているかのような気軽さで進んでいくアレス。
追いかける側のヒューリとしては、たまったものではない。何せ、下りていくごとに暗さは増していくのだ。
八段目にまでくると、視界はほぼ闇一色となり、そこから五段も行けば、もはや足場は完全に見えなくなっていた。
アレスの立った場所を目に焼きつけ、恐る恐る足を伸ばす。
「アレスさん。その……もう少し慎重に行きましょう。実はこう見えて小心者でして」
「大丈夫ですよ。ほら、次はここ」
よくもまあ、にこにこしながら進んでいけるものだと、ヒューリは内心で感心していた。
一歩でも踏み間違えば、そのまま真っ逆さまである。底が深ければ、死は避けられないだろう。第一、底が見えない。
ついていくので精一杯のヒューリに比べ、アレスは足場の位置を完全に把握しているのだろう。軽やかな足取りで、暗闇を踊るように進んでいく。
階段とはいっても、やはりそこは牢獄らしく、足場の位置は滅茶苦茶であった。設計が頭に入っている者でなければ、階段の意味を成さない。
「それにしても、随分と複雑な構造ですね。下りるだけでも骨が折れそうだ」
いいながら、ヒューリは次の足場へ跳ぶ。
アレスがひょいっと次の足場へ移れば、それを追って跳ぶ。
その繰り返し。
「そういえば、ヒューリさんはリインフォード様を護衛につけているとか。特一級術師と聖騎士が肩を並べるなんて……まるでどこかのおとぎ話のようですね」
楽しげに話すアレス。
声を弾ませるアレスに対し、ヒューリはわざとらしく肩を落とした。
「とんでもない。彼女はどこまでもついてきます。それこそ、用を足す時までついてきそうで……まあ、おかげで頼もしい限りですがね」
足場から足場へ跳び移りながら、悪態を吐くヒューリ。
そんなヒューリの言葉をどう捉えたのか、アレスは声を上げて笑い出す。腹を抱えて大笑いし、危うく転げ落ちそうになったところをヒューリが慌てて掴みかかった。
「──おっと! 気をつけてくださいよ。貴方がいなくては私が困ります」
戻ることも進むことも不可能になり、途方に暮れてしまう光景が脳裏に浮かぶ。その恐怖に、思わず身震いするヒューリ。
一方のアレスは、未だ目の端に涙を浮かべたまま笑っている。
「ふう。助かりました。それにしても恐ろしいことをいいますね。騎士団の連中が聞けば卒倒しますよ」
アレスの台詞に、ヒューリは首を傾げた。
ヒューリから返答がないことで察したのか、アレスはああ、と一人納得して続けた。
「ご存知ありませんでしたか。リベルカ・リインフォードは、騎士であれば誰もが一度は憧れ、また共に戦場に立ちたいと願う。騎士団に属する者にとっては女神のような人物ですよ」
その話を聞いて、ヒューリはやっと得心がいった。
二人で街中を歩けば、決まって突き刺さってくる嫉妬に満ちた視線。それのほとんどが騎士だったような気がする。
女であるにも関わらず、すれ違っただけで異様に畏まった挨拶を受けていたのも、そういうことだったのだろう。
「うーん……女神、ですか。それはまた笑えない冗談ですね。私見ですが、ただの堅苦しい女騎士に思えます。決められた言葉しか話せない、典型的な人形とでもいいましょうか」
「ヒューリさん……殺されますよ。彼女を盲信する騎士はかなりの数です」
苦笑気味に注意を促してくれるアレス。
そういいながらも彼は、自分には全くその気がないことを暗に告げているようだった。
「それはまた物騒な話ですね。女性でありながら騎士というのは、そこまで凄いことなのですか?」
率直な疑問を口にすると、アレスは即刻否定を返す。
「それは違います。女騎士は確かに珍しいですけど、それだけを理由にあれだけ崇拝されることはないでしょう。理由は彼女が聖騎士であるということ」
「聖騎士? さっきもそう仰ってましたが、それがまた判らない。数年間、ここで暮らして来ましたが、未だに帝国の軍事制度には疎いもので」
どんどん下へ下へと向かっていく中、二人の声が暗黒に響く。
普段のヒューリなら、ここまで長話はしなかっただろう。さっさと本題に入ってくれと遠回しに告げたに違いない。
現に、千年塔に入ってすぐ、ヒューリは本題に入るようアレスに告げた。
しかし、今は少しでも会話で気分を紛らわせたかった。
拭い去ることのできない、決定的な違和感。それを、すぐ側にまで感じていたから。
「帝国軍は現在、二つの組織で成り立っています。それはご存知ですね?」
ええ、と頷くヒューリ。
アレスは続ける。
「一つは正規軍。これは戦時下における投入兵力のほぼ七割。その大半が一般兵と低級術師、そして少数の指揮官で編成されます。そして、もう一つが騎士団。投入兵力の二割がこれに当たります。緊急時の帝都防衛を任され、貴族、平民を問わず、単純に強い人間だけで編成されます」
ここまでで何か質問はあるか、と問いかけてくるアレス。
「全く関係のない質問なら一つ」
そう告げたヒューリの表情は、少しばかり歪んでいた。
聞きたくはない。しかし、聞かずにはいられない。
「何なのでしょう? さっきから聞こえてくる……この“音”は」