56 命を預かっているからこそ、自分を大切に。
ナナと会う約束をした月曜。
初田は一日の診察を終えてすぐにクリニックを閉めた。
身支度を整えてサングラスをかけ、出がけにネルに告げる。
「それじゃあネルさん。終電前には戻れると思うので、わたしが帰るのを待たないでそのまま寝てください」
「……いってらっしゃい、初斗にいさん。ちゃんと、無事に帰ってきてね」
今朝までは一緒に行くとごねていたのに、あっさり送り出してくれた。
電車に乗り込み新大久保駅で降り、改札を出てすぐのところにある避難経路案内看板の前に行く。
ナナはもう先に来ていた。
「お待たせしてすみません、ナナさん」
「驚いた。先生って本当にレンさんと双子なんだね。声をかけてもらわなかったらレンさんだと思っちゃうよ」
「それはどうも」
雲に乗る子供の壁画が描かれたガードをくぐると、賑やかな街に出た。
ナナに先導され、パチンコ屋やカラオケ、韓国グルメの店が軒を連ねる通りを歩く。看板も日本語とハングル文字、英語が混在していて、行列をなす客たちも多国籍。
あたりに並ぶ食事処のにおいが混じり合い、においだけでお腹いっぱいになりそうだった。
電柱やシャッターは、至るところにスプレーで落書きがほどこされている。
ネオンライトで照らされる立て看板はガールズバーや、夜の店の名が並ぶ。
「先生、顔色悪いけど大丈夫?」
「……普段こういうところに近寄らないものですから」
「レンさんと同じで、放っておいても女の子の方から寄ってくるから間に合ってますって感じ?」
間に合っているから近寄らないのではなく、そもそも女性と夜伽することに興味がないと言う方が正しい。意中でもない相手にそういう関係を求められたら、全力で突き飛ばす自信がある。
ナナの前でそれを口にするのは憚られるため、初田は否定も肯定もしなかった。
賑やかすぎる歓楽街から一本小道に入ったところにある服屋。その隣に、ナナが言うようにバーがあった。
地階に降りる階段を覗くと、ガラス張りの扉から店内が見える。オレンジがかった暗めの照明が店内を照らしていて、扉に【BAR 名無しの森】とカリグラフィーの文字で書かれている。
初田は扉を押し開けて、店内に入った。
曲名は知らないが、スローテンポのジャズが流れている。
両耳に五つずつピアスを開けている色黒の男が、カウンターの向こうからこちらを見た。
黒髪をオールバックにしていて、半袖で露出した右腕に黒い鳥のタトゥーが入っている。
「レン、久しぶりじゃないか! 最近全然来ねえと思ったらナナと一緒だったのか?」
「違うよマスター。この人は初田さん。レンさんと生き別れた弟で、レンさんがどこにいるか知りたいんだって。初田さん、この人がここのマスター、鴉取さんだよ」
「初田って言うと、今日予約を入れてくれていた」
「はい。話を聞くだけでは失礼なので、何か注文しようかと。まず、ナナさんにカクテルを一杯。わたしはノンアルコールのものをおすすめでください」
「うちはいつものね」
「はいよ。クローバークラブな。ナナは他の飲まねえな」
初田は丁寧にお辞儀をして、カウンター席に座った。ナナも隣に腰を落ち着ける。鴉取は背後の棚から酒瓶を取り出し、カクテルを作る。
「まさかレンに弟がいたなんてな。しかもこんなにそっくり。レン本人がドッキリを仕掛けている、んじゃないよな。あいつはそういうの好きじゃなさそうだし」
「双子なんです」
そこは事実なので初田はありのまま答える。平也がどこまで身の上を話していたかは不明だから、手探りだ。
「両親が離婚して以来会ってなくて。居場所か、もしくは兄さんと連絡を取り合える人を知っていたら教えて欲しいんです」
「なんで会いたいのか、なんて聞くのは野暮だな」
「ええ。どうしても会って話がしたいんです。母さんも心配しています」
訳ありの人間が集まる街だから、突っ込んだことは聞いてこないのがありがたい。
初田に対してそうだということは、平也に対しても詳しく踏み込んだ話をしたことがないかもしれない。
鴉取はカクテルをカウンターに出し、視線を彷徨わせて照明に移す。
「レンはあんまり自分のことを話さないからな。たまにふらっとこの辺りに現れて、病院に行けないようなやつの面倒を見てくれていたんだ」
「面倒を見る?」
「ああ。保険証を持っていないやつは、医療費が全額負担になっちまうだろ。だから病院に行けないやつの様子を見て、どの薬を飲めばいいとか、安価で教えてくれていたんだよ。ちょっとした怪我の手当ならできるっつって診てくれたり」
いわゆる闇医者というやつか。病院で満額の五万円取られるより、目の前にいる平也に一万円払って診てもらうことを選ぶ。
平也は曲がりなりにも医師の前期研修を終えているから、よほどの重症でない限り診ることができる。
医学の知識を持っているからこそ、逃亡生活の資金集めに苦労しなかった。
「兄さんに医学の知識があることを、誰も不審に思わなかったんですか」
「免許のあるなしなんてどうでもいいからな。実際レンの言う通りにすると、風邪の症状も良くなるし」
薄々、レンが嘉神平也だと気づいている人がいてもおかしくない。気付いたとしても、安価で医療を受けられるというメリットがあるから、口外しない。
平也を警察に突き出すために探していることがバレてしまったら、支援者たちの手で初田の首が物理的に飛びかねない。
どうすれば怪しまれずに平也のところにたどり着けるか、初田は赤いノンアルコールのカクテルに口をつけ、思案する。
「体調が悪いタイミングで兄さんがいない場合はどうしているんです?」
「その時は適当にそこらのドラッグストアの薬を買う。素人判断だからやっぱ薬が合わないし、治りにくい」
「そうなんですか」
「それに、レンに連絡先を聞くのは御法度なんだよ。一度、体調が悪くなった時にすぐ診て欲しいから電話番号を教えてくれと言ったやつがいたが、レンがブチギレていた。次聞いたら二度とここに来ないって」
つまり、ここに来る誰もレン……平也の連絡先を知らない。虎門が言っていた、平也が降りた駅というのが新しい活動拠点だろうか。おおよそ降りた駅の当たりをつけて周辺を探るしかなさそうだ。
「お話を聞かせてくださって、ありがとうございました。あとは自分の足でなんとか探してみます」
カウンターに二人分の代金を置き、初田は店を後にする。扉を開けたところで、見慣れた人物がぶつかった。
「イタタタ、いきなり出てこないでよ初斗」
「歩!? どうしてここに」
いつもと違ってカジュアルな服装だが、間違いなく歩だ。
「ネルちゃんに頼まれたの。あんたが危ない橋を渡ろうとしているから見ていて欲しいって」
「……ついてくるのを諦めたと思ったら、そんなことを頼んでいたんですか」
初田は歩に引きずられるようにして、来た道を引き返す。
「あのねえ初斗。兄貴を探したい気持ちは痛いほどわかるんだけどね、こんなことして、あなたに何かあったらネルちゃんはどうなるのよ! ネルちゃんの人生を預かっている身で、何してんの。バカなの!? それに、アリスちゃんだってまだ治療が終わってないのよ!?」
歩が叫び、拳で初田の左胸を叩いた。
叩かれたところが熱くて痛い。
初田はネルを引き取る時に約束した。この先治療に何年かかるとしても、初田が治療費を持つし、責任を取ると。
初田に何かあると、ネルが誰よりも迷惑を被る。
そして大怪我でも負わされようものなら、クリニックにくる患者にも迷惑がかかる。
「すみません」
「謝るならアタシでなく、ネルちゃんに謝りなさい」
「はい」
帰りの電車の中、帰宅ラッシュもとうに過ぎているから車両には初田と歩しか乗っていない。
初田は全て白状するしかなかった。
平也が出入りしていた店のこと、何をして逃亡資金を得ていたか、そして、平也がクリニックに近い駅付近に潜伏している可能性があること。
「どうするのが正解だと思う?」
「そうね……。あんたやアタシたち、まわりのみんなに危険が及ばない方法があるとしたら、これよ」
歩はスマホを操作して、とある画面を出した。
「一か八か、やってみる価値はあると思わない?」
「……それであぶり出せるなら、やります」
「そうこなくちゃ!」
初田は歩の作戦に乗ることにした。
これがうまくいけば、平也は逃亡を続けられなくなる。





