58 未来の選択肢を作るため、今できることを。
七月の半ばになり、近隣の学校は夏休みに突入していた。
虎門は照りつける陽光の下、元気に走り回る小学生たちの脇を通り、職業安定所に入る。
冷えた空気に触れて汗がひいていく。
虎門は障害者枠で利用者登録をすませていた。
職探しの話し合いは、今日で四回目になる。初田が診断書を出してくれたおかげで、スムーズに登録が進んだ。
自分の得手不得手を表に書き出したのも大いに役だった。
臨機応変な接客が苦手だから、スーパーや飲食店といった、不特定多数を相手にする接客業を除外することになりそうだ。
各都道府県には障害者雇用の支援制度がある。
就業先が決まると健常者の就労と同様に試用期間が設けられるが、支援機関の担当者がこまめに様子見に来てくれるという。
職場に馴染めているか、仕事で不都合はないか。定期的に職場の責任者と支援機関の担当者を交えて話し合いも行う。そういう就労支援制度がある。
今日は職業安定所の障害者枠担当の犬井と話をした。
犬井は虎門の親くらいの年齢。鼻の下の髭がゲームに出てくる赤帽子のおじさんみたいで、親しみやすい人だ。
「事務系の職業訓練校ではワードやエクセルの検定級も目指せるので、そちらを利用するのもオススメです。虎門さんはタイピングができるんですよね。検定を持っていると事務職という選択肢が増えます」
虎門が目星をつけて印刷してきた求人票は、事務職も含まれている。
経験不問と書かれてはいるものの、ワード検定3級以上を持っている方、などの補足が書かれているものがほとんどだ。
受講期間はおよそ三ヶ月。職業安定所が開設している技能習得学校の中では短い部類に入る。福祉系の受講だともっと長くかかるそうだ。
「虎門さんの場合は職業訓練受講給付金の受給資格があるので、生活費の心配も解消されます。ちょうど、受講生募集中のものがあるんですよ」
要項に目を通すと、訓練校はクリニックの最寄駅そば、企業テナントが多く入るビルの三階にあった。
病院に通いやすく受講もしやすいなら、うってつけだ。
「もちろん、事務以外の仕事をしたいのであればそのようにします」
「これを受講したいです。事務基礎能力の訓練学校」
一度検定に合格すれば、事務以外の仕事を探す場合でも活かされる。自分にもまだいろんな可能性があることがわかって、虎門は嬉しかった。
受付で手続きをして、職業安定所を後にした。
このあと、午後からクリニックでの診察予約が入ってる。
クリニックの最寄り駅で電車を降り、以前働いていたレストランの前を通る。
ガラス張りの通路沿いにあるため、新入りバイトが忙しなく配膳しているのが見えた。ほんの少し前まで、虎門があの立場にあった。
不思議と、寂しいという気持ちにはならない。
虎門にはもう新しい目標があるから、振り返って嘆くことはしない。
初田ハートクリニックに入ると、高さ一メートルほどの下駄箱の上に金魚鉢が乗っていた。
水草や水車の飾りが沈めてあって、竜宮城の形をしたエアポンプから泡がのぼる。
虎門が取ってあげた金魚がくるくる泳ぎ回っている。
「こんにちは、虎門さん。見てください、金魚ちゃんたち、元気にやってるんですよ。白ちゃんは一番大食いなので、ごはんを多めにあげないとです」
ネルがここまで大喜びしてくれるなら、取った甲斐があるというもの。
いつ会ってもご機嫌なネルだが、今日は前に会った時よりも楽しそうに見える。
「根津美さん、今日はいつも以上に楽しそうですね。何かいいことがあったんですか」
虎門より先に診察を終えていた女性患者も、同意して頷く。二人に見られて、ネルは口元に人差し指を当てて微笑む。
「内緒です〜。あ、聖さん、今日は日傘をさしてきていたでしょう。前回忘れて帰っていたから、今日は忘れちゃダメですよ」
「はーい。もう忘れないですよ、根津美さん」
聖は会計を済ませると、傘立てから白い傘を抜き、虎門にも会釈してクリニックを出て行った。
診察室に通され、初田に職業訓練を受ける予定であることを伝えると、応援すると言ってくれた。
「訓練校に通う中で、体調がすぐれなかったり薬の副作用が出てきたら、症状に合わせて薬を調節するので気兼ねなく言ってください。授業中に眠くなったら集中できないでしょう」
「眠くはならないけど、ちょっと吐き気がすることがある」
「この薬の飲み始めに割とよく起こる副作用です。気持ち悪さ、吐き気が頻繁にあるようなら吐き気どめも一緒に出しておきましょう」
「お願いします」
軽くノックの音がして、ネルが紅茶とお茶菓子を運んできた。ちらっと初田を見て大きく息を吸い込む。
「もっと紅茶をどうぞ。今日はダージリンちゃんのマスカットフレーバーですよー。お煎餅は隣のおばさんがくれた揚げせんの塩味です」
「い、いただきます」
ネルがテーブルにトレーを置くために屈み、ブラウスの胸元にさがっていたネックレスが揺れる。鍵の形をした、アンティーク調のものだ。
「おかわりが必要なときは言ってくださいね」
「はい」
診察室を出るネルを、つい目で追ってしまう。
恋人がいないなら自分にもチャンスがあるんじゃないかなんて考えてしまい、虎門はネルがいれてくれた紅茶を一口一口大切に飲む。
「だめですよ」
初田が突拍子もないことを言い出して、虎門は首をかしげる。
「だめって、おかわりがですか?」
「ネルさんは先約済みです」
先日の診察時、ネルに恋人がいるのか、と聞いたことを思い出す。その時は知らないと返答された記憶があったが、あの後ネルに聞いたのかもしれない。
指輪をしていないだけで、先を約束した恋人がいるらしい。
「恋人が居ても不思議じゃないなあ。優しいし気がきくし、付き合える人は幸せだろうな」
「そうですね。幸せだと思います」
初田がポケットから懐中時計を取り出し、文字盤を眺めながらしみじみと同意する。
ウサギマスクのせいで表情を見ることは叶わないけれど、きっと微笑んでいるのだろうと思う。
「前回、ナナさんから聞きました。ナナさんが苦手なパソコン必須の手続きなんかを兄貴がしてくれてすごく助かるって。パソコンの訓練を受けて仕事に就くのは、虎門さんに合っているように思いますよ」
「ナナがそんなことを? いや、でもおれ、ちょっとかじった程度だからあんま自慢出来るようなもんじゃないですよ」
ナナはパソコンが苦手だからすごいことをしているように見えるだけで、今の虎門は本当にちょっとしたことしかできない。
「基礎知識があればゼロをイチにするより楽ですよ。それに小さい子の相手が得意なようにお見受けするので、子供向けパソコン教室なんてのも良さそうです」
褒められるなんて思っていなかったから、照れくさかった。
虎門は次の診察予約を入れてクリニックを後にした。
障害を抱えていることがわかった時にはこの世の終わりみたいな気がしていたけれど、障害があってもうまく生きていけるよう、サポートしてくれる人たちがいる。
次に来るときは訓練校に通っている最中になる。
検定級を取ったり、卒業したり、ここに来て初田とネルに報告する。
そしてきっと二人はそのたびにお祝いの言葉を口にしてくれる。
いい報告ができるようにがんばろう、そう思って虎門は電車に乗り込んだ。





