第11章:初めての会話、沈黙のぬくもり
東京駅の人波の中で、遼とねねは並んで歩いていた。改札を出た瞬間は、言葉にならない戸惑いが互いの胸にあったものの、不思議とそれは重苦しいものではなかった。ただ、夢の続きのようで、現実に身体が追いついていないだけ──そんな感覚だった。
数分前まで、互いに「ねね」「遼さん」と呼び合っていた相手が、今は目の前にいて、同じ春の風を感じ、同じ歩幅で歩いている。その事実が、胸の奥にじんわりとした熱を灯していた。
ねねは、時折、隣を歩く遼の横顔をそっと盗み見る。遼もまた、気づかれぬように視線をねねに寄せていた。互いに、直接見つめるのはまだ少し照れくさくて、けれど見ていたくて。まるで、心の奥で何かが確かめ合おうとしているようだった。
「……やっと、会えたね」
最初に口を開いたのは、ねねだった。
その小さな声は、春の風にかき消されそうなほどだったけれど、遼の耳には、誰よりもはっきりと届いた。
「……うん。本当に……会えたね」
そう返した遼の声もまた、少し震えていた。それが、ねねの胸に温かく染み込んでいく。
しばらく、会話らしい会話はなかった。ただ一緒に歩くこと、それだけがふたりにとっては十分だった。
ねねは、駅の構内を抜けたところで立ち止まり、空を見上げた。
「……東京って、空が高い気がする。札幌と全然、違う」
遼も空を見上げてから、隣のねねに目を移す。
「そうかもね。……でも、今日の空は、君の声を聞いてから、ずっと穏やかに見えるよ」
ねねは一瞬、驚いたように目を見開いたあと、恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……そういうの、ずるいよ」
「ごめん、でも……本音なんだ」
互いの気持ちが、言葉を通して少しずつ形を成していく。
けれど、そのスピードはゆっくりで、不器用で──でも確かなものだった。
その後、ふたりは駅近くの小さなカフェに入った。人目を気にせず落ち着ける静かな空間だった。
カウンター席に並んで座ったふたりの間にあるのは、ちょうど両手を軽く広げたくらいの距離。けれど、心の距離はぐっと近づいていた。
「ねねちゃんって、話すとき、ちょっと首をかしげるクセあるんだね」
「えっ……うそ、してた?」
「うん。でも、それがすごく可愛くて……いつもより、言葉が胸に入ってくる気がする」
「もぉ……やっぱり、遼さんってそういうの……ずるい……」
そう言いながらも、ねねはどこか嬉しそうだった。
その会話の後、ふと沈黙が訪れる。けれど、それは気まずさではなく、心地よい間だった。
ふたりの間に流れる静寂は、まるで春の陽射しのように柔らかく、温かかった。
言葉がなくても、視線を交わすだけで、感じ取れるものがあった。
小さな笑みや、そっと指がカップに触れる音──その一つひとつが、初めての「会話」のように大切で愛おしい。
遼は、マグカップを持ち上げながら、小さく呟いた。
「こうしてると、夢みたいだね」
「……夢じゃないよ。だって、今、ちゃんと隣にいるもん」
ねねのその言葉は、まっすぐ遼の胸に届いた。
遼はゆっくりとねねの方に顔を向けた。
そして、少しだけ、ほんの少しだけ距離を縮めて、彼女の目を見た。
「……ありがとう。来てくれて」
ねねは頷き、笑った。
「ううん。会いたかったのは、ねねも……だから」
沈黙が、再びふたりを包む。けれどそれは、どこまでも優しく、静かなぬくもりに満ちていた。
初めての会話。
初めての沈黙。
そして、初めて「同じ空気の中にいる」という実感。
それは、SNSでどんなに言葉を交わしても決して味わえなかった、現実のぬくもりだった。
二人の前に流れる時間は、何よりも尊く、静かに、確かに──恋に変わっていった。