第5章「偽らないという選択」
『ところで、遼さんって……女性ですよね?』
その一文がスマホの画面に表示された瞬間、遼の世界の時間が止まったように感じた。
視界は開いているはずなのに、文字の意味が頭の中でうまく繋がらず、遼はスマホを持つ手をそっとテーブルに置き、静かに夜の空を見上げた。
──その問いは、いつか来ると分かっていた。
彼女と出会ったのは、何の気負いもない一枚のAIイラストがきっかけだった。
互いに言葉を交わすようになり、リプライが増え、DMに移って──
そこに性別の話題は、なかった。
むしろ、あえて触れなかった。
ねねの言葉づかいも、態度も、どこか同性同士のような安心感をにじませていた。
だからこそ遼は、自然とその「誤解」に甘えていたのかもしれない。
いつか言おう、でも今じゃない──そんな気持ちをずっと引きずったまま、ここまで来てしまった。
「女性ですよね?」という問いかけ。
あまりに素直で、まっすぐな疑問。
それが、どれほど彼女の信頼に基づいたものかを思うと、胸が締めつけられた。
逃げようと思えば逃げられる。
話題を逸らせば、それで済むかもしれない。
でも、それはもう──許されないと、心が言っていた。
その時、スマホが小さく振動した。
ねねから、新しいメッセージ。
『なんか……ごめんなさい。うちずっと遼さんは女の人って思っていたから
恥ずかしかったけど気にしないでください。遼さんは遼さんだから^^』
『うち、今日こんな下着なんだけど、どうかな?』
『変じゃない?ちょっと女の子っぽいの選んじゃったかも笑』
添付されていたのは、スカートの奥、鏡越しに撮影された彼女の下着姿の自撮りだった。
写真は明らかに狙って撮られたもので、その意図は明白だった。
そして、彼女の気持ちもまた──あまりに正直だった。
『……ねぇ、うちらってこれ、レズになるのかな?』
その言葉に、遼の胸がえぐられるように痛んだ。
ねねは、心を許してくれている。
同性として、恋愛感情を抱いてくれている。
あるいは、その感情の名をまだ明確にしていないにしても、「特別な存在」として遼を見てくれているのは間違いなかった。
それを──壊してしまう。
今この瞬間に、自分が“男”であることを伝えれば、彼女はどう思うのか。
けれど、それでも。
言わなければならなかった。
彼女の優しさを、好意を、誤解のままにするわけにはいかなかった。
震える指で、スマホの入力欄に言葉を打ち込む。
『ならないよ』
短く、一言。
だけど、それだけでは終われなかった。
『だって……俺、男だから』
送信ボタンを押す指先に、躊躇はなかった。
その一瞬のあと、身体全体に重力がのしかかるような感覚が襲った。
画面には、既読マーク。
でも、彼女からの返事はない。
数十秒が、数分に感じられた。
時間は進んでいるはずなのに、空気だけが止まっているような感覚。
自分の正直さが、彼女を傷つけたのではないかという不安が、心の底を冷たく濡らしていた。
そしてようやく、返信が届いた。
『……えっ、男?』
たった三文字の疑問符。
それでも、その裏側にある混乱と動揺が、痛いほど伝わってきた。
『ちょっと待って、うち頭の整理が追いつかない……ちょっと考えさせて』
遼は、ゆっくりとスマホを伏せた。
彼女の中に渦巻く感情を、想像するしかなかった。
驚き。戸惑い。
もしかしたら、怒りや裏切られた感覚すらあるかもしれない。
遼は静かに立ち上がり、カーテンをわずかに開けて夜空を見上げた。
街灯が遠くに滲んで、夏の夜の重たさが心にまとわりつく。
だが、スマホが再び震えた。
彼女からだった。
『なんか……ごめんなさい。うちずっと遼さんは女の人って思っていたから
恥ずかしかったけど気にしないでください。遼さんは遼さんだから^^』
その瞬間、遼の目にじわりと涙がにじんだ。
彼女の混乱は本物だったはずだ。
それでも、彼女は「自分の感情」ではなく、「遼の存在」を尊重してくれた。
そのやさしさに、遼は打ちのめされた。
彼は震える指で、言葉を返す。
『ありがとう……本当に。
驚かせてしまって、ごめん。
言うべきだった。もっと早く。
でも、ねねさんがそう言ってくれて……俺、救われたよ』
画面の向こうの彼女が、今どんな表情でいるのかはわからない。
でも、遼は確かに感じた。
“ねね”という存在が、ただのSNSの向こうの誰かではなく──
自分にとって、かけがえのない「人」になった瞬間だった。
信頼も、恋心も、揺れ動く心の中で、
たしかに何かが芽生えていた。
そして、遼は静かに誓った。
これからは、もう誤魔化さない。
言い訳しない。
この人に、正直な気持ちで向き合っていく。
──54歳の自分でも。
──男性である自分でも。
この想いは、本物なのだから。