57 愛の形を分類する必要はあるのか
クリニックに帰り着く頃には、時刻が二十三時を回っていた。
玄関の外照明がついている。
鍵を開けて入ると、玄関にあがってすぐのところで、ネルがタオルケットにくるまって座っていた。
「にいさん! 無事でよかった……」
ネルは立ちあがろうとして突っ伏した。情動脱力発作。ここ数年はほぼ起こらなくなっていたのに。
かなり心配をさせていたことがそれだけでわかる。
「すみませんでした、ネルさん。あんなに、止められていたのに」
危険だから行ってほしくない、行くならついていく、ネルは何度も言っていた。
平也を見つけて警察に突き出せば平穏に暮らせる。そう思って焦るあまり、一番やってはいけないことをした。
初田はネルの肩を支え、助け起こす。
ネルは泣きながら初田を責める。
「謝ったって許さないんだから。初音さんだって、初斗にいさんに何かあったら泣くよ。なんでにいさんはいつもいつも、自分のことをないがしろにするの」
自分の命がどうでもいいと思ったことはない。けれど、そう評されても仕方ない。
ネルに泣かれるのは、自分が怪我をするよりもずっと痛い。
苦しくて、胸が痛い。
(歩にバカだと言われるわけだ。どうしてわたしは、ネルさんを苦しめる道を選んでしまったんだろう)
どんなに平也を見つけたかったとしても、やめるべきだった。
医師であることより、自分の感情を優先させてしまった。
「もうしません」
泣き腫らしたネルの目が、信用ならないと言っている。
「……どうしたら信じてくれますか」
「じゃあ、懐中時計の鍵をちょうだい」
「鍵を?」
ネルがくれた懐中時計は鍵巻き式。毎日鍵をさして回すことで稼働する。そして鍵は他の何かで代用することはできない。
「毎朝私が鍵を渡して、にいさんが鍵を回すの」
「そうなると、ネルさんはもうわたしから離れられなくなりますよ。転職できないし、誰かと結婚してもその役目を続けるなんてこと、相手が嫌がるでしょう」
ネルが言わんとしていることを察して、初田は言葉を返す。
これ以上は、後戻りできなくなる。
兄妹のような距離感ではいられなくなる。
心臓の音がうるさい。
鍵はいらないと言って欲しい気持ちと、言って欲しくない気持ちが混在する。
ネルは初田の瞳をまっすぐに見て、左手のひらを上に向ける。
それが答えだった。
初田はネルが自分に対して恋愛感情を抱いていることを理解した。兄や父に対するようなものではなく、異性としての感情がある。
他の女性であったなら、「わたしの妻になると殺人犯の義兄を持つことになりますよ」と制止できるのに。
ネルはもとより初田と平也のはとこ。初田を選ぼうが選ぶまいが、平也と血のつながりがある。
「だめです。ネルさんは、幸せにならないといけない。わたしではない誰かの手を取って……」
「好きでない誰かと家族になるのは相手にも失礼だし、そんなの、幸せじゃない」
ネルの肩を支えていた初田の手に、ネルの手が重なる。
「私の幸せは、にいさんの夢を一緒に叶えること。ずっと一緒に、お茶会をするの」
もうとっくにネルの気持ちは固まっていた。いっときの迷いや、幼い憧れではなく、揺るぎない気持ちだ。
初田は自分の心に問いかける。
ネルを引き取ってからずっと見守ってきた。大切にしたいと思ってきた。その気持ちは今も変わらない。
気持ちに名前をつけるとするなら、
礼美がコウキを守ろうとするのと同じような、親子愛なのか。
もしくは虎門とナナのような、兄が妹を守ろうとする兄弟愛なのか。
どちらも似て非なるもののように思える。
(親子愛でも兄妹愛でもないのなら、わたしのネルさんに対する心はどれにあたるんだろう。どうしても名前をつけ、一般にあるものと同じ分類をしなければならないものなのだろうか)
コウキには「気持ちの名前を知るように」と教えているのに、初田自身、名前をつけられない気持ちに葛藤する。
「わたしの心は、ネルさんの望む形をしていないかもしれない。わたしの普通は、普通の形をしていない。嘉神兄弟の平常は異常、そう言われて育ちました。わたしの心は異常です。すごく面倒くさくて重たいでしょう。選んだことを後悔すると思います」
たたみかけるように紡がれる言葉を、ネルはすべて受け止める。
「一般的とか、普通とか、そういうの私にもわからない。私たちだけのかたちが、あると思う」
夫婦でも恋人でもない、兄妹でもないのに妙齢の男女が一緒に暮らしているなんておかしい。と、ずっとまわりから言われてきた。
初田は時計の鍵を通していたネックレスを自分の首から外し、ネルの首にかけた。
これが初田の答え。
ネルは両手で鍵を握りしめて口元をほころばせ、目をつむる。
日付が変わり、初田はネルに渡された鍵で時計のゼンマイを巻く。
二人で新しい時間を刻んでいく。





