第4章「年齢と性別の境界線」
「遼さんって、何歳くらいなんですか?」
その一文がスマホの画面に浮かんだ瞬間、遼の胸の鼓動が、ひとつだけ、間を置いた。
夜の静寂に包まれた自室。机の上に置いたカップにはぬるくなったコーヒーが残っている。画面にねねからのDM、前回も聞かれた「ねね」からの2度目の言葉。ごくありふれた質問。それなのに、どうしてこんなにも答えるのが怖いのか。
──年齢を聞かれる。
それは、日常のどこにでもあるような話題のはずだった。けれど、今このタイミングで、ねねにそのことを聞かれた意味を、遼は考えずにはいられなかった。
SNSで知り合った関係。それも、顔も声も知らない。タイムラインに投稿されるイラストと、何気ないコメント、そしてDMから始まったやりとりだけ。だけど、この数週間──いや、もうひと月に近い──日々、二人はずっと話してきた。朝のあいさつ、夜のおやすみ、くだらない日常の出来事、好きなアニメ、見てみたい景色……それらの積み重ねが、確かに彼の心の中に「ねね」という存在を育てていた。
だが、その心の奥底には、いつもひとつの不安が渦巻いていた。
(このまま、素性を明かさずに話し続けていてもいいのだろうか)
年齢、そして──性別。
ねねはきっと、今もなお、遼のことを「女性」だと思っている。それは彼の投稿するイラストのタッチ、やわらかい雰囲気、そして日々の返信に使われる絵文字や言い回し。遼は意図していなかったが、女性らしい印象を与えていたのかもしれない。
彼女の問いかけに、すぐには返事ができなかった。スマホの画面を指で撫でるようにスクロールしながら、心を落ち着かせようとする。
「……ちょっと年上かもしれないな^^;」
つい同じ言葉を言ってしまった...
やはりその言葉は、どこか腰が引けていて、曖昧なまますぎる。ごまかしているつもりはない。けれど、正直に「54歳です」と言う勇気が、その時の彼にはなかった。
既読がつく。すぐに返信が来るとは思っていなかった。だが──
「遼さんに、29歳って伝えているから
教えて欲しいです」
続いて、ぽつりともう一言。
「29歳です^^」
──29歳。
2回も言われた、遼は深く息を吐いた。
今になって今頃になって、若い。でも、まだ大人で、落ち着いた会話ができる年齢だ。いや、それよりも──
(本当に……年齢を伝えても大丈夫だろうか)
数秒の逡巡の後、遼は指を止め、思いきってメッセージを打ち込んだ。
「……実は、僕は54歳なんだ」
送信ボタンを押した直後、心臓の鼓動が一気に速くなる。スマホを伏せて、テーブルの上に置く。落ち着かない。喉が乾き、ぬるくなったコーヒーを一口すするが、味は感じなかった。
数分の沈黙。画面には「既読」の表示が浮かんでいる。でも──返信は、ない。
もしかして、年齢差に驚いて、引かれたかもしれない。気持ち悪いって思われたかもしれない。SNSのやりとりだけで仲良くなったとはいえ、相手にとっては突然の事実だった。普通に考えれば、驚いて当然だ。
やっぱり、伝えるべきじゃなかったんじゃないか。
遼が後悔の念に押し潰されそうになったその瞬間、スマホが震えた。
「……そっか。意外でした。でも、遼さんは優しいし、楽しいし、歳のことは全然気にしてなかったです」
その文字を見た瞬間、胸がじわりと温かくなった。
ねねは、拒絶しなかった。むしろ、年齢ではなく「遼という人間」を見てくれている──そんな気がして、涙が出そうになった。
そのあと、少し間を置いてもう一通。
「なんか変なこと言っちゃったかも……ごめんなさい。
気にしないでください。遼さんは遼さんだから^^」
──遼さんは遼さんだから。
たったそれだけの言葉に、どれだけ救われただろう。
「ありがとう、ねねさん。そう言ってくれて、うれしいよ」
彼はそう返して、スマホを静かに置いた。
だが、胸の奥にはまだ、もうひとつの秘密が残っている。
──性別のこと。
プロフィールには何も書いていない。名前もペンネーム。顔写真も、もちろんない。彼女は、遼を「女性」と思っているかもしれない。いや、ほぼ間違いなくそうだろう。過去のやりとりからも、それは感じられた。
年齢の壁は、乗り越えられたかもしれない。
では、性別の壁は──?
遼は、次にねねから来るであろう問いを、心のどこかで予期していた。
「ところで、遼さんって……女性ですよね?」
その一言が届く前に、遼はスマホを持つ手をそっとテーブルに置き、静かに夜の空を見上げた。
蝉の声が遠くから聞こえる。蒸し暑い夏の夜。心に吹く風は、まだ重たく、どこかやまないままだった。