閑話11 いつまでも終わらないお茶会をしよう
初田とネルが入籍してから一年。
ネルはかつて初田が勤務していた総合病院の産婦人科のお世話になっていた。
ここなら同じ院内に白兎もいるため、ナルコレプシーの症状でなにかあってもすぐに対処できる。
ネルの妊娠が発覚してから、初田は両親学級に行き、抱っこの仕方、おむつの替えかた、沐浴方法などを学んだ。
若い新米パパさんに一人だけ四十歳の初田が混じっているのは、大変目立った。
初田は好奇心の眼差しを気にするタイプではないので、マイペースにやっている。
友子と初音も孫の誕生を楽しみにしていて、ちょくちょく家にきてネルのために家事や仕事の手伝いをしてくれる。
そして九月末。陣痛が始まり、ネルは出産入院した。
運がいいことに、予定日は休診日である水曜。
初田は分娩に立ち会うことができた。
痛みに泣くネルの腰をさすり、汗を拭き、水を渡し、声をかける。
どれだけ多くの医学書を読み、両親学級で育児のなんたるかを習っても、ネルの痛みを肩代わりすることはできない。妻にしてやれることは普通の男性と何も変わらない。
(何年医者をしていても、こういうときは無力なんですね)
ネルは涙を流しながら、初田を呼ぶ。
「はつと、にいさん」
「はい。わたしはここにいますよ、ネルさん。ずっといますから」
手を握ると、ネルの表情が和らぐ。
無力でも、痛みを肩代わりすることはできなくても、そばにいることはできる。
看護師や産科医の合図にあわせ、ネルがいきむ。
日付が変わったころ、分娩室に産声が響いた。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
初田によく似たふわふわくせっ毛。顔立ちはネルに似ている。
ネルと出会うまでは、生涯誰もそばにおかないまま終わるのだろうと思っていた。
殺人犯の弟として後ろ指をさされたまま、一人で生きていくのだろうと。
それも仕方のないことだと思っていたし、人並みの人生を送る日は来ないと諦めていた。
全部諦めていたのに、初田の血を引く子がここにいる。言いようのない思いがこみあげる。
「にいさん、泣かないで」
「……泣くつもりなんてなかったんですが。やっぱり、嬉しくても涙は出るんですね」
初田の頬は涙で濡れていた。
母と年の変わらぬ看護師が、綺麗な布で娘をくるんで初田のところに連れてくる。
この人は初田が総合病院にいた頃から務めているので、顔見知りだ。
「初田先生、娘さんのこともねぎらってあげてください」
「はい」
両親学級で練習したように、首を支えながら抱っこする。腕の中の重みは練習用の人形よりずっと重かった。 あれはあくまでも人形であって、本物はやはり違う。
研修医になったばかりの頃も、模型と実際の人体は違うな、と考えていたことを思い出して、なんだかおかしくなった。
娘の手はとても小さくて、初田の指を掴む力は思いのほか強い。
我が子に会えたらかけたい言葉がたくさんあったのに、用意していた言葉は全部吹き飛んでしまった。
「会えてうれしいですよ、ミツキ」
「あら先生、もう名前を決めていたんですか」
看護師が頬に手を添えて笑う。
マッドハッターの異名をほしいままにしていた初田が父親になり、我が子にデレデレなのだ。
今日からしばらくの間、看護師たちのトップニュースは間違いなく「ほんとうに光源氏になった初田先生」だ。
初田はそんなこと全く気づかない。
「ええ。男の子でも女の子でも、ミツキがいいと話し合っていました」
ミツキは、三月ウサギの三月の読みを変えたもの。
不思議の国のアリスにおいて、終わりのないマッドティーパーティーは帽子屋・眠りネズミ・三月ウサギの三人で繰り広げられる。
初斗が帽子屋でネルが眠りネズミなら、自分たちの子は三月ウサギでミツキ。
家族三人いつまでも仲良くいられるようにと願いを込めた名前だ。
自分が呼ばれたとわかるのか、ミツキは口を弧にして手を伸ばす。
「ミツキが大きくなるのが楽しみですね。はやく一緒にお茶会をしたいです」
「うん。たのしみ。おにぎりと紅茶を用意しないとね」
ネルとミツキが退院してきてから、歩とアリスがお祝いを持ってきてくれて、おばあちゃんになった初音と友子もタオルケーキやらオモチャをたくさん持ってきた。
患者のみんなもおむつやらベビー用品をプレゼントしてくれる。
多くの人に祝福されてミツキはすくすくと成長し、幼稚園に入る頃には両親の影響で紅茶通になっていた。
夜になればネルと暮らし始めたときからの日課となったお茶会が開かれて、寝る前にミルクティーをたしなむ。テーブルを囲んで、ミツキは幼稚園であったことを興奮気味に語ってくれる。
話題は今日楽しかった遊びのことや、おやつの時間のこと、お絵かきをしたこと、様々だ。
初田もネルも、ミツキの話を聞いて笑顔になる。
帽子屋と眠りネズミと三月ウサギ。
初田さんちのお茶会は今日も明日もその先も、ずっと続いていく。
閑話11 いつまでも終わらないお茶会をしよう





