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閑話8 マッドハッターの恋模様

 それは初田が歌舞伎町から帰り、夜が明けた朝のこと。


 約束した通り、ネルから懐中時計の鍵を受け取ってゼンマイを巻く。

 起き抜けのネルは髪を下ろしたままで、初田の横にくっついて時計を見つめている。


 となりあって座ることはいつものことだが、こんなふうに触れることはこれまでになかった。


 他の人にされたらはねのけてしまいそうだが、ネルだと心地いい。

 昨夜自分の気持ちを自覚したばかりの初田は、横目でネルを観察する。


 ストレートの柔らかい黒髪、つぶらな瞳、ゆるく弧を描く口元。初田のうさんくさい笑いと違って、見る人が心安らぐような優しい笑顔だ。


 なんとなく、ほほに触れてみる。もちもち柔らかくて、初田の固い指がすいつく。


「にゃ、ど、どうしたの、初斗にいさん」


 突然のことで驚くネルを、そのまま腕の中に閉じ込めてみる。

 ネルは頬を紅潮させながら初田を見上げる。額を合わせて、それだけで胸があたたかくなる。

 この気持ちを愛おしい、と呼ぶのだろう。


 同じシャンプーとボディーソープを使っているはずなのに、ネルのにおいは蜜のように甘い。


「かわいいですね」

「あ、ありがとう」


 朝食の時も、仕事の時も、初田はネルが視界に入るとじっと観察した。

 一挙一動どれもかわいいから、ずっと見ていて飽きない。

 気持ちを自覚するか否か、たったそれだけのことでこんなにも見え方が変わる。自分の心境の変化も含めて新しい発見だ。


 夕食の準備をする間も、ちょこまか動くネルはハムスターかなにかのよう。

 観察しすぎて、ネルが居心地悪そうにする。


「にいさん、じっと見られると恥ずかしいよ……」

「ああ、すみませんネルさん。なぜわたしはこれまで平気だったのか考えていました」

「なにが?」

「ネルさんは、いつからわたしのことを恋愛対象として見ていたのでしょう」

「へ!? なななな、なんでそんなこときくの」

「本に載っていないことは実際に調べるしかないです」


 人類ひとりひとりの心境の変化を記した本なんて、この世界に無い。

 初田の見ている限り、ネルはこの九年間ずっとネルだった気がする。どこかに、恋愛感情を含んだなにかあったのか、それを知りたかった。


 人の気持ちを察するのが不得手な初田は、考えてわからないなら本人に聞くという手段に出た。


 無論、いきなり聞かれたネルは大慌て。初田はそういうことを聞かれることが恥ずかしいという心境を察することはできないので、たたみかける。


「引き取ったとき、高校を卒業したとき、専門学校の時、成人式の時、クリニックを開業したとき……いつ頃でしょう」

「わわわっ、わから、ないよ。それに、そういうの聞いちゃ駄目」

「なぜ」

「ううう……」


 ネルの背後で冷や麦の鍋が噴きこぼれそうになっていて、初田はサッと手を伸ばして火を止めた。

 ざるに麺をあけて流水で冷やし、夕食を食べているうちに、さっきの質問はうやむやになってしまった。


 洗い物を終えてから、ネルがいそいそお風呂に入ろうとするのを初田が止めた。


「あ、ネルさん。さっきの質問の答えがまだです」

「笑顔でそういうことを聞くのひどいと思うの」

「怒り顔ならいいですか」

「表情の問題じゃ……」


 意地悪でもなんでもなく、素で聞いてくる。それが初田だ。

 それぞれ風呂に入って寝床の準備をするとき、初田は思い立って、二つのふとんをくっつけた。

 いつもなら少し間隔を開けて並べていた。


「以前、鳩羽先生に押し付けられた本で読みました。彼女が口を割ってくれないときは体に聞けと」

「その本は間違っていると思うの」


 どういう本から得た情報なのか、ネルが頭を抱える。

 ちなみに本のタイトルは【いい男になるための極意百選 女の子はこういう男が好き!】だ。

 歩や初音がよく、「初斗は頭がいいのにポンコツ」と評しているけれど、まさしく。悪意ゼロの笑顔で、ネルの背中を敷きふとんに縫い止めた。


「さてどうしましょう」

「どう、って、初斗にいさん、なにを」

「この年まで恋人というのがいた例しがないものですから。女性の好む手順を知らないので、本人の望み通りにするのが一番いいかなと思うんですよ。ネルさん、どうして欲しいですか?」


 好きになった時期だけでもだいぶ恥ずかしいのに、さらに上を行く恥ずかしいことを聞かれたネルは思考停止した。

 初田は初田で、羞恥に震えるネルをみて嗜虐しぎゃく心をあおられる。

 小学生が好きな女の子をいじめる心理はこういうものなのかと、こんなタイミングで理解した初田だった。


「ネルさんが言えないならひとつずつ試してみましょう。江戸四十八手えどしじゅうはって、裏をあわせて九十六あるので試し甲斐があります」

「ま、待って、にいさん」


 江戸四十八手、よい子は調べちゃいけない系統のものだ。マッドハッターのあだ名は伊達じゃない。

 初田が本当にあれこれ試そうとするので、ネルは観念して吐いた。


「高校一年の秋から! だからもう、聞かないでーー!!」


 初田がこのあとしばらく口をきいてもらえなかったのは言うまでもない。




 閑話8 マッドハッターの恋模様 終


明日は

閑話9 思い出の形はひとつじゃない

19:00頃更新です!

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嘉神平也の平常 〜初田ハートクリニックの法度 外伝〜

本編の前日譚です。 嘉神兄弟が幼い頃〜事件が起こるまでの物語。初田先生の過去のお話。



姉妹です。
夢を持たずに生きてきた女性、蛇場見ミチルが夢を探すため奮闘するお話です。

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