風船の花が咲く町
春とはいえ、まだ朝の空気は冷たい。なるべく風が肌に触れないように首をすぼめ、手はポケットにつっこんだまま急ぎ足で駐輪場に向かう。
ふと、電柱の陰にひっそりうずくまる風船を見つけた。
ずいぶんしぼんでいて、すでに飛べなくなってしまった風船は、じっと誰かに拾ってもらうのを待っているように見えた。
やれやれ。
目が合ってしまったような気がして、やり過ごせない。オレが近づくと、嬉しそうにその場でくるくる揺れて見せた。
薄汚れた黄色の風船には、長い糸で白い小さな封筒が結わえられている。中を見ようとした途端、するりと糸がほどけてしまった。
自由を得たとばかりに風船は、風に吹かれアスファルトの上を転がっていく。
かまわないさ。まさか会社にまで持っていくつもりはなかったから。
封筒の中には五粒、ヒマワリの種が入っていた。
しかし、それよりもオレを驚かせたのは、封筒の裏に書かれたメッセージのほうだった。
『たすけて』
黄色い風船といえば、そうそう。毎年、小学校の卒業式のときに、全校生徒がグランドに集合して一斉に飛ばしたっけ。
ヒマワリの種を入れた白い小さな封筒を、風船の糸に結わいて。
封筒には思い思いの言葉を書いた。
『世界が平和になりますように』
『地球が緑でいっぱいになりますように』
『ヒマワリ大切に育ててください』
バカなやつが『○○さんと両想いになりたい』なんて書いて、次の日に近所のおばさんに拾われ笑い者になっていたな。
青空に吸い込まれていく黄色い風船たちは、児童の想いをより遠くに届けようと、精一杯がんばっているように見えた。
せまい町だったが、なかなか脱出するのは難しかったらしく、ほとんどが二・三日で町のひとたちに拾われた。
『拾いましたよ、大事に育てます』と学校に連絡をくれる親切なひともいた。
誰にも見つからなかったものは、学校の裏山や川原や道路のわきに、突然黄色の花を咲かせてオレたちを驚かせた。
その種を拾い、また少し寒い春のはじめに空に放つのだ。
一年生から五年生までのうちは、ただ風船を飛ばすことが楽しかった。
だけど、六年生のときは違った。
おごそかに卒業式を終え、目と鼻を真っ赤にして抱き合う女子たちと、それをからかう男子たち。いつものようにヒマワリの種が入った封筒を渡されたとき、みんなじっとそれを見つめ、やがてペンを握った。
六年間の思い出が、鮮やかによみがえる。二週間後には隣の中学で再会するのだけれど、この校舎、体育館、グランドで学び遊ぶことはもうないと思うと寂しくてしかたなかった。
『ハタチになったら、みんなで酒を飲もう!』
ふざけたようなメッセージは、精一杯の強がりだった。
それを見た担任のみっちゃん先生は、オレの頭を軽くこづいて『いいねぇ』と笑った。
だけど、オレはハタチになる前に町を出た。
代々受け継がれたヒマワリの種は、まだ町のあちこちに黄色い花を咲かせているだろうか。
退屈な会議が終わるまで、ぼんやり窓の外を眺めながら『たすけて』について考えた。
緑のクレヨンで書かれた子供の字。
いじめられているのだろうか。
虐待を受けているのだろうか。
まさか犯罪に巻き込まれてはいまい。
……ただのいたずらならいいが。
会議が終わるとデスクに戻り、パソコンに向かって真面目に仕事をするふりをしながら近隣の小学校を調べた。お茶を入れてくれた女のコが、『なにサボってるんですか』と苦笑いする。
この町には三つ小学校があった。そのうち二つは会社から近く、あとの一つはオレの部屋から近かった。
バカバカしいとは思ったけれど、電話番号を控えておいた。
昔、風船を拾ったひとが連絡をくれたら嬉しかったじゃないか。
昼休みにケータイとメモを握りしめ、屋上に出た。アスファルトの上を走り去った風船も、できることならこんな青空に浮かんでいたかったんじゃないかと思う。
遮るものが何一つなく、山のむこうのあの町にも飛んでいけそうだ。
「そちらの小学校で最近、風船を飛ばすようなイベントはありましたか?」
突然の電話に、三つの小学校は丁寧に対応してくれた。しかしながら、答えはNOだった。
やれやれ。
フェンスにもたれて風を感じる。
瞳を閉じると、ふわりふわりあの山を越えて懐かしい町にたどり着く。特急電車で四駅、そこからバスで終点まで。
すぐ近くなのに、遠くて帰れない。
ハタチなどとうの昔に過ぎ去り、もうすぐ三十になろうというのに。
実際には、盆と正月くらいは帰っていた。しかし、なまじ近いものだから、終電には間に合うようにと晩飯の後には実家を出た。
親に近況を報告し、少しのんびりするくらいで、友達には会おうとしなかった。
たいした理由はない。
ただ、あの町に帰るたびに、オレの居場所がなくなっていくのを感じた。両親のもとでさえ、居心地が悪い。
ほんの些細な反抗心で、町を捨てた罰なのかもしれない。
さて。
どうしても捨ててしまうことができなかった白い小さな封筒を、上着のポケットにねじこんだ。
こんな理由でもなけりゃ帰れないなんてな。ありえないと思いつつ、オレは十数年ぶりに母校を訪ねることにした。
日曜の昼下がり、流れる車窓の風景は薄紅に染まりはじめている。まだ花見には早そうだが、揃いのハイキング・シューズを履いた家族連れや、幸せそうな恋人たちや、すでにほろ酔いな学生たちで、車内は混雑していた。
駅に降り立ち、肺にいっぱい空気を吸い込んだ。
春の陽気と冬の名残が混ざり合った、温かく冷たい空気。
『おかえり』と『なぜ来た』が混ざり合った……。
バス停の時刻表と腕時計を交互に眺める。いつのまにか、知らない路線が増えていた。
バスの乗り心地は相変わらず最悪で、上下左右に揺れてオレの心を悪しくする。
ふと、斜め向かいに座っていた女性三人組が、小声でぽそぽそ話しては、こちらをちらりと見ているのに気付いた。
「あのぅ、……君じゃないですか?」
オレははっと顔を強張らせた。
「あぁ、やっぱり!」
「私たちのこと、覚えてる?」
「今までどうしてたの」
殺風景だったバスの中に花が咲く。
そしてよみがえる記憶。
あぁ、忘れるはずがない。
胸がもぞもぞと騒ぐ。
くすぐったい。
「ひさしぶりだな。みんな、まだここに住んでたんだ」
彼女たちの顔は、どちらかというと彼女たちの母親を思い出させた。
「違うわよぉ」
「やっぱり知らなかったのね」
「じゃあ、偶然?」
なんのことだろう。たしかに、彼女たちとの再会は偶然だが。
一人がハンドバッグから葉書を出した。
『……小学校閉校式のおしらせ』
オレは何度もその葉書を読み返した。
高校卒業と同時に家出するように町から離れ、就職、転職、人事異動、と何度も引っ越した。オレの住所など知ってるのは親くらいだろう。
「そうか……知らなかった」
胸のもぞもぞが形を変える。
バス停からの坂道は、もっと長くて急じゃなかったっけ。
三分咲きの桜の枝は、もっと手が届かないほど高くなかったっけ。
校門では知らない先生たちが会釈する。
何代もの卒業生が集い、同級生を見つけては肩をたたき昔を語る。
なんだろう。
胸の中をうごめく違和感に落ち着かない。
「残念ですな……」
などと挨拶をかわす卒業生たち。
そうだ。ここはオレが知る小学校ではないのだ。
あの日のまま変わらずにあると思っていたのに。
あの日のまま変わらずに……。
オレ自身が変わってしまったのに、なぜそんなふうに信じていたのだろう。
「……君」
ざわめきの中に名前を聞き、声の主を探した。
「覚えてる?」
にこやかに笑い手を振る、年老いた女性。
「みっちゃん、先生?」
大きくうなずいて、オレのほうに駆け寄った。少し右足をすっている。
「大きくなってぇ」
オレの腕をぱたぱたとたたき、見上げる先生の目に涙が浮かぶ。
「もう……十年も遅刻じゃないの」
みっちゃん先生は、すでに集合していた同級生のところへオレを案内してくれた。
「みんな、幹事さんがやっと来たわよ」
不思議なことに、振り返った顔に見覚えはないのに、全員が誰だかわかった。
「おせぇよ!」
「ハタチになったとき、楽しみにしてたのに!」
時が戻る。
みんな、元気だったか?
今、どうしてる?
笑い声が懐かしい日々と交差する。
町が、オレを迎え入れる。
オレが例の白い小さな封筒を見せると、みっちゃん先生はひどく驚いた。
そして、退屈そうに母親の隣で小石を蹴っている子供を呼んだ。
「お兄さんが、風船見つけてくれたって」
まさか。あんな風船が、山を越えてきたって?
「あと一年だったのよ。私も、彼も」
六年生が卒業し、残るは五年生の彼一人。
そして、みっちゃん先生は来年が定年だった。
「あと一年くらい、なんとかならないんですか?」
残念だけれど、と小さい声で呟いた。
もはや堪えきれなかった。
強がってみせた卒業式、帰りたくても帰れなかったハタチの日々、葉書を見せられたバスの中。
オレはこんなに淋しくて悲しくて泣きたかった。
すでにオレの居場所などなくても、それでもオレには『帰れる場所』のような気がしていたんだ。なくなってしまうなど、考えてもみなかった。
五年生の彼は、つられて素直に泣いていた。今から式で作文を読み上げるというのに。
助けられなくてごめんな。
無事に閉校式を終え、全員でグランドに出た。みっちゃん先生と、若い先生たちが大きなビニール袋を運んでくる。
「みんなが大切に育ててくれたから」
思わず笑ってしまうほど大量のヒマワリの種だ。
全員五粒ずつもらう。残った種は、グランドに蒔いておいた。
夏に取り壊し工事があるらしい。きっと作業員たちは、グランドを埋めつくす黄色い花に驚くだろう。
彼らはタバコを呑み、腰に手をあて『やれやれ』と肩をすくめるのだ。
青空に風が渡る。
この想いをどこへ運んでくれるだろう。
もらった種を白い小さな封筒に入れ、風船の糸に結わいた。
全員の準備が整うのを待つ。
「みんな、いい?」
さあ、最後だ。
みっちゃん先生が右手を上げる。
一斉に手を離し、飛び立つ風船を見送った。
黄色い風船は空に広がり、まるでヒマワリ畑を連想させた。
まだよと言わんばかりに桜の木が揺れる。
オレの風船を拾ったひとは、驚くだろうか。いや、きっと気にも留めないな。
『ただいま』