魔卵の揺籃
土砂降りの森は、まだ午前中だというのに薄暗い。
空を突き刺すように伸びる木々の、折り重なる枝葉から覗く空は陰鬱な黒い雲に覆われており、ひっきりなしに落ちてくる大粒の雨が、アリアの体に容赦なく打ちつける。
ニニスは雨を嫌うようにして、アリアのマントの隙間から背中に潜り込んだ。
「せめて、今日じゃなければ……」
雨と共に霧も出ているせいで、視界が悪い。
体に打ちつける雨が痛い。怪我のまだ癒えていない足も一歩踏み出すごとに針で突き刺されるように痛んだ。
せめて今日じゃなければ、もっと早く走ることができるのに。
だが、そんな弱音は吐いていられない。
魔卵たちは無害だが、一度孵化してしまえば、人の命を奪うばかりの獣に成り果ててしまうのだから。
木々が、ざわめいている。落雷で抉られたものとは違う、ばきばきと木が割れて倒れる音が響く。
アリアは顔に当たる雨と、痛む両足に顔を顰めながら、臆病なウサギのように軽やかにぬかるんだ道を駆ける。
視界の先に、荒れ狂う卵獣の姿がある。
一体ではない。
「いち、に、さん」
三体だった。
それ以外にも──地面に骸を晒している卵獣の姿がある。
「かわいそうに……」
もう、殺されてしまったのだろう。剣で切られた卵獣の残骸から、白い煙があがっている。
討たれた卵獣の肉片は、大地に溶けるように消えていく。間に合わなかったと、アリアは悲しみに瞳を曇らせた。
触肢をうねらせる花、黒い炎に包まれたような獣、一つ目の巨大な口のある人に似た獣。
「せめて、あなたたちは眠ろう」
アリアはぬかるみを蹴ると、卵獣たちの上まで飛び上がり、その中心へと落ちていく。
「魔女……!」
地面に倒れ、血を流している銀色の髪の男がアリアを見上げて言った。
昨日、村で卵獣と戦っていた男だった。
いくつかの魔卵が割れているのをアリアは見た。
ここに迷い込んだ男が、魔卵を割ったのだ。
同胞の苦痛に気付いた卵獣たちは、だから眠りから目覚めてしまった。
アリアの腕に、足に、卵獣たちの触肢が纏わりつき、牙が刺さり、大きな口が齧り付いた。
「……っぐ」
苦痛に顔を歪めながら、アリアは目を伏せる。
これは、贄だ。
卵から目覚めた卵獣たちは、飢えている。眠らせる前に、飢えを満たさなければいけない。
アリアの体は、卵獣たちに捧げることができるように作られている。
アリアは、パルマコスの一族──卵獣に体を捧げ、眠の歌を歌い沈め、浄化をすることのできる一族の、最後の生き残りだった。
実際に、肉をちぎられ食われるわけではない。
食われる苦痛はあるが、食われた箇所に数日、苦痛の呪いが降りかかるだけで、腕も足も無事だ。
「ねむれ、ねむれ、いいこ、かわいそうな、いいこたち。とわの揺籃に、ねむれ」
アリアが歌うと、卵獣たちは動きを止める。
卵獣たちは霧のようになって消えていく。あとには、真っ黒い魔卵が残った。
腕や足の痛みに眉を寄せながら、アリアは地面にとさりと降り立つ。
柔らかな草むらに卵が並ぶ、魔卵の揺籠に人が立ち入ったのははじめてだった。
こんな深い森の中に、人が来たことも。
アリアは倒れたまま動かない銀の髪の男に視線を落とした。
水溜りに、血が流れて広がっている。
剣が、棒切れのように男のそばに転がっている。
「……男の人」
父親以外の男性を、間近で見たのははじめてだった。
呼吸が浅い。横腹を抉られている。そこまで深い傷ではなさそうだったが、水溜まりの中に流れ出る血が、男の命を奪っていっているようだった。
「生きている?」
深く、瞼が閉じられている。
呼吸をしているのだから、生きているだろう。意識はもうないようだが。
「ニニス、どうしよう」
背中に隠れたままのニニスからは、何の返事もなかった。
元々、ニニスは鳴き声もあげないので、返事がないのは当たり前のことだが。
「……助けた方が、いいか」
男は魔卵を割って、卵獣を殺した。
けれど、卵獣は人を襲うのだから、仕方ないことだろう。
もしかしたら昨日の卵獣のせいで、誰かが死んだのかもしれない。男は、復讐に来たのかもしれない。
だとしても、助けない理由にはならない。
アリアは自分よりもずっと大きな男を、水溜りの中から背中に担ぐようにして抱え上げた。
背中にいるニニスが、首に移動してくる。
男の腕を首にかけて掴んで、一歩足を進める。
アリアよりも男の方が背が高いから、ずるずると引きずるようになってしまった。
重たい。雨が、痛い。体も痛い。
全身の苦痛に歯を食いしばりながら、アリアは自宅までの道をよろめきながら、なんとか歩いた。
お読みくださりありがとうございました!
評価、ブクマ、などしていただけると、とても励みになります、よろしくお願いします。