54 いつかくる未来を刻む
「初田とネルはケンカをしなさそうだ」とよく人から言われるが、そんなことはない。
初田がネルに対して怒ったことはないが、初田がネルを怒らせることならよくある。
お風呂にあるバスボム動物のお茶会メンバーを入れ替えたら、真顔で頬をつねられた。
玄関に置かれた陶器のウサギに眉毛を描こうとしたらデコピンをされた。
いつも謝れば許してくれるけれど、今回はいつものケンカとなにか様子が違った。
ご飯の時は楽しげに今日あったことや明日の予定を話してくれるのに、黙々とトマトを咀嚼している。
「ネルさん、あの……さっきのことですけど」
向かいに座るネルが、じっと初田を見上げる。眉間のしわが深い。
「……ごめんなさい、初斗にいさん。よくわからないけど、むしゃくしゃしちゃったの。きっとお酒を飲んだらあのときみたいになるし……、ナナさんに同じことをするのかなって思ったら。恋人ができたなら、ちゃんとおめでとうって言わないとなのに。でも、隠れてデートの約束なんてしないで、私にちゃんと教えてくれてもよかったじゃない」
「待ってください、恋人じゃないです、口説いてもいないです」
やはり一番勘違いして欲しくない方向に勘違いしていた。
兄を取られる妹の気持ちだろうか、それとも。胸がざわつき、初田は急いでスマホを取り出してネルに見せる。ナナに送ってもらった平也の写真だ。
ネルは目を丸くする。
「平也さん? この写真どうしたの?」
「おや、わたしだとは思わなかったですか」
「だってこの前一度会ったし、初斗にいさんは絶対にコーヒーを飲まないでしょ」
他の誰かに見せたなら、いつ東京に行ったんだと聞かれたかもしれない。
「ナナさんが持っていた写真です。わたしの声を聴いたナナさんに、レンさんはここのお医者さんだったの? と聞かれまして。歌舞伎町の、ナナさんが働いていた店付近にあるバーによく出入りしていたそうです。レンという偽名でね」
「……だから、そこに行って調べようと思ったの?」
「ええ。ナナさんがバーの店主と顔見知りだというので、口利きしてもらう約束をしたんです。知り合いをつたっていけば、平也の隠れ家にたどり着けるかもしれない。わたしが同じ服装と言葉遣いをしていれば“レンさん”だと誤認される。口を滑らせて情報を吐いてくれると最良です」
平也と鏡映しの容姿を、使わない手はない。
家族でもないと見分けられないくらいにそっくりそのままなのだから。
あとは平也のような言葉遣いと服装を心がければいい。
「へえ。こいつネルっていうのか。まあいいや。噂で聞いたけど、お前も医者やってんだって? 血は争えないねえ」
記憶にある平也の仕草をコピーして、耳にスマホを押し当て、前回平也と遭遇した際の台詞をそのまま引用する。
「どうですかネルさん。平也っぽく見えました?」
ショックのあまりか、青ざめて目に涙をため、無言で震えている。やりすぎたことを謝り、ネルの背中をさする。
「すみません、ネルさんの前ではもうしないです」
「ご、ごめんなさい、にいさん、いっしゅん、にいさんが平也さんに見えた」
「双子ですから」
長らく一緒に暮らしているネルが認めるくらいには堂に入っていたようだ。さして深く関わったことのない人間なら簡単に騙せる。
「平也さんのふりをして情報を集めるって、危険じゃないの、にいさん。警察に任せた方がいいんじゃ」
「通報だけしてもどうせまた逃げられます」
「でも、一人で行動してにいさんになにかあったら」
ネルの心配ももっともだ。レンが嘉神平也だと知った上で逃亡の手助けをした人間がいたら。
口封じで大怪我を負わされることもありえる。そうなった場合、次に狙われるならネルだ。
平也はネルの存在を知ってしまっている。
「……そう、ですね。もう少し考えてみます」
「うん。初斗にいさんが平也さんを見つけたいって気持ちは痛いくらいわかるんだけど、にいさんの身の安全が第一だと思うの。無理だけは絶対にしないで」
「はい。肝に銘じます」
夕食を終えて、ネルがクローゼットの奥から小箱を持ってきた。
「明日は初斗にいさんの誕生日でしょう。歩さんにお願いして取り寄せてもらったの」
「ありがとう。そうか、もう誕生日なんだ。忘れていたよ」
レザーの黒い箱を開けると、中に懐中時計が入っていた。
アンティーク調のくすんだ金色で、文字盤の中央でゼンマイがまわっているのが見える。
派手すぎず、地味すぎない。初田の好みをよく理解して選んでくれたのがわかる。
「鍵巻き式の懐中時計なの。初斗にいさんは、あまり家から出ないから時計はいらないって言って持たないでしょ。お茶会するときには持っていないと困るじゃない。帽子屋さんなら懐中時計を持っていないとね、にいさん」
短冊に、外でお茶会をしたいと、平也が逮捕された先の願いを書いたから。だからその未来のために用意してくれた。
目頭が熱くなり、涙が頬を伝う。
「に、にいさん?」
「ありがとう、ネルさん。はやく、これを持ってお茶会をしたいです」
「うん、みんなでお茶会しよう。お母さんと初音さんも呼んで、白兎先生も呼ぶの。すごく賑やかになるよ」
「楽しみです」
さっそく鍵でゼンマイを巻いて、時間を合わせる。
鍵巻き式懐中時計は毎日鍵をさす必要があるが、電池を必要としない。手入れをきちんとすれば何十年と保つ。
何年後になるかわからないけれど、いつかこれを持ってお茶会をしよう。そう二人で約束した。





