閑話10 逃げ道を作らない生き方
リナはネルに湯たんぽを託したあと、駅に向かった。
歩に出禁を言い渡されているため、店内に入ることはできなかった。
十一月の風はずいぶんと冷たくて、体がすくみ上がる。ギプスがとれたけれど、傷があったところがまだ痛む。
形成外科で傷痕を目立たなくする手術をする予定になっていた。腕、足、顔……全ての痕を消すには年単位かかるかもしれない。
「リナさん、待ってください」
男性の声に呼ばれて振り返る。
初田が歩み寄ってきて、頭を下げた。
モデル顔負けの端正な顔立ちに微笑みを浮かべている。
初めて会ったときは妙ちくりんなウサギマスクをかぶっていた。双子の兄が逃亡中の犯罪者だと聞かされたときには、驚きすぎて声が裏返った。
テレビ局のコネを使って番組担当者に繋ぎ、あの特別枠が実現した。
「あのときはありがとうございました。おかげでこうして普通の生活を送ることができています」
「お礼なんていらないわ。あんたに借りを作ったままにしておきたくなかっただけ。それを言うためだけに追ってきたの?」
リナは帽子のツバを下げて顔を隠す。
「アリスさん、喜んでいましたよ。このアニメ好きだったんだって」
「そう」
幼い頃。リナとアリスの姉妹仲は今ほど険悪じゃなかった。
二人でならんでニチアサのアニメをみるくらいには、よかった。
リナがモデルになってからは、そんな時間なくなってしまった。
感傷に浸るタイプではないので、リナはそっけない返事をする。
「ご実家を出たと聞きました。順調にいっていますか」
「まあまあね」
「それはなによりです。実家を出るよう勧めた身として、悪い方に作用していたら申し訳ないと思いまして」
「……変な人。私はあなたの患者ではないし、自分の意思で実家を出ると決めたの。申し訳ないなんて思う理由がないでしょう」
母がだいぶ食い下がってきたけれど、それでもリナは家を離れる道を選んだ。
ついていく、一緒に住みたいと言われたのには辟易した。
リナが鍵を渡すよう迫ったとき、アリスが嫌がった理由がよくわかる。
いくら家族でも、自分のテリトリーをおかされたくはない。
事故のあとから書き始めたブログには、たくさんの応援、励ましのコメントが届いている。
リナと同じように事故で大怪我をして、リハビリで苦しんでいる女性もいた。
SNSの初期から応援してくれていたファンも、ブログを読んでよくコメントをくれる。
こうして離れていてもだれかがリナを必要として、見守っていてくれるとわかるから、安心して前に進める。
適うなら、新しいものを探すなんていう逃げ道を作らず、モデルの道を突き進みたい。
誰に強要されたわけでもない。
モデルの仕事が好きだから。
若者向けのファッションだけでなく、ミセス向けの雑誌も多く存在する。実力が伴うなら何年でも続けられるのがモデルだ。それに、いつかは後身を育てる仕事もしてみたい。
「わたしの知り合いに、あなたの大ファンだという女性がいましてね。その方から、あなたがモデルに復帰するつもりなのだと聞いています。「事故に遭っても諦めない、強いところ尊敬します」と言っていました。その方は、SNSだとクローバーという名前だそうですが」
「覚えているわ。毎日コメントをくれる子だから」
クローバーはリナがSNSを始めたばかりの時からずっと、明るく優しいコメントをくれる人だ。
会ったことはないけれど、本人もとても快活な人なんだろうと想像できる。
リナが事故に遭ったときも、だれより先に心配といたわりのメッセージをくれた。
彼女の兄も初田の患者だということで、嘉神平也捜索のお願い投稿をしたときもすぐにメッセージをくれた。
「ああそうだ。あなた、ワンダーウォーカーの店長と旧知なんでしょう」
「ええ」
「なら伝えてちょうだい。私は必ずモデルに戻って、本物になってみせる。周りを輝かせる本物に。出禁にしたこと後悔させてあげる」
初田と別れてから、リナは駅前のカフェに入った。
あまり長く歩いていると、立っていられないくらい痛む。慣れるまでは少し休憩を挟みながらがんばるしかない。
席に着いてからスマホを確認すると、ブログに何件かコメントがついていた。
その中にはクローバーからのものもある。
『Rinaさん、怪我が治ってよかったです。寒さで傷痕が痛むのつらいですね。ローズマリーのお茶が痛みを和らげるって聞きました。余計なお世話かもしれませんが、気が向いたらでいいので試してみてください』
ウエイターが持ってきてくれたメニューにちょうどローズマリーティーが載っていた。
普段ならブラックコーヒーを選ぶところだけど、ちょっと気が向いた。
「ローズマリーティーをホットでいただけるかしら」
しばらくして運ばれてきたお茶はとてもいい香りで、味もとても優しい。
ゆっくりと味わって、飲み終える頃アリスから短いメッセージが届いた。
『ありがと』
たった四文字。
それだけでもリナは満足した。
心を尽くしたお礼の言葉が欲しかったわけじゃない。
ただ、引っ越しのために荷物を整理していて湯たんぽを見つけただけ。
リナが入居するのはオール電化で床暖房の部屋だから、湯たんぽを使う機会はない。だからアリスに渡しただけ。べつに、アリスの部屋に暖房器具がないことを慮ったわけではない。
アリスが返信を求めているわけじゃないのはわかるから、リナはそのままアプリを終了して、スマホをしまった。
会計でお礼を言って店を出る。
お茶を飲んだからか、それともほかの理由か、店に入る前より足が軽い。
リナは帽子をかぶり直して、一歩踏み出した。
閑話10 逃げ道を作らない生き方
次で後日談も最終回
閑話11 いつまでも終わらないお茶会をしよう
です。
明日も19:00頃更新です。





