最終話 君と二人で
初田は診療終わりに、初音からの電話で平也逮捕の報を聞いた。
電話を切ってその場に座り込む。
歩がテレビへの出演を提案してくれなかったら、
リナが協力してくれなかったら、
リナのフォロワーがSNSで拡散協力してくれなかったら、
警察がそれを信じて動いてくれなかったら
どれかひとつが欠けても、この結末は訪れなかった。
もう隠れて暮らさなくて良いのだと思ったら、胸が熱くなる。
ウサギマスクを脱いで、初田はネルに問いかける。
「ネルさん。ネルさんは、ここにいますか。これは夢じゃないですよね」
「うん、私はここにいるよ。夢じゃないよ」
ネルも感極まって初田に飛びつく。
触れた箇所から伝わるぬくもりが、確かにこれは現実なのだと教えてくれる。
ネルの背に腕を回して、初田は目をつむる。
「普通の人なら、こんなときなんて言うんでしょうね」
「わからない。わからないけど、私は嬉しい。これで初斗にいさんが外に出られるんだもの」
「……そうですね。お茶会するって約束しました」
「お茶会以外のこともできるよ。私、にいさんと行ってみたい場所がたくさんあるの」
初田のことを考えてわがままを言わなかっただけで、ネルの中では一緒に行きたい場所候補がたくさんあったらしい。
「ちなみに、ネルさんの行きたい場所ってどれくらいあるんですか?」
「んーと、百カ所くらい。花菜ちゃんがおすすめしてくれた服屋とか、アリスさんが教えてくれた喫茶店とか、白兎先生のおすすめの雑貨屋さんとか、とにかくたくさん。ノート十冊くらいに書きためてあるよ」
「それはまた、壮大な計画ですねえ。全部やり遂げたら達成感がすごそうです」
「そうなの、壮大なの」
思いを確かめ合う前から、ネルは初田とずっと一緒にいるつもりだったのだとわかる。
こそばゆいような、嬉しいような、温かい気持ちで胸が一杯になる。
「どこにだって、一緒に行きますよ。わたしもいろんなものを見たいです」
「うん」
平也は起訴内容を全て認め、控訴はしないと言ったらしい。
死刑になるか、懲役刑になるかはこれから裁判で決まる。
どんな量刑になるにせよ、きちんと罪を償ってくれることを初田は望んでいる。
それから少し時は流れ、十月の最終週。
虎門が来院した。
診察室に入ってくるなり、ぎょっとして扉を閉めようとした。
「うわ、は、初田先生!!? なんでまたそれをかぶっているんです!? もうかぶらなくてよくなったんでしょ」
「かぶらなくてもいいですが、たまにはいいかなーと思いまして」
平也が逮捕されて以降、初田はウサギマスクをかぶるのをやめた。もう隠れる必要がないから。
でもたまに、気まぐれにウサギマスクをかぶって応対する。
患者の反応を見て楽しむので悪趣味だと言われる。
虎門の反応に満足して、初田は笑いながらウサギマスクを取った。
「もうすぐ職業訓練校の修了でしたよね。首尾はどうですか」
「おかげさまで、ワードとエクセルどちらも三級合格しました。犬井さんが勧めてくれた保育園の仕事に決まりました。清掃や遊具の手入れなんかの雑務と事務で……」
「それはまた、虎門さんにぴったりのお仕事ですね。こどもたちの人気者になるのが目に見えるようです」
「そう、ですかね」
訓練校で同じような障碍をもつ人と友だちになったようで、その人とも頻繁に話をしているという。
心に余裕ができて友だちに影響されたのもあってか、服装は若者向けのカジュアルなものに変化している。
白シャツにおしゃれな銀フレームのメガネは、友だちが勧めてくれたのだそうだ。
髪も短く切っていて、爽やかな好青年といった印象だ。
来たばかりの頃はうつむいて自信なさげだったが、最近では笑顔が増えた。
「笑う門には福来たるっていうでしょう。そうやって笑っていれば大丈夫ですよ」
「はい」
虎門は満面の笑みでうなずく。
軽いノックのあとにネルが入ってくる。
「今日はセイロンちゃんですよ。歩さんがお土産でくれた台湾のお煎餅もあります」
歩はアリスに店を任せ、二週間ほど台湾に行っていた。数日前に戻ってきたばかりだ。
その際お土産にと、牛舌餅なる煎餅をくれた。
ほのかに甘くて、かりんとうのような味がするこの煎餅を、初田はかなり気に入った。
歩にお願いしたから、ワンダーウォーカーの定番商品になりそうだ。
テーブルに紅茶と煎餅を並べて、ネルが微笑む。
「そうだ、虎門さんもいかがですか。来週の日曜日、みんなで川辺に行ってお茶会をするんですよ。涼しくていい季候だから」
「え、おれも行っていいんですか? 先生たちのプライベートの行事じゃ……」
「はい。お向かいの店の人たちや、お世話になった人たちを呼ぶんです。パーティーは人が多い方が楽しいでしょう」
「おれはむしろお世話になっている側」
恐縮しきりの虎門に、初田は笑いかける。
「まあまあ。ナナさんも呼んで行きましょう。就職祝いとでも思って景気づけに」
「え、は、はあ。先生もそういうのなら……おじゃまさせてもらいます」
なかばごり押しで、虎門兄妹の参加も決定した。
昨日はコウキにも話を振って、珠妃母子も来ることになっている。
母親や白兎も呼んでいるので総勢十人超え。すごくにぎやかになりそうだ。
虎門が最後の患者だったので、閉め作業をしてクリニックの扉にCLOSEの札を下げる。
初田は懐中時計で時刻を確認して、ネルに微笑みかける。
「さて、ネルさん。今日はどこに行きましょうか」
「初斗にいさんと一緒に行きたい場所計画ナンバー14! おいしい手打ち蕎麦を食べられる店。
食後に紅茶を楽しめるうえに、ネコちゃんもいるの。しかも二匹。おさわり自由なの」
「ネコちゃんのポイントが高いですね」
動物大好きなネルにとって、食事とネコ同時に楽しめる店は楽園である。
「もうすぐネルさんの誕生日ですから、出かけるならネルさんのプレゼントも買いましょうか」
「じゃあケーキを乗せるラックがいい、先週行ったカフェでアフタヌーンティーしたでしょう。二段で、上下にケーキを乗せられるの。お茶会の時使いたい」
「かまいませんが、あれ、どこで売っているんでしょう……」
「探してみよう!」
ネルは歌いながら初田の手を取る。
今にも踊りだしそうなほど楽しげで、なんとも微笑ましい。
商店街の人たちから「今日も仲良しねー」なんて声をかけられて会釈を返す。
初田の顔を暴いてはいけないという法度は、もうない。
これからは自由に外に出て、ありのままの自分でいられる。
初田は大切な人と手を取り合い、平穏な日常を生きていく。
ケース4 虎門ケンゴの場合 〜失敗だらけのトランプ〜 終
ここまでお付き合いくださった読者様。
ありがとうございます。
この作品を書くにあたって、自分の実体験を盛りこみました。
アリスの章では、過剰なダイエットのせいで体を壊したアリス。
私は高校生のときにかなり太っていました。体重80kgより重くて。
BMI値で言うと35超。肥満度レベル4段階中の3。適正体重30kg以上オーバーでした。
笑われるのが嫌で食事制限して、体育の授業がんばって、高3の夏には45kgまで落としました。
脂肪だけでなく筋肉も何もかも落ちて、体を壊しました。
何を食べても気持ち悪いし、味覚もなんだかおかしくなった。
生理が止まり呼吸もまともにできないくらいで、お医者様にひどく叱られました。
10代のうちのダイエット、だめ絶対。
そして虎門さんの章で書いたASD。
私自身がASDなので、自分が診断されたときのこと、障害者就労支援を使ったときのことを作中に落とし込みました。
「普通なら言わなくても察するだろ?」「投薬してるのになんで無能なんだ?」は当時の店長に毎度言われていました。
職場のまわりの人たちが障害への理解がないと詰みます。
接客業だったので詰みました。
三つ以上タスクを振られると優先順位がわからないんです。
健常者なら言われなくても順序立ててできること、自分なりに効率がいい順で組むと
「普通の人ならそんなことしない」と必ず言われる。
普通ってなんだろうなと常に考えて生きています。
普通と無意識に口にする人は、自分を「普通」に置いて話している。
見えない普通の基準がわからなくて、知りたくて、初田先生みたいな寄り添ってくれるお医者さんがいればいいのにと考えていました。
初田先生は私の理想の具現化です。
自分もこういうところ辛かったな、理解者が欲しかったな。そう思う人の心に少しでも救いになれば幸いです。
ちはやれいめい





