第6章「写真を送ってみようかな…」
画面越しの沈黙が、意外なほど重たく感じた。
「えっ、男? ちょっと待って、うち頭の整理が追いつかない……ちょっと考えさせて」
そう言ってから、ねねからの返信がぴたりと止まった。
遼のスマホはしんと静まり返り、ただ通知が来ないという事実だけが彼の胸にじわじわと広がる不安を残した。
言ってしまった——とうとう本当のことを。
彼女が“遼さんって女性ですよね?”と訊いたとき、それはある意味、彼女の中で長らく募っていた想いの確認だったのだろう。
可愛いイラストを描き、丁寧に言葉を選んで会話を交わす。
彼女が安心して話せる空気を作り、甘えるような言葉を投げてもやさしく受け止めてくれる存在。
そのすべてが、ねねにとっての「女性らしさ」として結びついていたのかもしれない。
でも、現実は違った。
自分は54歳の、福岡に住む男だ。
SNSという仮想の世界では、年齢も性別も関係なく心が通じ合うことがある。
だけど、一歩それを踏み越えた瞬間に、現実はその幻想を壊してしまう。
「……やっぱり言うべきじゃなかったか」
テーブルに置いたスマホを見つめながら、遼は静かに呟いた。
そしてそのままの姿勢でしばらく動けずにいた。
時間だけが無情に過ぎていく。
スマホの画面には、DMのアイコンも点灯しない。
ねねは、どう受け止めたのだろう。
怒っているのか、それとも失望しているのか。
あるいは、もう二度と連絡をくれないのではないか——そんな最悪の想像ばかりが、脳内をぐるぐると巡っていた。
そのとき、不意に「ポンッ」と軽い音が鳴った。
スマホが再び震えた。
差出人は、ねねだった。
遼は一瞬、息を飲むようにして画面を開いた。
『なんか……ごめんなさい。うちずっと遼さんは女の人って思っていたから
恥ずかしかったけど気にしないでください。遼さんは遼さんだから^^』
それは、優しさに満ちた言葉だった。
遼の胸に、静かに、しかし確かな温もりが染み込んでくる。
この言葉を送るまでに、彼女はどれだけ迷って、どれだけ考えたのだろうか。
それでも、「遼さんは遼さん」と言ってくれた。
性別でも、年齢でもなく、「中身」と「存在そのもの」で彼を見てくれた。
彼は、小さく息を吐いた。
そして、スマホのキーボードに指を置き、言葉を綴った。
『ありがとう。……それだけで、救われた気がする』
メッセージを送信し、画面を見つめる。
返事はすぐには来なかったが、遼の心には少しだけ光が差し込んでいた。
それから30分ほど経った頃だった。
再び、スマホがスマホが再び震えた。
ねねからの新しいメッセージ。
開いてみると、そこには一言と、画像が添付されていた。
『……写真、送ってみようかなって思って……これ、さっき撮ったやつ』
表示されたサムネイルには、柔らかい光の中で自撮りされた、ややぼかされた顔写真があった。
画面越しでもわかる、恥ずかしそうに微笑むような目元と、軽く巻いた栗色の髪。
それは、今まで見えなかった“ねね”のリアルな輪郭を持つ姿だった。
遼は、慎重に画像をタップした。
画面いっぱいに広がるその写真は、加工もなく、飾らない等身大の彼女だった。
遼の胸に、熱いものが込み上げてくる。
『なんか、ドキドキしてる……遼さんがどう思うかなって、ちょっと怖かったけど……
でも、ちゃんと見てほしくて。ねねは、ねねだよって』
遼は、すぐに返信しようとして、指を止めた。
そして、深呼吸をひとつ。
画面のカメラアプリを起動し、自分の写真を撮る。
何度も撮り直し、照明を変え、背景も整えて、ようやく納得のいく一枚が撮れた。
やや緊張した笑顔の中に、彼の本当の気持ちがにじむ。
彼は、それを添付し、こう書いた。
『……俺も、遅くなったけど。これが、俺。
ずっと言えなかったこともあったけど……
君が送ってくれたから、俺もちゃんと向き合いたいって思った』
送信を終えると、手が少し震えていた。
だけど、不思議と怖くなかった。
ふたりの間に、ゆっくりと、本当の意味での「繋がり」が生まれ始めていた。
匿名で始まった関係が、少しずつ、名前を持ち、顔を持ち、心を重ねていく——
それは、ネットだからこそ築けた、でもネットだけでは終わらない、かけがえのない絆だった。
次にどんな言葉が返ってくるのか、彼は静かにスマホを胸に抱いた。