第3章:画面越しの温度
日曜の夜。
一週間の終わり。
世間の多くが仕事や学校の準備をしながら、次の朝に備える静けさの中で、遼はいつものようにPCデスクに向かっていた。
福岡の郊外にある、築年数の古い一軒家。その2階の一室。
静まり返った家の中で唯一、彼の部屋だけが淡いモニターの光に照らされていた。
モニターの中に表示されていたのは、たった今、完成したばかりのAIイラストだった。
――長い時間をかけて、生成して、修正して、試行錯誤して、ようやく辿り着いた一枚。
少女の姿はどこか儚げで、それでいて強さを秘めている。
細い肩にかかるシルバーの髪が、風もないのに揺れて見えるほど、繊細な描写。
瞳はまっすぐにこちらを見つめ、微かに潤んでいるような、何かを言いかけているような表情だった。
口元はきゅっと引き結ばれ、それが彼女の「強さ」を象徴していた。
でも、その奥にある「寂しさ」や「弱さ」が、画面越しに見る者に訴えかけてくる。
それは、ねねがかつてリクエストしてきた少女像。
「儚さと、でも負けない強さを持った子が好きなんです。
誰にも甘えられないような、でも誰かに気づいてほしい……そんなキャラって、描けたりしますか?」
その言葉が、ずっと心に引っかかっていた。
だからこそ、今日の遼の創作は“彼女のため”に注がれていた。
「……こんな感じ、かな」
そう呟いた声は、ほとんど無音に近かった。
モニターに映る少女と、しばし見つめ合うように沈黙した後、遼はマウスを操作し、トリミングとフィルター調整を施して投稿の準備に入った。
SNSの投稿文は、いつものように控えめに。
『新作イラスト。気に入ってもらえたら嬉しいです。』
静かに「投稿」ボタンをクリックすると、画面にほんの小さな達成感がにじんだ。
――創作は、自分の内側のなにかを吐き出す行為であると同時に、それを誰かに「受け取ってもらう」ことで、初めて意味を持つ。
投稿からわずか数分後。
控えめな通知音が鳴った。
「いいね」1件。
そして、すぐにもうひとつ。
リポスト:「すきです、こういう表情。やっぱり遼さんのタッチ、落ち着きます」
発信者は、もちろん――ねねだった。
何百回と見たはずの通知画面なのに、彼女の名前がそこにあるだけで、胸の奥がふっと温かくなる。
その感覚が、最近は特に強くなってきている。
さらにDMが届いた。
『さっきの子、私がイメージしてた以上に雰囲気出てて感動しました。ありがとうございます!』
一言一言が、心に直接触れてくるような優しい言葉だった。
『よかった。ちょっと表情に迷ったけど、強さと儚さのバランス意識してみた』
『それ伝わってます。なんか……会ったこともないのに、私の好み分かってくれてるのがすごい。不思議だけど、安心するんです』
――“安心する”。
その言葉に、遼の指が一瞬、キーボードの上で止まった。
彼にとって、誰かから“安心”される存在になることは、日常の中にはほとんどない感覚だった。
職場では年齢的に“ベテラン”として扱われ、家ではただの“独り身”。
何も求められず、何も与えられない。そんな空白のような毎日の中で、たった一人の女性が、彼に対して感情をぶつけてきてくれる。
『ありがとう。その言葉が一番嬉しい』
そう返したあと、机の上に置いた冷めたコーヒーを見つめた。
一口も飲まずにいたことに、今になって気づいた。
外では風が吹いていた。
かすかに、植え込みの葉が揺れる音。
窓の隙間から聞こえる虫の声。
すべてが、深夜という時間の静けさを物語っていた。
そのとき――また、ねねからのDM。
『実は、最近ちょっと落ち込んでたんです。
だから遼さんのイラスト、ほんとに救われた。……こんなこと、ここでしか言えないけど』
その一文に、遼の胸がきゅっと締め付けられた。
『何があったか分からないけど……ねねさんの心に寄り添えたなら、それだけで描いた意味があったよ』
『うん、ほんとに。あ、変な話だけど……今夜は久しぶりにぐっすり眠れそう。おやすみなさい』
『おやすみ。また明日、話せたら嬉しい』
短いやりとりが終わったあと、遼はしばらく無言でモニターを見つめていた。
キーボードに置いた手も動かず、ただ、あの言葉の余韻に浸っていた。
彼女の言葉。
彼女の感情。
彼女の存在。
それらが、まるで透き通った水のように、遼の心の奥深くに静かに染み込んでいく。
――こんな感覚、いつぶりだろう。
画面の向こうにいる、名前も顔も知らない“ねね”という存在。
だがその匿名の奥にある“人としての温度”を、今夜ほど強く感じたことはなかった。
そして遼はまだ知らなかった。
この夜を境に、自分の中の何かが、少しずつ、しかし確実に変わり始めているということを。
孤独に慣れ、静けさに慣れすぎた生活の中に、ほんの小さな波紋が広がりはじめていた。
――それは、まだ見ぬ誰かの心と、繋がり始めた証。