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もう二度と、貴方の隣で泣きたくはなかった。

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/10/13

 イレーネ・オルブライトは、婚約者のユリウス・フェルナーに何度も泣かされてきた。


 最初のうちは、彼に嫌われることが怖くて涙を隠していた。悲しい思いをしたときも、腹立たしいことがあったときも、自分が少し我慢すれば済むのだと考えていた。けれど、婚約して五年が経った今では、彼の前で泣くこと自体を諦めている。どれほど涙を流したところで、ユリウスが自分の振る舞いを省みることはなかったからだ。


 婚約が決まったばかりの頃、ユリウスは優しい青年だった。イレーネが好きな菓子を覚えていてくれたし、屋敷を訪れるたびに庭園の花を一輪摘んで贈ってくれた。彼女が風邪を引いたときには、遠方の領地から見舞いの手紙を寄越してくれたこともある。そうした小さな心遣いが嬉しくて、イレーネは次第に彼を愛するようになった。


 最初に泣かされたのは、婚約して二年目の冬のことだった。二人は王都で開かれる音楽会へ出かける約束をしており、イレーネは何日も前から楽しみにしていた。宮廷楽師による演奏を聴ける機会は滅多になく、ユリウスが自分から誘ってくれたことも嬉しかった。ところが、約束の日になっても彼は現れず、開演の時刻が近づいても何の知らせも届かなかった。


 心配したイレーネが使いを出したところ、ユリウスは友人たちに誘われて狩猟へ出かけていたことが分かった。翌日になって屋敷を訪れた彼は、悪びれた様子もなく、友人から急に誘われたので断れなかったのだと説明した。イレーネが寂しかったと伝えると、彼は困ったように眉を下げた。


「そんなに悲しむことじゃないだろう? 音楽会なら、また別の機会に行けばいいじゃないか」

「でも、私は昨日をとても楽しみにしていたのよ。せめて一言、知らせてほしかったわ」

「悪かったと思っているよ。けれど、いつまでも責められると僕だって辛いんだ。君にはもう少し寛容でいてほしいな」


 イレーネはそれ以上、何も言えなくなった。ユリウスを責めたかったわけではなく、約束を忘れられて悲しかったことを分かってほしかった。彼が一緒に行けなくなったことを心から残念に思ってくれたなら、きっと気持ちも落ち着いただろう。ところが、話を続けるほどユリウスの表情は曇り、最後にはイレーネのほうが謝らなければならないような雰囲気になっていた。


 その夜、彼女は自室で一人泣いた。侍女が用意してくれた新しい髪飾りは、一度も使われないまま化粧台の上に置かれていた。翌朝、目元が腫れていることに気づいた侍女には、昨夜はよく眠れなかったのだと説明した。婚約者との仲を心配されたくなかったし、ユリウスが冷たい人間だと思われることも嫌だった。


 それからしばらくの間、二人の関係は以前と変わらなかった。ユリウスは時折贈り物を届け、イレーネを食事に誘い、会えば楽しそうに将来の話をした。彼女も音楽会のことを忘れようと努め、婚約者として彼を支えていくつもりでいた。結婚までにはまだ時間があるのだから、互いの考え方の違いも少しずつ理解できるようになると信じていた。


 次に大きなすれ違いが生じたのは、フェルナー子爵領が厳しい凶作に見舞われた年だった。長く続いた冷たい雨によって麦の生育が悪くなり、秋になっても十分な収穫を得られなかった。領民たちは冬を越すための食糧を確保できず、子爵家の穀物庫にも余裕がなかった。領主であるユリウスの父親は病床に伏しており、家令とともに領地の窮状に対処していたユリウスは、イレーネへ助けを求めてきた。


 イレーネは父親に事情を説明し、オルブライト伯爵家の備蓄から麦を分けてもらえるよう頼み込んだ。近隣の領主にも手紙を送り、余剰の穀物を譲ってもらえないか交渉したほか、フェルナー家の家令と相談して年貢の一部を翌年まで猶予する案をまとめた。もちろん、領地の救済には多くの人々が携わっており、彼女一人の力で解決できたわけではない。それでも、イレーネは婚約者の負担を少しでも軽くしたいと思い、できる限りのことをした。


 翌春、領地の窮状が落ち着いたことを祝う宴が開かれた。ユリウスは招待された貴族たちに囲まれ、困難な冬を乗り越えた若き領主の後継者として称賛されていた。彼は苦労した日々について得意げに語り、領民たちを飢えさせずに済んだことを誇らしげに話していたが、その中でイレーネの働きに触れることはなかった。


 イレーネは宴の間、婚約者の隣で微笑んでいた。自分の功績を大勢の前で披露してほしいと思っていたわけではないし、ユリウスが領地のために苦労したことも知っている。けれど、宴が終わって二人きりになったとき、彼女は思い切って胸の内を打ち明けた。


「ユリウス、私も少しはお役に立てたかしら。冬の間はずっと心配していたから、皆さんが無事に春を迎えられて、本当に嬉しいの」

「ああ、もちろん助かったよ。君の父上にも礼を伝えておいてくれ」

「ええ、伝えておくわ。あの……今日のお話を聞いていて、少しだけ寂しくなってしまったの。私も一緒に頑張ったつもりだったから」

「イレーネ、君は僕に感謝してほしいのかい? 婚約者なのだから、困ったときに助け合うのは当然だろう。僕だって君の家に何かあれば力になるつもりだよ」


 彼の言葉を聞いて、イレーネは自分の伝え方が悪かったのだろうかと考えた。感謝を求めているように聞こえたのなら、それは本意ではなかった。彼と一緒に領地を支えられたことを喜びたかっただけなのだが、ユリウスはそれ以上話を続けようとはせず、明日の予定について語り始めてしまった。


 その夜も、イレーネは泣いた。ユリウスが困っていると知ったとき、自分のことのように胸を痛めた。何度も父親に相談し、返事の届かない領主には使いを送り、領民たちが冬を越せるよう祈りながら働いた。そうした日々を彼と振り返ることさえできなかったのが、ひどく悲しかった。


 けれども、翌朝には普段どおりの手紙を書いた。ユリウスも忙しかったのだから、あの場で自分の気持ちまで考える余裕はなかったのかもしれない。そう思うことにして、イレーネは再び彼を信じようとした。


 婚約して四年目の秋、ユリウスはマリエッタ・ルーヴェンという女性と親しくなった。彼女は裕福な商家に生まれ、貴族の男性に嫁いだものの、数年前に夫を亡くしていた。幼い息子を育てながら亡夫の親族との間で財産を巡る争いを抱えており、知人を通じて事情を知ったユリウスが相談に乗るようになったという。


 最初のうちは、イレーネも彼の行動を好ましく思っていた。困っている人を見捨てられないところは、以前から好きだったユリウスの長所でもある。ところが、マリエッタとの交流が深まるにつれ、彼はイレーネとの約束を頻繁に破るようになった。王都へ出かける約束をしていた日にマリエッタから使いが来れば、彼女を優先した。婚礼衣装について相談する予定だった日も、マリエッタの息子が熱を出したからと取りやめになった。


 イレーネはそのたびに事情を理解しようと努めた。幼い子供が病気になれば母親は不安になるだろうし、夫を亡くしたばかりの女性には頼れる相手が必要なのだろう。けれど、ユリウスがマリエッタと二人で劇場へ出かけたことや、彼女の屋敷で夜遅くまで過ごしていたことを知ると、どうしても胸が苦しくなった。


 ある夜、王都で開かれた舞踏会で、ユリウスはマリエッタと三度も踊った。イレーネは婚約者として彼に付き添っていたが、一度もダンスに誘われなかった。周囲の貴婦人たちが気まずそうに視線を逸らす中、彼女は壁際の椅子に座り、二人が楽しそうに踊る姿を見つめていた。


 帰りの馬車で、イレーネは勇気を出して尋ねた。今夜は自分とも踊ってほしかったこと、婚約者として彼の隣にいながら、一人で過ごす時間が長くて寂しかったことを、できるだけ穏やかな言葉で伝えた。ユリウスは最初こそ黙って聞いていたものの、やがて呆れたように息を吐いた。


「マリエッタは夫を亡くしてから、ずっと辛い思いをしてきたんだ。今夜くらい楽しませてあげてもいいだろう?」

「もちろん、それは構わないわ。でも、私とも一曲くらい踊ってほしかったの」

「君は僕の婚約者なんだから、これから何度でも踊る機会があるじゃないか。どうして今夜にこだわるんだい?」


 イレーネは窓の外へ視線を向けた。ユリウスの言うとおり、結婚すれば一緒に舞踏会へ出席する機会は何度もあるのだろう。けれど、その夜の舞踏会で彼の隣に立ちたかったという気持ちは、未来に何度踊れるかという話とは違っていた。今夜の自分が寂しかったことを、彼に理解してほしかった。


 屋敷へ戻ると、イレーネは侍女に手伝ってもらいながら夜会服を脱ぎ、化粧を落とした。鏡に映る自分の目元は赤くなっており、何度も瞬きをするうちに涙がこぼれた。侍女は何も尋ねず、温かい布を用意してくれた。その気遣いが嬉しくて、イレーネはかえって涙を止められなくなった。


 それからも、ユリウスとマリエッタの交流は続いた。イレーネが婚約者としての時間を求めるたび、彼は彼女の嫉妬を窘め、もっと寛容になってほしいと願った。彼女が何も言わずにいると、今度は理解してくれたのだと喜び、マリエッタの話を楽しそうに聞かせてくるようになった。


 イレーネは次第に、自分の気持ちを伝えることを恐れるようになった。寂しいと言えば困った顔をされ、悲しいと言えば考えすぎだと諭される。何も言わずにいれば、ユリウスは満足そうに微笑んでくれる。その笑顔を見たいがために、彼女は何度も言葉を飲み込んだ。


 それでも、婚約を解消しようとは思わなかった。五年間という時間は、イレーネにとって決して短いものではなかったし、彼と過ごした幸せな思い出も確かに存在していた。初めて手を握ってくれた日のことも、結婚後に暮らす屋敷の庭に何を植えようかと話し合ったことも、彼女は今でも覚えていた。


 そして何より、イレーネはまだユリウスを愛していた。彼が以前のように自分を大切にしてくれる日が来るのではないかと期待し、そのたびに失望しては、また小さな希望を探していた。


 そんな日々に終わりが訪れたのは、春の終わりが近づいたある日のことだった。


 ユリウスは珍しく約束した時刻にオルブライト伯爵邸を訪れ、イレーネと向かい合って座った。侍女が紅茶を用意して退出すると、彼は少し言いにくそうにしながら、マリエッタとの関係について理解してほしいと切り出した。


「彼女は僕を頼りにしてくれているんだ。夫を亡くしてから、ずっと心細い思いをしてきたらしい。だから、これからもできる限り力になってあげたいと思っている」

「……私との約束よりも、マリエッタ様を優先することがあっても?」

「イレーネ、君はどうしてそういう考え方をするんだ?彼女は君と違って、頼れる相手が少ないんだよ。君には立派な家族もいるし、何不自由なく暮らしているじゃないか」


 ユリウスは彼女を説得するように言葉を重ねた。マリエッタがどれほど苦労してきたか、自分をどれほど頼りにしてくれているか、幼い息子がどれほど自分に懐いているか。イレーネは黙って聞いていたが、その話の中に、自分との結婚を楽しみにしているという言葉は一度も出てこなかった。


 やがて、ユリウスは何気ない口調で言った。


「君は僕がいなくても生きていけるだろう? けれど、彼女には僕が必要なんだ」


 イレーネはゆっくりと顔を上げた。ユリウスは穏やかな表情を浮かべており、自分の言葉が婚約者を傷つけたことに気づいていないようだった。彼にとって、イレーネが自立した女性であることは誇らしいことなのかもしれない。けれど、彼女は好き好んで何もかも一人で抱え込んできたわけではなかった。


 領地の問題を解決するために奔走していたときも、婚礼の準備を一人で進めていたときも、本当はユリウスに頼りたかった。苦労を分かち合い、困ったときには助けてもらい、時には何も考えず彼に甘えてみたかった。そんな願いを抱いていたことを、彼は一度でも想像したことがあるのだろうか。


「ユリウス。貴方に一つ、聞いてもいいかしら」

「ああ、何だい?」

「私が最後に泣いたのは、いつだったか覚えていらっしゃる?」


 ユリウスは不思議そうに眉を寄せた。彼はしばらく考え込んでいたが、思い当たることがなかったらしく、困惑した表情で首を横に振った。


「君が泣いているところなんて、最近は見ていないけど。どうして急にそんなことを聞くんだい?」


 イレーネは彼を見つめた。最後に泣いたのは三日前だった。ユリウスがマリエッタと王都の祭礼を見に行ったと聞き、二人で出かける約束をしていたことを思い出した夜のことだ。その前は一週間ほど前で、婚礼衣装の仕立てが進んでいないことを父親に心配されたときだった。


 彼女はそれ以前にも数え切れないほど泣いていた。誕生日を忘れられた日も、手紙の返事が届かなかった日も、他の女性と親しげに過ごす姿を見た日も、誰にも知られないように涙を流してきた。けれど、ユリウスの前では平静を装っていたため、彼は何も知らずにいた。


「……そうね。貴方の前では、もう泣かなくなったもの」


 ユリウスは安心したように微笑んだ。その表情を見たとき、イレーネは自分がこれまで何を期待していたのか、ようやく分かった気がした。彼が気づいてくれることを待っていたのだ。何も言わなくても悲しみを察してくれる日が来ると信じ、何度傷ついても彼の優しさを探し続けていた。


 けれど、ユリウスは目の前にいる婚約者がどれほど苦しんでいるのか、知ろうともしなかった。


「ユリウス。私たちの婚約について、考え直したいの」


 その言葉を聞いた途端、彼の笑顔が消えた。ユリウスは冗談だと思ったのか、しばらくイレーネの顔を見つめていたが、彼女が真剣な表情を崩さないと分かると、次第に不機嫌そうになった。


「何を言っているんだ?結婚式まで、あと半年しかないんだぞ」

「ええ、分かっているわ。だからこそ、今のうちに決めなければならないと思ったの」

「マリエッタのことがそんなに気に入らないのか?君がそこまで嫉妬深い女性だったとは思わなかったよ」


 イレーネは静かに首を横に振った。マリエッタの存在が辛かったことは否定できないが、彼女さえいなくなれば元どおりになれるとは思えなかった。これまで何度も傷つけられ、そのたびに悲しいと伝えてきたのに、ユリウスは自分の振る舞いを変えようとしなかった。これから先も同じことが繰り返されるのだと考えると、結婚することが怖くなった。


「私は、貴方の隣で幸せになりたかったの。結婚したら一緒に食事をして、領地のことを相談して、時には喧嘩をしても、最後には仲直りできるような夫婦になりたかったわ」

「だったら、そうすればいいじゃないか。僕は君との結婚を取りやめるつもりなんてないよ」

「でも、貴方は私が何を悲しんでいるのか、知ろうとしてくださらなかったでしょう?」


 ユリウスは返事をしなかった。イレーネは彼の顔を見つめながら、初めて約束を破られた冬の日を思い出していた。あのとき、彼が自分の気持ちを受け止めてくれていたら、二人の関係は違っていたのだろうか。領地を助けたときも、舞踏会で置き去りにされたときも、彼が少しでも自分の悲しみに寄り添ってくれていたなら、今も結婚を楽しみにしていられただろうか。


 答えの出ないことを考え続けても、過ぎた時間は戻ってこない。イレーネは膝の上で重ねていた手をほどき、婚約者へ向き直った。


「もう、疲れてしまったの。貴方に何かを期待して、そのたびに悲しくなることにも、嫌われないように自分の気持ちを隠すことにも。私はこれまで、貴方と結婚するためなら、どんなことでも頑張れると思っていたわ」


 ユリウスは何か言おうとしたが、イレーネは静かに言葉を続けた。これまで何度も、彼の機嫌を損ねることを恐れて話を途中でやめてきた。今日くらいは、最後まで自分の気持ちを伝えたかった。


「でも、もう二度と、貴方の隣で泣きたくはないの」


 ユリウスは呆然と彼女を見つめていた。やがて、婚約解消など認められるはずがないと言い出し、五年も一緒に過ごしてきたのだから、今さら別れるなど無責任だと責めた。イレーネは黙ってその言葉を聞いていたが、彼が話し終えても考えを変えるつもりはなかった。


 彼女は父親に相談したうえで、両家の間で正式に婚約解消の話を進めてもらうつもりだった。ユリウスが納得するまでには時間がかかるかもしれないし、社交界でも様々な噂が立つだろう。それでも、彼の隣で一生を過ごすことを思えば、これから向き合わなければならない困難を恐れる気持ちは小さかった。


「今日はもう、お帰りになってください。父にも私からお話しします」


 イレーネがそう告げると、ユリウスは信じられないというように彼女を見つめた。彼はしばらく説得を続けたものの、最後には日を改めて話し合おうと言い残し、応接室を出ていった。扉が閉まってからも、イレーネはしばらく椅子に座ったまま、廊下から遠ざかっていく足音を聞いていた。


 五年間、彼のことが好きだった。初めて贈られた花も、何度も読み返した手紙も、二人で語り合った将来の夢も、イレーネにとっては大切な思い出だった。彼を愛していたからこそ、いつか分かり合える日が来ると信じ、傷つくたびに自分の気持ちを押し殺してきた。


 やがて、イレーネの頬を涙が伝った。彼女はそれを拭い、机の上に置かれた婚約指輪へ視線を落とした。五年前、ユリウスが自ら選んでくれた指輪だった。初めて指にはめてもらった日には嬉しくて何度も眺めたものだが、今はその輝きを見ているだけで胸が痛んだ。


 イレーネはゆっくりと指輪を外し、小さな宝石箱へ収めた。父親の書斎へ向かう前に、もう一度だけ涙を拭う。これから先、彼との別れを悲しんで泣く日があるかもしれない。それでも、自分の気持ちを踏みにじられることに耐えながら、彼の隣で笑い続ける日々には戻りたくなかった。




 ◇




 翌日、オルブライト伯爵家からフェルナー子爵家へ、正式な婚約解消の申し入れが届けられた。


 書状には、両家の婚約を解消したい旨と、その理由が記されていた。婚約者としての約束が繰り返し破られていたこと、他の女性との親密な交際によってイレーネの名誉が損なわれていたこと、そして当人同士の信頼関係が修復できないほど傷ついていることが、具体的な出来事とともに挙げられていた。


 フェルナー子爵は書状を読んで愕然とした。息子がマリエッタという女性と親しくしていることは耳にしていたが、婚約者との関係がそこまで悪化しているとは思っていなかったのだ。子爵はすぐにユリウスを呼び出し、事情を問いただした。


「お前は一体、何を考えているのだ。オルブライト伯爵家との婚約が、我が家にとってどれほど重要なものか分かっているのか?」

「父上、イレーネが少し感情的になっているだけです。マリエッタとのことを誤解して、婚約を解消するなどと言い出したのですよ」

「誤解だと言うのなら、なぜ王都でそのような噂が広まっている?お前がルーヴェン夫人と二人で出歩いていることは、私の耳にも届いているぞ」


 ユリウスは不満そうに顔をしかめた。彼にとってマリエッタは、困っているところを助けている親しい女性であり、婚約者を裏切っているという認識はなかった。イレーネとの結婚を取りやめるつもりもなく、いずれ彼女が落ち着けば元どおりになると考えていた。


 父親がいくら説明しても、ユリウスは婚約解消の深刻さを理解しようとしなかった。最後には自分からイレーネを説得すると言い出したが、すでにオルブライト伯爵家からは、今後の話し合いは両家の当主を通じて行いたいという申し入れが届いていた。


 ユリウスが再びイレーネと顔を合わせることは、容易ではなくなっていた。




 ◇




 婚約解消の話し合いは、ユリウスが予想していたよりも早く進んだ。


 オルブライト伯爵家は婚約に際して約束していた持参金や領地間の取り決めを白紙に戻し、フェルナー子爵家へ貸し出していた穀物についても、当初の約定に従って返済を求めることにした。凶作の際に無償で提供した援助まで取り返そうとしたわけではなかったが、婚姻を前提として認めていた特別な便宜を続ける理由はなくなっていた。


 さらに、フェルナー家が近隣の領主たちから穀物を譲り受ける際、仲介役を務めていたのはイレーネだった。彼女はそれぞれの領主と手紙を交わし、返済の時期や方法について丁寧に相談していたが、婚約解消が決まった以上、今後の交渉はフェルナー家自身が行わなければならなかった。


 ユリウスは初めて、イレーネが自分の知らないところで多くの仕事を引き受けていたことを知った。


 家令から渡された書状には、穀物の返済期限や領主たちとの取り決めが細かく記されていた。ユリウスはそれまで、こうした交渉の大半をイレーネに任せており、必要なときには彼女が父親や知人に相談して解決してくれるものだと思っていた。


「イレーネに手紙を書けばいいだろう。彼女なら、先方と話をつけてくれるはずだ」

「ユリウス様。オルブライト伯爵令嬢との婚約は、すでに解消されております。これ以上、あちらのご令嬢にお願いするわけにはまいりません」

「だが、これまでずっと彼女が担当していたことだ。途中で放り出すなんて、あまりにも無責任じゃないか」


 家令は返事に困った。イレーネがこれまで領地のために尽力してくれたことは、彼自身が誰よりもよく知っていた。彼女は婚約者という立場でありながら、子爵家の家令や領民たちに丁寧に接し、必要な援助を得るために何度も頭を下げてくれた。その働きを当然のものと考えているユリウスに、家令は以前から危うさを感じていた。


 その後も、フェルナー家には厄介な問題が相次いだ。凶作から立ち直りつつあった領地では、傷んだ橋や用水路の修繕が必要になっていたが、工事に必要な資材を譲ってくれる領主との交渉が進まなかった。以前ならイレーネが仲介してくれた相手も、婚約が解消された今では、フェルナー家に特別な便宜を図る理由がなかった。


 ユリウスは何度も手紙を書いたが、返事は芳しくなかった。彼がこれまでイレーネの助言を軽んじ、領地の仕事を十分に覚えようとしてこなかったことも、交渉を難しくしていた。


 そんな折、マリエッタから一通の手紙が届いた。


 彼女はユリウスの婚約が解消されたことを知り、二人の関係について話し合いたいと申し出ていた。ユリウスはようやく気分が明るくなり、すぐに彼女の屋敷を訪ねた。


 ところが、マリエッタは彼を歓迎するどころか、厳しい表情で迎えた。


「ユリウス様。貴方は以前、婚約者様との関係はすでに冷え切っているとおっしゃいましたわね」

「ああ、そうだよ。イレーネは昔から何でも一人で決めてしまうし、僕の気持ちを理解しようとしないんだ」

「では、どうして今になって、婚約者様が一方的に婚約を解消されたというお話になるのでしょう?」


 ユリウスは言葉に詰まった。マリエッタには、イレーネとの結婚は家同士の取り決めにすぎず、互いに愛情はほとんどないと説明していた。自分たちの関係を誤解されることはないと考えていたが、マリエッタはそう受け取っていなかったらしい。


「私は、貴方が婚約者様と話し合いを済ませているものと思っておりました。そうでなければ、あれほど頻繁にお誘いを受けることなどありませんでしたわ」

「マリエッタ、君まで僕を責めるのかい? 僕は君のために、あれほど時間を使ってきたというのに」

「そのお気持ちには感謝しております。けれど、私のために婚約者様との約束を破っていたのだとしたら、喜ぶことなどできません」


 マリエッタは息子を抱える未亡人として、これ以上の醜聞に巻き込まれることを望んでいなかった。亡夫の親族との争いもまだ完全には解決しておらず、息子の将来を守るためにも、軽率な行動は慎まなければならなかった。


 彼女はユリウスに、今後は個人的な交流を控えたいと告げた。


 ユリウスは何度も説得を試みたが、マリエッタの意思は変わらなかった。最後には彼女の屋敷を追い出されるようにして帰路につき、馬車の中で苛立ちを募らせた。


 自分は困っている女性を助けていただけなのに、どうして誰も理解してくれないのだろう。イレーネもマリエッタも、少しばかり感情的になりすぎているのではないか。


 ユリウスはそう考えていたが、屋敷へ戻ると、さらに厳しい現実が待っていた。


 父親であるフェルナー子爵が、彼を領地の管理から外すと告げたのである。


「お前には、しばらく王都を離れてもらう。領地の仕事は家令と私で引き受けることにした」

「父上、それでは私の立場がありません。いずれ領地を継ぐのは私なのですよ?」

「だからこそ、これ以上任せておけぬのだ。お前は自分がどれほど周囲に支えられていたのか、まるで理解しておらん」


 子爵は机の上に積まれた書状を示した。そこには、返済を求める領主たちからの手紙や、修繕を待つ村々からの訴えが並んでいた。これまでイレーネが仲介していた交渉の多くが滞り、子爵家の信用にも影響が出始めていた。


 ユリウスは反論しようとしたが、父親は最後まで聞かなかった。領地の管理を学び直すまでは重要な仕事を任せないと告げられ、彼は屋敷の一室でしばらく謹慎することになったのだった。

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