捕食されていたプランクトンと、たゆたうイソギンチャク
白兎が初田のはとこ、根津美ネルの主治医になってから半年ほど経った。
今日はネルの通院日。
白兎は初田がつけている体温や血圧、症状の記録ノートに目を通す。
文字は丁寧で読みやすく、気になった点にはマーカーが引いてある。几帳面な性格がにじみ出ていた。
「さて、ネルさん。前回の診察からの三週間でなにか変化はあったかな」
「んー……。土曜は、朝ごはんを食べながら寝ちゃった。にいさんに起こされた」
ネルは頭をかいて照れ笑いする。
治療を始めた当初はこの世の終わりみたいな顔をしていたけれど、今では明るい表情をしている。
症状がなくなったわけではないし、治療に十年は要する。日本での症例は六〇〇人に一人くらいの割合だ。この総合病院ですら、ナルコレプシー患者を診たのはネルで三例目。病院によっては診療経験なしというのも珍しくない。
白兎も、先輩医師の患者がナルコレプシーだったからわりと身近だったが、よく初田は初見でナルコレプシーの可能性に気づくことができたと感心する。
「初田君はずいぶんのんびりしているから心配だったんだが、意外とちゃんとやっているから驚いているよ。海にいたらクラゲみたいなものだろう。波にさらわれて沖まで行ってしまいそうだ」
「クラゲかぁ……私、にいさんはお魚に例えるならイソギンチャクだと思うの。ほら、ふわふわしているように見えるけど、根っこがあるでしょ」
イソギンチャクはキレイな見た目だが毒があり、触手に触れた魚は毒が回ってしびれてしまう。
初田という男は人好きのする笑顔を浮かべながら毒を吐くこともあるため、イソギンチャクに例えるのは言い得て妙だ。
ネルはおそらくイソギンチャクの毒のことをよくわかっていないし、見た目の雰囲気で言っただけなんだろうけれど。
「初田君がイソギンチャクなら、ネルさんはクマノミかな。イソギンチャクの毒に侵されずに共生できる唯一の魚だよ」
「クマノミちゃん、映画になっていたよね……かわいいから好き」
白兎はひとしきり笑って、自分の顔を指でさす。
「なら、ワタシは魚で例えるならなんだと思う? 高校の後輩には“自分が豆アジだと勘違いした馬鹿なプランクトンの餌食になるタイプのプランクトン”と評されたんだ」
「…………ぷ、プランクトン? なんで」
「ネルさんと同じ年の頃は、カツアゲのカモになる根暗ちゃんだったからな」
想像がつかないのか、ネルは白兎の顔を見て頭にはてなマークをたくさん浮かべている。
「白兎先生が?」
「ちなみにその後輩は自称ホホジロザメだった。黙ってカツアゲされてないで、せめて豆アジになれと説教された」
「……ううーん。なんだろう。白兎先生はキレイだし、熱帯魚?」
「熱帯魚か。嬉しいね」
昔の言葉で言うならヤンキー、ワル。白兎はそういう上級生に脅されて、お金を巻き上げられていた。
その後輩との出会いは引っ込み思案の自分を変えるきっかけになった。
ネルの診察が終わり診察室の扉を開けると、布マスクをした初田が待合室の長椅子に腰掛けて、医学誌を読んでいた。
ネルが出てきたのに気づいて顔を上げる。
「終わりましたか」
「うん。待っててくれてありがと、初斗にいさん」
初田に診療ノートを返すと、初田は白兎に軽く会釈する。
「なにか不足はありましたか。先輩から見て気になる症状の変化があったら遠慮なく言ってください。家でも気にするようにするので」
その様子は我が子を心配する親か、妹の身を案じる兄。
最初、初田はナルコレプシーの研究をしたいという名目でネルを引き取った。
血縁としてはかなり遠縁だし出会ってから一年も経っていないが、二人はただの同居人ではなく、かけがえのない家族になっていた。
「問題ないよ。初田君はワタシが考えるよりずっといいお兄さんをしているね。…………ときに初田君。自分を水棲の生き物で例えるとなんだと思う?」
ほんの少しの好奇心で聞いてみると、初田は数秒考えてすぐに答えた。
「わたしはイソギンチャクですかね。海があれだけ広いのに、あえて動かないのが自分に似ている気がします」
かなり的確な自己評価をしているうえにネルと同じことを言うから、白兎は驚いた。
「ちなみにワタシならなんだと思う?」
「豆アジ?」
「なぜ」
「チームで連携するのがうまいでしょう? 研修医になったばかりのとき、先輩が「キミは自由奔放すぎるから白兎のチームワークを見て学べ」と」
白兎と初田は同じ医大卒。
マイペースな初田は、よく教育係の医師から注意されていた。
「わたしはチームプレイに不向きですから。その点においては白兎先輩を尊敬していますよ」
「他の点では不満があるように聞こえるな」
「わたしがコーヒー嫌いだとわかっているのにコーヒーを勧めるところがなければ、いい先輩です」
「そうかそうか。そんな君にはカフェラテをやろう」
初田は無類の紅茶党で、コーヒー嫌いである。突き返されるとわかっていて、あえてコーヒーを差し出すのは白兎にとって様式美、お約束みたいなものだ。
「そんなものいりません。自分で飲んでください」
ポケットから缶のカフェラテを出してやれば、目線だけでわかるほど嫌そうな顔をされる。
(ワタシは、食い物にされるだけのプランクトンよりは成長できただろうか)
白兎は少しだけ昔を思い出して笑った。
前日譚 END





