風の吹くまま、気の向くまま。
初田の兄、嘉神平也が逮捕されたのが先日のこと。
長い間引きこもり一歩手前の生活をしていた初田は、ようやく素顔で外を出歩けるのだ。
そしてクリニックが休みの今日。
初田とネルは初デートに行くことになった。
二人で外出したことはあるけれど、友子のところにネルの病状を伝えに行くときくらい。
いわゆるデートというものをしたことがなかった。
クリニックから徒歩十五分ほどのところには江ノ島電鉄……通称江ノ電の路線がある。
鎌倉駅で一日フリーパス『のりおりくん』を買って、電車に乗り込む。
ネルと出会った時点ですでに顔を隠して出かける状態だったため、初田が素顔で外出するというのは実に十年ぶり。
空いている座席に座って、初田は帽子のつばをつまむ。
心なしか周りの人が自分を見ているような気がして、落ち着かない。
「やはりこの顔は目立つのでしょうか……」
「大丈夫だよ、にいさん。目立つといっても悪い意味じゃないよ」
アイドルや俳優顔負けのレベルに整った目鼻立ちだから、平也のことがなくたって人目をひく。こっそり初田を盗み見ている女子学生たちの視線は、ばったりアイドルに出会ってしまったファンのそれだ。
「ねえねえ、あれってこの前テレビに出ていた人? すっごい。本物? 超かっこいい!」
「Rinaの知り合いなんだっけ。サインしてくれるかな」
なんて、女の子たちが頬を染めて囁きあっている対象が自分だとは微塵も思っていない。
女の子たちの様子を見て、ネルの眉間にシワがよった。
「にいさん、次で降りよう」
「え? 次は稲村ヶ崎ですよ。今日は水族館に行きたかったんじゃないですか。江ノ島駅はまだ先ですよ」
「一日中水族館にいるわけじゃないでしょう? 切符はのりおりくんだし、途中下車の旅も良いじゃない」
初田が悪意の目を向けられなくなったのはいいことだけれど、若い女の子たちに黄色い声を上げられるのは面白くない、複雑な乙女心というやつだ。
ネルの行きたいところに行くという約束だから、初田はネルに手を引かれて電車を降りた。
「鎌倉で暮らすようになってだいぶ経ちますが、稲村ケ崎で降りるのは初めてです」
「そうなの?」
「ええ。高校の通学で江ノ電を使っていましたが、学校の最寄り駅以外で降りることはなかったんです」
初田は学生時代、勉強以外にあまり関心を向けない人間だった。
歩と母が連れ出してくれなかったら、家で本を読んで休日が終わっていた。
今度はネルがこうして連れ出してくれるようになった。初田は、なんだか昔を思い出して笑ってしまった。
道行く人に海までの道を聞いて、コンビニわきの道をくだる。
八月上旬。夏まっさかりで日差しは強め。
目の前には海が広がって、海沿いの道路は江の島方面まで伸びている。
吹きつける潮風が心地よい。
「ほら、ネルさん。右手に江の島が見えますよ」
「本当だ。意外と近いんだね」
「歩が、この道を左のほうに行くと温泉もあると言っていました。浴室内から海が見えるそうです」
「海が見える温泉!?」
「行ってみますか?」
「行きたい。でも、今行くと水族館を見る時間が……。うーーん」
温泉ならゆっくり浸かりたいけれど、ゆっくりしていたら水族館を巡る時間が短くなってしまう。
贅沢な悩みでうなるネルを見て、初田は笑う。
「今日は水族館にして、温泉は次の機会にしておきますか。これからはいつでも来られるんですから」
次。
そう。これからはいつだって好きなように出歩ける。
今日がダメなら来週でもいいし、その次でもいい。
ネルは先のことをたくさん想像して、ニコニコだ。
「えへへ。そうだね。温泉は来週にしよう。私、お風呂あがりに瓶の牛乳を一気に飲んで「プハーー!」ってのをやってみたかったの」
「夢が広がりますね」
海沿いにあるカフェでアイスティーを買って喉を潤したら、また電車に乗りこむ。
それから本来の目的地である新江ノ島水族館に向かった。
水族館近くの砂浜には海の家が何軒も並んでいて、サーフボードを抱えた人や水着の人が行きかっている。
小さな子どもたちが砂浜にしゃがみこんで貝殻を探している。
「にいさんにいさん。あとで砂浜に降りてみてもいい? 私も貝殻拾いたい。きれいなのがあったら金魚ちゃんの水槽に飾るの」
目を輝かせて、ネルは初田の袖を引っ張る。
初田は高校が海の近くだったから、海を見ても海だなぁ以外の感想がない。
きっと一人でここに来ていたら、なんの感動もなくぼんやりしていたことだろう。
ネルは初田の欠けた部分を補ってくれている。
小さな喜びを見つけて初田に見せてくれる。
そのたびに心があたたかくなる。
「ネルさんはかわいいですね」
「へ?」
ネルの顔が一気に赤くなった。
「わたしも一緒に探しましょう。観葉植物の鉢にも飾ってみますか」
「え、あ、うん。そうしよう」
これまで目にもとめなかった小さなものが、ネルを通して映り方が変わる。
風の吹くまま気の向くまま、二人で歩けばまた一つ、宝物が増える。
おしまい
水族館にて
ネル「にいさん見て見て。あざらしクジだって。引いてみようよ」
初田「一等が当たりました」
ネル「にいさん、強運……!」
★初田は特大あざらし(抱き枕サイズ)を手に入れた。





