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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

あなたに私は愛せません

作者: ペンのひと.

 初婚相手の子爵令息カイルは、新婦であるはずのフランシアを冷たくねめつけて言った――「フランシア、お前を愛することはない」と。


「修道院育ちのお前と結婚したのは、父上から教会に貸しを作っておけと言われたからだ。修女の洗礼を受けて体の閉じたお前に、女としての価値なんかあるわけないじゃないか。まったく、子すら生めないんじゃ話にもならん。贅沢な花嫁衣装を着させてもらっただけでもありがたく思ってくれ」


 その純白のドレスはフランシアの蜂蜜色のまとめ髪と実によく似合っており、見る者が見れば、それはどこから涌くとも知れぬ彼女の内面的な輝きが衣となったようにさえ映ったかもしれない。

 しかしその輝きは、いま底なしの苛立ちに蠢めくカイル・モペックの黒瞳の中でついえる。

 まったく忌々しい、とカイルは思う。


 戦災孤児あがりの修女をモペック子爵家の次男が娶るとなれば、地元世間からは善行として大いに尊敬される。低能な軍人どもが各地でいまだ魔物たちと戦争を続けるこの時代の、感動のご当地物語として領民どもは熱烈に支持するだろう。

 それに何より、教会勢力に恩を売っておけば子爵家としては大いに意義がある。

 宗教と政治。

 無知で敬虔な信徒どもの多い町村を支配する上では、これが実に重要だからだ。

 

 俺だってそんなことはわかってるさ、父上に言われるまでもなく、な。

 貴族なんだよ、俺は。脳味噌まで筋肉でできた学のない軍人どもとは違う。

 この肩を戦場から舞ってくる塵芥に汚すことなく生き抜いてやる自信はある。

 だがあと三年、三年もだぞ。

 閉じた体のこの女と、夫婦でいなければならない。


「むろん、俺とお前の閨は別々だ。閉じたその体で、せいぜい白い結婚をつらぬくがいい。当家モペックに疵をつけんために、三年は囲ってやる。地元の世間体としても、教会の戒律としても、法的にだってそれで十分だろう。三年たったら父上に断るまでもなく、お前の奉仕怠慢を理由に即刻離婚だからな」


 かたや――。

 投げつけるようなその冷たい宣告を澄んだ瞳で受けとめ、フランシアは静々と睫毛を伏せると、細く白いあごを小さくひいた。

 立場上、彼女は返す言葉を持たなかった。


 教会の修女たちには、子爵家からの潤沢な寄付金を得るためしっかり新妻として務めよと口酸っぱく念を押されている。ある修女などは、「閉じた体でもできることはあるでしょ?」と言って笑った。

 保護した戦災孤児フランシアを立派な修女に育てあげ、ついには子爵家への輿入れまで果たしたことに、いまや修道院の誰もがそれを我が功績とうたい浮きたっていた。然るべき褒賞を受けとるときだと。


 だから冷遇極まる三年を、フランシアはただ耐えた。

 その間、カイルは悪びれもせず愛人を作って時を過ごした。ひどく酒に酔った日などは、愛人たちとの房事の最中にフランシアを呼びつけて、「よく見ろ、これがお前のしたことだ」と据わった目で言った。

 フランシアは自室へ戻ると、カイルが遊びほうけているために一向に片付かない執務をこなして夜を明かした。読み書きは苦ではなかった。戦時中でもあり、使用人の人手も多くはなかったので、朝になると邸の掃除や庭の手入れも自分でやった。手をかければかけただけ、庭の植物たちはいきいきと美しく育ってくれた。


 いずれにせよ三年がたつ。

 フランシアは子爵令息カイルに離縁され、ついに邸を追われるときが来た。

 去る前に、礼儀としてモペック子爵にもご挨拶をと申し出たが、カイルにはいまさら必要ないと突っぱねられた。

 最後のさいご、満足そうに「これでせいせいするな」とカイルは鼻を鳴らした。


 戦災孤児であるフランシアの帰る場所は、修道院の寮をおいて他にない。

 保護される前の記憶は、この一帯でもありふれた自分の名以外に何ひとつないのだから。

 思い起こせる最も古い記憶、その光景は――。


 戦禍に荒れ果てた、見知らぬ村。

 その片隅で、血染めの衣服に凍える幼い自分。

 夜明け。



        ♢



「まったくどういうつもりかしらね、こんなに早く出戻ってくるなんて」

「教会のために、せめて慰労金くらいは手土産にしてくるのが道理ってものじゃない」


 嫁ぎ先からわずか三年で出戻ったフランシアに、修女たちは冷たかった。

 お勤め中にもかまわず、そこかしこから嫌味が飛んでくる。

 自分ならもっとうまくやれたとか、しょせんは戦災孤児であることを売りに子爵令息へうまくすり寄っただけで、妻として分不相応な立ち回りしかできなかったのだろうとか。


 修女の洗礼を受けた者なら閉じた体であることは皆同じはずだが、フランシアに注がれる周囲の目はあからさまに「役に立たなかったもの」を見ている。 

 役立たずをどう扱おうが、神様も文句はおっしゃるまいと修女たちは考えたようだ。

 住み込みの使用人同然の待遇。

 あらゆる雑務、嫌われ仕事の押し付け。

 薄生地の修道服についた染みをすすぐ間も、ほつれを繕う間もフランシアにはあたえられなかった。


 そんな彼女に、本来の修女としてのお勤めなど、実際にはこなせるはずもなく。

 フランシアが修道院の床磨きに這いつくばっている横で、他の修女たちは高らかに聖歌を歌いあげ神に祈りをささげた。

 その合唱は誇りに満ちて美しく、いっときの勢いこそおさまったがとろ火のように時代をあぶり続けるこの戦争への倦怠と鬱屈に満ちていた。


 修道院へは、傷病兵や負傷した市民が運び込まれることが珍しくない。

 幼くして洗礼を受け閉じた体となるのと引きかえに、修女たちは幾ばくかの治癒魔法を使う力を持っている。それを頼ってくるのだ。

 一度でもフランシアが治癒魔法を使うところを見たことがある者なら、その才がいかに他の追随を許さぬレベルであるかを知っていたはずだ。

 しかし同僚に対しては恐ろしくプライドの高い修女たちが、それをこころよく思っているわけもない。

 彼女たちが拙い治癒魔法でお茶を濁している間も、フランシアは汚物のたっぷり詰まったバケツを両手に提げて敷地内をかけずった。


 それでもわずかだが、こっそりとフランシアの治癒魔法を目当てに夜半や朝まだきの修道院を訪ねてくる人々がいた。

 それはフランシアが子爵令息へと嫁ぐ前から、彼女の治癒魔法に自らや親しい人を救われた町村の民や、その知人たちだった。

 ある夜に訪れた老婆は、自分の膝に添えられて淡く光り輝くフランシアの手に見とれながら、にっこりと笑って言った。


「ありがとう、本当に有難う。もうちっとも痛くないわ。あなたはまるで、聖女様ね」


 自分に向けられるそのあたたかな老婆の笑顔に、その言葉に、フランシアの胸は不思議な強さで締めつけられる。

 失われたはずの記憶が、固い蓋を押しのけて出てきそうなかすかな予感がある。

 でもそれはけっきょく、束の間の錯覚に過ぎない。

 記憶は戻らない。

 だからフランシアは、優しい言葉をかけてくれた老婆に微笑み返しささやく。


「こちらこそ、ありがとう、お婆様。この辛い戦の時代にもし聖女様がいるとすれば、それはきっと、あなたのようなお人に違いないわ」



        ♢ 



 さて、そんなある日のこと。

 修女たちがにわかに色めき立つ、催事がやって来る。

 名誉聖騎士の叙勲式だ。


 戦場で武勲を立てた者を称え、君主かその子息が直々に各下級貴族の領地へ赴き、名誉聖騎士の勲章を授与する。

 いまだ戦中の混迷期であり、また神前での叙勲が基本となるため、即席の会場として小村の教会や修道院が選ばれることは珍しくなかった。


 今日、その叙勲式がフランシアたちのいる修道院で執り行われる。

 聖堂にはすでに招聘された騎士たちが誇らしげに整列し、君主御子息たる大公子の登壇を待ちわびていた。そのまわりでは、修女たちが数名のお目付け役にたしなめられながらも黄色い歓声をあげ続けている。また来賓席には、モペック子爵家の長兄ジャキスの姿もあるようだ。


 そのにぎわいに加わることを許されず、フランシアは大公子殿下の馬車が到着するぎりぎりまで馬留めの掃除をしていた。藁と馬糞の匂いにすっかり嗅覚が麻痺してしまうくらい。いま自分がどれほど汗をかき、どれほど悪臭を放っているか確信が持てなかった。

 だから馬車が到着し、数人の従者を伴って大公子殿下が敷地へ降り立ったとき、彼女はなるべく遠くから拝礼した。ブーツの足元しか見えなかったが、それでも大公子殿下が美しい青年であることがわかった気がした。


 一行は案内役の修女たちにうながされ、さっそく聖堂へと入る。

 しばしの厳粛な沈黙。そしてしばらくの後、割れんばかりの喝采。

 漏れ聞こえてくるその盛り上がりを制して、大公子殿下の凛然たる声が風を渡った。


「名誉ある新聖騎士諸君、おめでとう。君たちが同朋であることを、心から誇りに思う。辛い戦はいましばらく続くだろう。力を貸してくれ。そして、私にできることがあればいつでも何なりと言って欲しい。誓おう! この大公子ギノ・オリセーの血は、民と諸君らが勝利の日に空ける、その祝杯のためなるぞ」

「「「「「オオオオオオオオオオオオオ‼」」」」」


 鬨の声が轟く聖堂から、引き返す従者たちに続いてその御仁が颯爽と歩いてくる。

 馬車の留まる敷地へと。

 フランシアはふたたび目を伏せ、拝礼する。なるべく遠くから。

 しかし突然、駆け寄るブーツの音と、彼女の両肩に添えられる大きく繊細な手。

 そして、その声。


「……フランシア……、ねえ君、フランシア・マリエスじゃないか⁉」


 顔をあげる。

 こちらの目をのぞき込むように、高い背をかがめ、金髪碧眼の大公子ギノ・オリセーが切なげに眉根を寄せている。


「殿下、私は……」

「ああ、やっぱりそうだ。無事でいてくれたんだね。良かった! 本当によかった……フランシア」


 キョトンと事態を飲み込めぬまま大公子に抱きすくめられるフランシアを、聖堂の入り口から修女たちが歯噛みしながら覗いていた。



        ♢

 


 フランシアの生活は一変した。

 修道院でのハグの後、大公子ギノ・オリセーはフランシアが記憶を失っていることをすぐに悟ったようだったが、それに怯まず彼女を説き伏せて馬車に乗せ、遠方の大公子邸へと伴った。

 突然のことにとまどいを感じるフランシアではあったが、どのみち彼女には大公子の命に背くことなどできなかった。


 半ば隠れ家のように、その邸は大公直轄領の山の中腹にあった。

 ひっそりと、草木に護られるように。

 大公子たっての希望で、フランシアはそこで暮らすことになった。

 邸は広かったが、住人はギノとフランシア、それにリネットという妙齢の侍女の三人きり。


 邸に到着した初日、リネットはフランシアを見るなりその温和そうな顔をくしゃくしゃにして、ややふくよかな腕を優しくまわしてきた。そしてさめざめと泣いた。


「……お嬢様……、本当に、よくぞご無事で……」


 リネットの泣き声はそれ以上、とても言葉にはならないようだった。


 翌日からはじまった大公子邸での暮らしは、穏やかそのものだった。

 山林の静寂。

 身に染みついた癖でフランシアは早起きし、柔らかな寝台を抜けるとすぐに荷物から修道服を引っぱり出し、使用人としてたち働こうとする。そうしないことには落ち着かないのだ。

 

 邸の主要な箇所を清掃し、昨日たしかめておいた炊事場で朝食の支度にとりかかる。庭敷地の草木にはすでに水を撒いておいた。まだ花はつぼみだったが、美しい生け垣があった。

 鍋を火にくべてスープの味を調えているところに、リネットが慌ててやって来た。


「お嬢様、そのようなこと、私がいたしますのに。長旅で御疲れでしょう、どうかご無理なさらず」

「おはようございます、リネット。お気遣いありがとう。あの……、良ければ味をみてくださらない? あなたや殿下のお口に合いますかどうか……」


 リネットは一瞬いじらしさに感極まったような表情でフランシアを見たが、「ええ、そうね。そういたしましょう」と相好を崩した。

 作った朝食をフランシアがリネットと協力してダイニングルームの卓上に並べていると、今度は寝衣のままあくびを嚙み殺して大公子殿下が姿を見せた。


「ふあ……、おはよう。良い匂いだな」

「まあギノ様、なんですか大公子殿下がはしたない。ちゃんと身支度を整えてからいらっしゃいまし。今日のモーニングは特別なんですからね」

「そうこだわるなよ、リネット。どうせ僕と君しかいない……」


 そう言いかけてフランシアと目が合い、大公子殿下の端正な顔がサッと赤らむ。


「……着替えてくる」

「はい、殿下」

「そうなさいまし。まったく、朝から襟をはだけて戦場の傷をレディーに垣間見せるなんて、隙だらけにもほどというものがあります。それで異例の武勲を立てつづけている特竜級名誉聖騎士長だというのだから、驚くやらあきれるやら」


 わかったよ、悪かったってとボヤきながら消えていく肩幅の広い後ろ姿を見送ると、リネットはいたずらっぽく舌を出し、それからフランシアにこう言った。


「照れていらっしゃるのよ、あの人ったら。フランシア様がとっても素敵だから」

「……私が……素敵?」

「ええ、でもその修道服はいただけないわ。さあお嬢様、あなたもお着替えを。このリネットが、ドレス選びも御髪の手入れも、腕によりをかけて差しあげますわ」


 それは、夢のような日々。

 幸せな時間。

 頼もしいギノと優しいリネットにあたたかく迎え入れられて、フランシアは心の傷をいやしていく。

 公務に追われ自ら戦地へ赴くことも少なくないギノに比べ、フランシアにできることはかぎられていた。

 彼女になせることと言えば、庭の生け垣に美しい花を咲かせ、邸を清潔に保ち、心を込めて食事を作ることだけだ。その都度ギノとリネットが告げてくれる感謝の言葉を、フランシアは宝物にした。


 こんな日々がいつまでも続いてくれたなら。

 しかしあるとき、フランシアは思いがけず聞いてしまったのだ。

 閉じた扉の向こうの執務室で、ギノとリネットがこう話し合うのを――。



        ♢



「――……それではやはり、フランシアの記憶は戻らない?」

「ええ、ギノ様。無理もないことでしょう。あれほどの経験をなさったのです、ショックでお嬢様が記憶を失われたとしても、なんら不思議はない。あのとき、私にもっと力があれば……」

「そう自分を責めるな、リネット。あの場所に駆けつけるのが遅すぎた僕のせいでもある。悔やんでも悔やみきれない」

「……はい、あれは本当に、辛い出来事でした――」


 密やかな声音で、リネットとギノは語らう。

 それは扉をへだてて聞いているフランシアの、失われた過去の記憶だ。


 フランシア・マリエス。

 大公子の許婚にして、当時は軍功名高かったマリエス辺境伯の幼き一人娘。

 差し迫る戦火から娘を守ろうとマリエス辺境伯はフランシアを数人の従者と乳母リネットとともに懇意のオリセー大公直轄領へ避難させることにした。

 しかし道中に滞在した地で、一行はクーデターを目論む暗殺者集団に襲われてしまう。話としては陳腐だが、なればこその残虐極まる裏切り。

 まだ少年の面影も色濃い大公子ギノが虫の知らせで馳せ参じ輩を一掃したが、時すでに遅く、従者たちの血の海のほとりでは若き日の乳母リネットが身を震わせているきりだった。

 そしてリネットはすでに、惨事の血飛沫を浴びて泣きじゃくる幼きフランシアのみを、どうにか夜闇へと逃がした後だった。


 おそらくそれから迷いついたモペック子爵領の外れの、戦禍に荒れ果てた見知らぬ小村で途方に暮れているところを、フランシアは修道院に保護されたのだろう。

 逃亡直前に見た凄惨な光景と、ひとりはぐれた絶望と、暴力に蹂躙された土地の荒廃ぶりと。

 いくつものショックが重なって、その記憶は永遠に失われてしまった。


 彼女がおぼえているのは自分の名フランシアだけだったが、一帯ではありふれた名であったし、血に染まる身なりは明らかに粗末なもの。もちろんそれは本来、辺境伯領から大公直轄領までの安全な避難のために身分を隠す仮の装いに過ぎなかったが。とまれ、社交デビューもまだの年頃ではフランシアの素性に気付ける市井の者など皆無。フランシア・マリエスの存在は、その頃まだマリエス辺境伯家・オリセー大公家内にのみ明かされているばかりだったのだ。

 まもなく魔物たちと結託した一派のクーデターによってマリエス家が滅ぼされてしまったことなど、フランシア自身、まわりの誰から知るよしもなかったに違いない。


「――それだけではありません。幼くして修女の洗礼を受けることで、フランシア様の天賦の才は歪められてしまった。数百年に一度の、聖女となられるはずだったのに」


 嗚咽で途切れかかる声を、リネットが一呼吸おいて再開する。


「ギノ様もご存じの通り、フランシア様には生まれつき聖女としての才能がおありでした。杓子定規な修女の洗礼など、閉じた体となるのと引きかえに幾ばくかの治癒魔法を使えるようになる安易な施術など、お嬢様には必要なかった。むしろせっかくの才をねじ曲げてしまう」

「ゆえに」


 憤るリネットを助けるように、大公子ギノ・オリセーが冷静な声色でその続きを引きとる。


「それゆえに、いまのフランシアは聖女じゃない。修女の洗礼という間違った施術によって、その天賦の才は歪め封じられてしまった。もとより人知を超えた力だ、はたして彼女が封印から覚醒し、真の聖女となれる日が来るものかどうかは誰にもわからない。もっとも基礎系の治癒魔法や育成魔法程度なら、いまだってどんな魔法師より巧みにこなすだろうが、いずれにせよ」


 修道院に保護され修女となって後、フランシアはモペック子爵家次男に嫁いだが、そこでも不幸は重なる。


 地方政教の独断癒着を遠方の中央君主に勘繰られることを警戒してか、教会勢力・子爵家双方とも父大公への上申書には新婦フランシアが戦災孤児であることも修女であることも明記せず、その名前すら別名にすげ替えていた。

 挙式は来賓を地元の利害関係者に絞って対外的には内容を秘匿。

 一方では戦災孤児にして修女フランシアの子爵家入りという美談をネタに、地元住民の支持を未来永劫に渡り踏み固めておく。あわせて十分に沸き立たせた領民へは宗教上の理由を盾に他領地への口外を重い罰則付きで禁じ、上と下への舌策を巧妙に使い分けていたのである。

 

 むろん、そのつまらぬ奸計を見抜けなかった大公家にも多大な落ち度がある。間抜けもいいところだ。

 フランシア・マリエスの捜索は秘密裏に継続されていたが、万が一にも聖女の力が略奪誤用されることを案じ、公に大々的捜査網を敷かなかったことも、さて、いまとなっては正しかったものかどうか。


 いずれにせよ――。

 

 扉とは反対側の、窓辺へゆっくり数歩を刻むようなブーツの足音。

 軽いため息に続いて、大公子が言う。


「ただ変わらないのは、僕が彼女を愛しているということだけだ」


 だがその言葉がつぶやかれる寸前、フランシアは扉の前から去ってしまう。



        ♢



 離れがたいあたたかな大公子邸を去る。

 記憶の混乱を抱えたまま、フランシアは木立ちをあてもなくさまよう。

 どうすればよいのかわからなかった。

 もうここにはいられない、この人たちを苦しめたくないという気持ちをただ抑えきれずに、飛びだしてきたのだ。


 世界とか時代とか運命とか、そういうものの前で、彼女はいつもただただ無力だった。

 そんなものに抗う気力は、自分にないと思っていた。

 あきらめること。

 つまるところ、彼女が人生から学べるのはそれだけだ。

 

 だから愛おしいブーツの足音が背後から追い迫ってくると、彼女は泣いた。

 涙を隠さず振り返って、その人の美しい顔を見上げた。


「なぜ……、なぜいらしたのです、大公子殿下? どうぞお見逃しください。私は……、私はもう、聖女ではないのですから」


 フランシアはおそらく、生まれて初めて腹を立てていた。

 あるいは、恋に落ちていた。

 その相手がいま、目の前にいる。

 傷つけたくない、傷つきたくない。

 幻滅させたくも、したくもない。

 嘘だ、本当は全部、あなたとしたい。


「それに、私は閉じた体です。だから殿下、どうぞお諦めください。――お詫びいたします、あなたに私は愛せません」


 なんと不躾で、滑稽で、かつ恥辱に満ちた言葉だろう。


 しかし大公子ギノ・オリセーは、浴びたその台詞にゆっくり首を横に振ると、土に膝を汚してフランシアの眼前に跪いた。

 

「……どうだっていい……」


 端正な顔立ちが、すでに決意した強さと優しさでこちらを見上げる。

 そして告げる。


「どうだっていいよ、フランシア。君が聖女だろうとなかろうと、子をなすことがあろうとなかろうと、そんなのはどっちだっていい」 


 世界とか時代とか運命とか、そういうものの前で――。


「ただ変わらないのは、僕が君を愛しているということだけだ」


 いつもただただ無力だった――。


「結婚しよう、フランシア」


 どうしてだろう。

 どうして思い出せないのに、こんなにもあなたが好きなんだろう。


 フランシアはとうとう、そのくちびるを落とす。


 愛する者の差しのべる手に。


 失われ続けるままの、彼女の記憶に。


 そして愛を、探しあてるように。



        ♢



 大公子成婚の吉報は、新妃フランシアの名とともにまたたく間に一帯を駆け巡った。

 また同時に、大公家によるフランシアの身分証明が公式になされ、亡きマリエス辺境伯家へは哀悼の意があらためて表明された。


 さて同じ頃、何もかも雲行きが怪しくなって歯噛みの止まらぬ男がいた。

 モペック子爵家の次男カイルである。


「クソッ、どうなってんだこれ、ちっとも片付かんじゃないか」


 執務を丸抱えさせていた前妻フランシアを離縁により追い出した後、戦中の人材不足でうまい後釜を確保できなかったカイルは、日々の基本的な公務関連書類すら処理しきれず毒づくばかりだった。

 愛人たちとの爛れた生活にうつつを抜かしているうちに、その脳味噌はすっかり溶けきっていたのである。いや、溶けるだけの脳味噌があったかも疑わしいが。

 なにしろ、邸の庭木が荒れ放題であることにもまったく気付かぬほどだから。


 その空気の淀んだ部屋のドアを蹴破っていま、鬼の形相で長兄ジャキス・モペックが怒鳴り込んできた。


「どういうことか説明しろ、カイル‼」

「……ヒッ、な、なんだい兄さん? 藪から棒に」


 要領よく生きることだけを考えてきたカイルと比べ、剣の心得のあるジャキスはずっと体格がいい。

 実際、その腰には今日も切れ味鋭い長剣が佩かれていた。血の気も多い。


「とぼける気か、この愚弟が! お前が前妻を無下に扱ったせいで、当家モペックはいまや窮地なんだぞ。家名に泥を塗り、教会勢力との関係をご破算にし、あろうことか大公家まで敵に回すとは、いったい何を考えている」

「し、知らなかったんだよ、あいつが、フランシアがあのマリエス辺境伯家の生き残りだったなんて。わかってりゃ僕だってもっとうまく」

「黙れ‼」


 怒り心頭の咆哮が、抜いた剣柄で愚弟の良く動くあごを殴り飛ばす。カイルは執務机付けの椅子から転げ落ちた。


「……ぁ……ぁがが」

「父上は俺でも縮み上がるほどに御怒りだ。とりあえず手土産にどこか斬らせろ。どこがいい? 耳か、鼻か、そのくだらん股ぐらか? 選ばせてやる、さっさと決めろ」

「……ぁ……ぁがが」

「黙れといっただろうこのクソが‼」


 血飛沫があがり、長兄の剣が汚れた。


「いいか、二、三日だけは命をもたせてやる。その愚鈍な頭で自分に何ができるか早く考えて、わかったら寝ずにでも実行しろ!」

 悶絶する愚弟カイルにそう言い残して、ジャキスは出ていった。


 カイルは血まみれのまま鼻汁をたらし、震える手でフランシアに手紙を書いた。


 離縁のことは俺も悪かった。

 いくらでも謝ろう。

 でも、お前だって俺の邸で贅沢な思いができて良かっただろう。

 こちらへの恩があるはずだ。

 閉じた体のお前に、花嫁衣裳まで着せてやったんだからな。

 なあ、そっちさえよけりゃ、復縁したっていいんだ。

 戻ってくるなら、あの頃の倍は裕福な暮らしをさせてやろう。

 考えてもみろ。その大公子なんて、いつ戦死するかもわからんような戦かぶれだぞ。頭の切れる俺についてきた方がお前の身のためじゃないか。

 そうだ、これはお前のためを思ってのことなんだよ。

 善は急げだ、なるべく早く、良い返事をくれ、――と。


 大公子妃には誠意と真心があったようだ。

 ほどなくカイルの血も鼻汁も乾かぬうちに、こんな返事が届いたのだから。



 謹啓

 モペック子爵令息カイル様


 お返事が大変遅れてしまい、誠に申し訳ございません。

 また、御見苦しくも重ねての陳謝となりますことをどうかお許し下さい。


 お詫びいたします、あなたに私は愛せません。


 敬白

 オリセー大公子妃フランシア

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