第9章(後編):「会いたい」と気づいた夜に
夜は、静かに深まっていった。
窓の外では虫の声が、規則正しく響いている。ねねの部屋の灯りは落とされ、スマホの画面だけが薄暗い闇の中で光を放っていた。
遼の声は、その光と同じくらい、彼女の心の奥を優しく照らしていた。
「……ねねちゃんって、声、可愛いんだね」
不意にそう言われて、ねねはスマホをぎゅっと胸元に抱いたまま、布団に顔をうずめた。
「や、やだ……やめてください、そういうの……恥ずかしい……!」
「え、でもほんとだよ。ちょっとした笑い方とか、息の抜ける感じとか、優しいのが伝わる」
「……そんな言われ慣れてないから……あ、でも、遼さんの声も……すごく落ち着くっていうか」
言いながら、言葉に詰まる。
声に出すのが、こそばゆい。
言葉にすることで、気持ちが輪郭を持ち始めてしまうのが、少し怖かった。
けれど──
「ねねちゃん」
「はい……?」
「俺さ、最初にDMもらったとき、ほんとは……女の人だと思ってなかったんだ。アイコンもイラストだし、口調もなんか、すごく上手に合わせてくれてたし。男の人かなって、しばらく思ってた」
「……うん、知ってた。なんとなく、気づいてた」
「ごめんな」
「ううん、ぜんぜん」
そうして、しばらく二人は黙った。
でも、その沈黙は、不安ではなかった。むしろ、優しい余白だった。言葉を探す時間が、お互いを近づけていく。
「俺ね、思ってたんだ」
「……?」
「なんで、こんなに、気になるんだろうって。……顔も知らない、声も聞いたことない、性別も年齢も分からないはずの人が、なんでこんなに気になって……何気ない投稿が、返信が、DMのやりとりが、こんなに楽しみなんだろうって」
ねねは小さく息を飲んだ。
「俺、きっと……最初から、君を見てたんだと思う。イラストを通じて、文章を通じて、誰よりも誠実で、誰よりも、誰かを喜ばせたいって思ってるその心を、見てたんだと思う」
「……」
「気がついたら、一日の中で、君の言葉を探してる自分がいた。君が今日、どんな投稿をしたか、誰と絡んでたか、どんな気持ちでいたのか……そんなことばっかり考えてて、俺……バカだなって思った」
「……バカじゃ、ないです」
ねねの声が、小さく震えていた。
「ねねも……同じだったから」
ぽつりと、ねねは呟いた。
「ねねも……、朝起きて一番に、遼さんのアカウントを見に行くし……いいねされたら嬉しいし、DM来てたら、ドキドキするし……その返信、何度も読み返して……」
スマホを持つ手に、少し汗をかいていた。
「……でも、それが『恋』なのかどうか、わからなくて。だって、現実の人間関係と違って、見えてるのはほんの一部だけで、ほんとの自分、どこまで出せてるのかも自信なくて……」
「わかるよ」
遼の声が、ゆっくりと重なった。
「でもさ。見えてるのが“ほんの一部”でも、その一部の中に、“誰かのすべて”が詰まってることもあるんじゃないかって……俺は、思うんだ」
ねねは、その言葉を何度も頭の中で繰り返した。
──“ほんの一部に、すべてが宿る”。
不意に、胸が熱くなった。
「遼さん……」
「ん?」
「……ねね、いま……会いたいって思っちゃった」
静寂の中、その一言がふわりと空気に浮かぶ。
遼は、すぐには返事をしなかった。
でも、スマホ越しに、その息遣いが確かに変わったのを、ねねは聞き逃さなかった。
「……俺も、思ってた」
「え?」
「こんなふうに声を聞いて、名前を呼んで、笑い合えるようになって……ますます、会いたくなった。画面越しじゃなくて、君の表情を、ちゃんと見たいって……心から、そう思った」
何かが、音もなく、胸の奥でほどけていく。
もう「気のせい」でも「勘違い」でもなかった。
これは──恋だ。
知りたいと思うほどに、その人が遠くに感じて、
遠くにいるはずなのに、その人が誰より近くに感じて。
この矛盾が、切なさとなって、今夜の心を満たしていく。
「……会おうか、いつか」
遼の声は、今まででいちばん優しかった。
「無理にとは言わない。怖くなったら、いつでもやめていい。だけど……会って、笑って、普通に、隣にいて……そんな時間を、いつか、君と過ごせたらって」
「……うん」
ねねの目には、涙がにじんでいた。
「ねねも、そう思ってる……ほんとに、思ってる」
その夜。
二人の心は、確かに「想い」を知った。
そしてその想いは、「会いたい」に変わっていく。
まだ不安はある。
年齢差も、距離も、現実の壁もある。
けれど、それ以上に、惹かれ合う心があった。
そして、恋は──始まったのだった。