第10章「東京駅、春の風の中で」
東京駅——。
無数の人々が行き交うその場所に、ねねはひとりで立っていた。
手に握った小さなショルダーバッグ、スマホの画面には、遼とのメッセージの最終履歴が表示されたまま、スリープも解除されないまま、彼女の指先の熱を吸っていた。
(あと……三分)
彼女はスマホの画面を伏せると、ゆっくりと顔を上げた。
丸の内中央口の改札から吹き抜けてくる風はまだ少し冷たいのに、なぜか身体の芯が火照っているような感覚があった。春の陽射しはやさしく、スーツ姿の人々や、カートを引いた観光客のざわめきが、どこか現実味を帯びて感じられない。
(本当に……来てくれるのかな)
不安と期待のせめぎ合い。
胸の奥で何度も「これで幻だったらどうしよう」と思いながらも、それでも彼の「会おう」という言葉を信じた。
数日前、音声通話で、彼が少しだけ震えるような声で言ったのだ。
——「今度の週末、もし時間が合えば、東京で……会ってくれませんか?」
「はい」なんてすぐに返せなかった。
頭の中が真っ白になって、返事に三日もかかってしまったけれど、それでも遼は優しく、何も責めずに待ってくれた。
(会いたい。やっと、ちゃんと)
改札の中から、人の波が押し寄せる。
ひとり、ふたりと駅の出口へと進んでいく中、ねねの目が自然とある一点を捉えた。
スーツの上に、薄いグレーのコートを羽織った背の高い男性。
少し猫背で、落ち着いた雰囲気。
そして、その手に握られた、白い封筒——ねねがLINEで「目印にしてほしい」と伝えておいたもの。
彼だ。間違いない。
心臓が一気に速くなる。足元がふらりと浮いたように感じる。
彼の目も、こちらに気づいたようだった。
はにかんだような、少し照れくさそうな笑み。
写真よりもずっと、柔らかい印象だった。年齢の分だけ刻まれた表情の皺は、どれも優しさを内包していて、声だけでは感じ取れなかった空気をまとっていた。
「ねねさん……?」
遼が口を開いた。
その声は、電話で何度も聞いていたのに、こうして面と向かって聞くと、まるで別の響きのようだった。
ねねは、返事をしようとして、でも喉がうまく動かなくて、小さく頷くのがやっとだった。
「よかった……本当に、来てくれたんですね」
その言葉に、ねねの緊張が少しほどけた。
「……はい。あの、なんか……緊張しすぎて、どうしようって思ってたんですけど……」
遼はふっと笑った。
「俺も、です。手が震えてるの、見えます?」
そう言って差し出された遼の手は、本当に微かに震えていた。
その指先を見つめて、ねねは笑ってしまった。自然と、肩の力が抜けた。
「じゃあ、ちょっとだけ、散歩しませんか? 東京駅の近く、皇居の方まで行くと桜、もう咲いてるかも」
「うん、行きたいです」
二人は並んで歩き出す。
初めて会ったはずなのに、どこか懐かしさがある。
無理に話を繋ごうとしなくても、沈黙が気まずくない。
春の風がスーツとスカートの裾を揺らし、舞い上がった花びらがふたりの間をすり抜けていく。
「こうやって……並んで歩ける日が来るなんて、夢みたいですね」
「うん……私も、そう思ってた。ほんとに夢の中みたい」
「ねねさんは、写真よりも、ずっと素敵だ」
「えっ……」
不意打ちだった。
顔が一気に赤くなる。足取りがふらつく。
でも遼はすぐに、「あ、ごめんなさい、こういうの慣れてないから、変な言い方だったかも……」と慌てて付け加える。
「ううん、嬉しい……です。なんか、照れますけど……」
二人の頬に春の風がそっと触れる。
信じられないほど穏やかで、ぬくもりに満ちた時間。
ただ、それでもひとつだけ、まだ言えなかった言葉がある。
「好きです」
それは、今日じゃない。
今日という日は、「出会えた日」のままでいたい。
だから、今はただ、春の風に包まれて、この距離を感じたかった。
ねねは、そっと遼の横顔を見上げる。
遠くで、また風が花びらを舞い上げる。
(……この日を、一生忘れたくない)
そう思いながら、ふたりは、言葉よりも静かな想いを胸に、
東京駅から続く春の道を、歩き続けた。