第12章:別れ際の一秒が、永遠になる
東京駅のホームに吹き抜ける春の風は、どこか名残惜しく、そして優しかった。改札を抜け、二人並んで歩いた一日が、もうすぐ終わろうとしていた。ねねは、駅の構内に差し込む淡い夕陽を見上げながら、胸の奥に小さな痛みを感じていた。
「……もう、帰らなきゃだよね」
その声は、笑っているようで、どこか寂しげだった。
遼は黙って頷き、手にしていたチケットの時刻をもう一度確認した。
あと15分。けれど、秒針の音がやけに耳に残って、時間が加速していくように感じた。
「今日は、本当に……会えてよかった。ねねさんの声が、耳元で聞こえるのも、笑ってる顔を見れるのも……全部、夢みたいだった」
遼の声は、ふとした拍子に震えるような、抑えきれない感情を滲ませていた。
「ねねも……」
ねねは視線をそらして、足元のタイルを見つめながら続けた。
「本当は、もっとずっと一緒にいたかった。遼さんと並んで歩くだけで、すごく幸せだったよ。だから……寂しい、なんて言ったら……子どもっぽいけど」
遼は微笑みながら、ねねの肩にそっと視線を落とした。
二人の間には、まだ触れたことのない小さな距離があった。けれど、その距離さえも、愛しくて切なかった。
「子どもっぽいなんて思わないよ。俺も同じだから。……ねねさんと過ごした今日一日が、俺の中でどれだけ大切か、うまく言葉にできないけど」
ねねは小さく頷きながら、ふと顔を上げて、彼の瞳を見つめた。
「……ねぇ、遼さん」
「うん?」
「最後に、もう一度だけ、名前で呼んでもいい?」
遼の目が優しく揺れた。
「……もちろん」
ねねは、少し唇を噛みしめ、ほんの一秒、深呼吸をしてから言った。
「遼……さん、ありがとう。今日……本当に、幸せだった」
その声は、震えていた。
遼は、まっすぐ彼女の目を見つめ返した。
「……ねねさん。ありがとう。俺も、本当に……幸せだったよ」
そして、そのまま沈黙が二人を包み込んだ。
けれど、その沈黙は、決して冷たくも、苦しいものでもなかった。
むしろ、心と心が言葉よりも強く、確かに繋がった証のようだった。
アナウンスが、遼の乗る新幹線の発車時刻を告げた。
人々の足音が、別れを急かすように響き渡る。
「……じゃあ、そろそろ行くね」
「……うん」
ねねは、最後の一歩を踏み出せずにいた。
けれど、遼が優しく一言だけ言った。
「また、会おう」
その言葉は、未来を信じさせてくれる魔法のようだった。
「……うん、絶対。またね」
遼が改札を抜け、振り返って手を振る。
ねねも笑顔を作って、手を振り返した。
その瞬間、風がまた吹いた。
桜の花びらが一枚、改札の隙間から舞い込んできて、二人の間にひらひらと落ちた。
その一秒は、
過ぎ去る瞬間のはずなのに──
ねねの胸の中で、永遠になった。
彼が改札の向こうへと消えていっても、
彼の笑顔も、声も、今日の時間も、全部が心に残ったまま離れなかった。
ねねはその場にしばらく立ち尽くしていた。
けれど、目には涙はなかった。
あるのは、穏やかな温度と、やさしい想い。
──たとえ遠く離れていても、心はそばにある。
そう信じられるような、初めての恋だった。