眠りネズミはお礼したい
本編に入り切らなかったこぼれ話。
ネルが初田に引き取られて一年も経っていない頃の一幕です。
ネルが初田に引き取られてしばらく経った。
後期の授業が始まって、夏休み前より快適に授業を受けることができるようになった。
ナルコレプシーだと判明したのが夏休み中のこと。
そこから初田に引き取られることが決まって引っ越して今に至る。
朝起きたらすぐ、初田が血圧や体温などの体調チェックをしてノートに記録をつける。
初田が作ってくれた朝食を一緒に食べながら今日の授業のことなどを話す。
海苔を巻いた卵焼き、ほうれん草のおひたし、わかめの味噌汁。
おにぎりはネルの担当。
おひたしに箸を伸ばしながら、ネルは初田の顔をこっそりうかがう。
初田はネルの病気と家庭の事情を知ったとき、ネルを引き取ることを即決した。
治療費全額負担するかわりにネルのナルコレプシーを研究できるから、それが十分対価だと言ってくれる。
でもそれだけじゃ申し訳なくて、ネルはなにか恩返しをしたいと考えていた。
ふいに、初田が顔を上げてネルを見る。
「そうだ、ネルさん。明後日……土曜は予定がありますか?」
「え、えと、なにも、ない、です」
「ではちょっと紹介したい人がいるので、時間をください。きっとネルさんと気が合うと思うんです」
「わかった」
母親の初音とはもう会っているから、初音ではない。
紹介したい人、恋人か婚約者かそれとも。
ネルがいるせいで恋人を作ることができないんじゃないか、という杞憂は消えるけれど、別の気持ちが心にわいてくる。
初田の恋人がネルのことをよく思わなくて、例えば婚約が破談になってしまうんじゃないか、とか、その人とうまくやっていけないんじゃないか、とか。
そんな考えが伝わったのか、初田は目を細める。
「……断っておきますが、恋人ではないですよ。古い友人です」
「そ、そっか」
「みんな、わたしになにを期待しているんでしょう。母さんだって「生きているうちに孫の顔を見せてね」なんて言うし。兄さんのことがあるからほぼ無理な夢だとわかっているだろうに」
「……大人になるって、たいへんなんだね」
ネルはまだ高校生なので孫が欲しいと言われることはないけれど、初田くらいの年齢になると逃れられない宿命なのかもしれない。
兄の起こした事件のせいであまり外を出歩けない、という初田の事情を知っているから、向こうから家に来てくれるという。
そんなわけでネルは朝からそわそわしていた。
持っている服の中で一番お気に入りのものを着て、何度も鏡の前でリボンが曲がっていないかとか、髪の毛がはねていないかとかチェックする。
そして約束の時間十分前。チャイムが鳴った。
ネルははじかれたように立ち上がって玄関を開ける。
「あら、かわいい。あなたがネルちゃん?」
「あ、えっと、はじめまして……」
玄関先に立っていたのは、女性のようなお兄さんだった。
薄いブルーのロングヘアを肩のところでゆるいみつあみに結っていて、瞳は青いコンタクト。化粧も薄くしていて、まるで蝶々のようにきれいだ。
「いらっしゃい歩。あがって」
「おじゃまするわね。あ、これお土産。二人で食べて」
「いつもありがとう、歩」
歩からの海外土産を受け取って、初田は薄く笑った。
ダイニングのテーブルに座って三人で座り、紅茶を飲む。
「ネルさん。彼は蛇場見歩。わたしの友人だよ」
「根津美ネルです。よろしくおねがいします」
「そんなに固くならなくていいわよー、ネルちゃん。アタシは歩。よろしくね」
「はい」
かなり気さくで明るいお友達で、ネルの緊張はだいぶほぐれた。ネルと気が合いそうと初田が言うのもうなずけた。
歩が持ってきてくれたドイツのクッキーを小皿に出してつまみながら話に花を咲かせる。
「まさか初斗が女の子を引き取ることになるなんてね。ネルちゃん苦労してない? 初斗って、頭がいいはずなのにたまに子どもみたいなことするから。ダメなことしたらちゃんと叱るのよ。相手が年上だからって遠慮しなくていいから」
「歩。ぼくがなにかやらかす前提で話すのはひどいと思うんだ」
「高一の時、花壇のラベンダーを引っこ抜いて先生に叱られた過去を忘れたの?」
「黒歴史をネルさんにばらすことないじゃないか」
「どうせアタシが黙っていたって初音さんが言うでしょう。あ、もう言ったのかしら」
まるで学生の言い合いみたいな感じで、ネルは笑ってしまう。
頼りになる大人の男性、と思っていたけれど、友人と話す姿のはネルとそう変わらない。
歩と話している間は言葉遣いがどこか幼いような感じもして、なんだかおもしろい。
「うん。初音さんからきいた。“初斗は小学生かって言いたくなるような馬鹿なことをよくやらかすから、叱ってね”って」
「母さん…………」
肩を落とす初田、笑う歩。
「一回り以上年下の女の子に怒られるあんたの姿、容易に想像つくわー」
「母さんも歩も、ぼくをなんだと思っているんだ」
こんな感じで、ネルは初田の旧友、歩と知り合った。
歩が帰るとき、ネルはこっそりと歩に聞いてみる。
「私、初斗にいさんにお礼をしたいの。歩さん、昔からにいさんと仲がいいんでしょう。なにがいいかわかる?」
「そうねえ。初斗はお礼をしてほしいなんて思っていないでしょうけれど、どうしてもなにかしたいなら、お弁当を作るとか掃除をするとか、そういう方面のほうがいいと思うわよ。ネルちゃんは学生だからあまり自由になるお金もないでしょう。今の自分にできることをすればそれでいいの」
「そう、なの?」
「そうなのよ」
考えてみれば、ご飯は基本初田が作っているから、ネルはおにぎりを作るくらいしかできていない。
せめておかずの一品でも作れるようになれば初田の負担は減るだろうし、もっと作れる品数が増えたら。少しくらいはネルが担当できるかもしれない。
初音にこっそり初田の好きな食べ物を聞いて、学校の図書室で初心者向け料理の本を借りてきた。
初田をびっくりさせようと思って、帰ってきてすぐ準備にとりかかる。
冷蔵庫の中身と相談して、今日は豚汁と作ることにした。
ジャガイモを洗って皮をむこうとして、すぐに手が傷だらけになった。
初田のキッチンにピーラーというものは存在しないのだ。
初田初斗は子どもの頃から母親の手伝いで料理をしていたため、包丁一本あればジャガイモの皮むきも大根のかつらむきもできる。
「もっとちゃんと、やってればよかった……」
気合いだけで料理ができるようになるわけもなく。いかに自分の料理スキルが低いのかを思い知るネルだった。こんな腕前では、代わりに一品作るどころか、足手まといでしかない。
ばんそうこうまみれの手で初田を出迎えることになり、初田が大いに驚いた。
「どうしたんです、ネルさん。その手は」
「……豚汁を作る予定だったの。にいさんにばかり作ってもらうんじゃなくて、私も作れるようになりたかったの」
予定で終わったけれど。
初田はネルの傷の手当てをして、エプロンをつける。
「次の休みに、ピーラーと練習用の包丁を買ってきましょうか」
「いいの?」
「ええ。基本的なことはわたしが教えましょう。もっと料理を追求したくなったら専門書などを使ってください」
「うん。ありがとう、にいさん」
包丁の握り方という至極基本的なところから教えてもらい、初田がジャガイモの皮をむくのを横で観察して、勉強する。
そうして夕食の席には、ネルが初めて作ったおにぎり以外のおかず、野菜炒めが並んだ。
一年もすると作れる品数が増えて、当初の目標通り、土日のご飯担当はネルということになった。
おにぎりだけだったお弁当も、前夜のうちに作っておいた煮っころがしや卵焼きがおかず箱に入る。
初田の持ってくるこのお弁当は、ひそかに総合病院の同僚たちから注目を浴びた。
事情を知らない新入り看護師には“毎日同棲中の恋人に作ってもらったお弁当を持参している”と思われていたので、女除けに一役買っていた。
愛妻弁当と勘違いされていた事実、知らぬは本人たちだけというやつである。
おしまい





