5 赤の女王は、首を狩るのが唯一の娯楽
中村コウキの予約時間を十五分過ぎてから、初田ハートクリニックの電話が鳴った。
受付にいたネルが子機を取り、応対する。
「初田ハートクリニックです」
それは、例えるなら猛毒の弾丸を装填したガトリング砲。
中村コウキの父、秀樹からかかってきた電話はそんな内容だった。
すぐさま初田が電話をかわる。
診察室の親機でスピーカーボタンを押し、三十分。
この男はどこで息継ぎをしているのかと思うほどの罵詈雑言が延々と垂れ流された。
三十分の内容を一四〇字以内に収めるなら、
うちの子は精神病じゃない
ただでさえ高校退学処分になって会社で恥をかかされたのに精神科通院なんてされたらオレの株が下がる
長期治療なんてもっともらしいことを言って治療費をふんだくる詐欺師
毒舌ガトリング砲をBGMに、初田はウサギ柄トランプでトランプタワー作りを楽しんでいた。
紅茶を運んできたネルは、よくこんな騒音を聞きながらトランプタワーを作れるなと感心した。
三十分の間、初田は「ええ」「ああ」とやる気のない相槌を返して次のトランプを手に取る。
本当に、一方的に罵られているだけで、会話になっていない。
『わかったか!!!!』
秀樹がようやく言いたいことを全部言い終えたのか、散弾が止まった。
この三十分間に初田は紅茶のポットを二つ空にしている。
「そうですね、中村さんが天才だということは理解しました。コウキくんがああなったのは、紛れもなくあなたの英才教育の賜物です」
『そうだろう、コウキは毎回学年三位以内。小学一年の頃から毎日進学塾に通わせたからな』
秀樹は電話の向こうで上機嫌だ。
言葉の表面しか捉えられない勉強ができるだけの頭でっかちのド阿呆。
初田が放たれたガトリング砲に負けないくらい最大の皮肉で言ってやったのに気づいていない。
タワーの六段目のてっぺんを作りながら、初田は秀樹に聞く。
「コウキくんはどうしていますか」
『どうせ二度とそこに通わないんだから、お前に関係ない』
「患者の経過観察とケアをするのが医師の役目です」
『もうお前の患者じゃない。病院なんかで潰す無意味な時間があったら受験勉強してもらわないと』
一度も顔を合わせたことのない他人の初田にここまで高圧的な発言ができるのだから、身内の礼美とコウキも普段からこれにやられているのは想像にかたくない。
「誕生日じゃない日は一年に三六四日もあるのに、コウキくんは塾に行かない日が一日もないんですか」
『ああ。成績を保つにはそれくらい当たり前だ。オレもそうしてきた。入学するまではよかったのに。礼美に任せておいたらこのザマだ。おかしな行動をとったのは礼美の育て方が悪いからだ』
さっきと矛盾したことを言っていることに、秀樹本人は気づいているだろうか。
コウキが成功すればオレの手柄、コウキの失態は妻の責任。
「診断書を読んだのなら、あなたは責任を感じなければならなかった」
『は? オレが悪いと? 金を家に入れてやっているのはオレだぞ。オレが稼いだ金がなきゃこいつらは生きていけないんだ』
カードを持つ初田の指先が震える。
普段からそう思っていなければ、この発言は出てこない。人は逆上しているときほど本音が見える。
「お母さんは常にコウキくんの未来を憂いていたのに、中村さんは保身ばかりなんですね」
そう、過保護すぎるところは否めないが、礼美の言葉はすべてコウキの未来を案じるものだった。食事のバランスやカロリーを気にするのも、健康を案じるから。
今は好きなものを好きなだけ食べると、小学生でも糖尿病になる時代だ。
対する秀樹は、妻子を自分のアクセサリとしか思っていない。
子が優秀だと自慢できる。
礼美が専業主婦でいるのも、「主人がパートに出るのを許さないからだ」と書かれていた。
秀樹は【夫の稼ぎだけで妻子を養う父親】でいる自分が好きなのだ。
「診断書にも書きましたが、今のコウキくんの精神はとても危ういバランス、トランプタワーのような状態にある。指先の力加減ひとつ間違えたら崩壊する。休息が必要です。高校入試を受けるのを一年遅らせたほうがいいと思うくらいには危険だ」
『そんなの診療費をとるための嘘だ。総合成績は学年三位なんだぞ』
目の前にいるコウキでなく、成績表でしか見ていない。
「あなたは崖っぷちに立っているコウキくんの背中を突き飛ばそうとしている。いま選択を誤れば、コウキくんが後戻りできなくなりますよ」
『なんだ? 脅しか? そっちがそのつもりなら警察に言ってもいいんだぞ』
電話の向こうからは壁か何かをドン! と力任せに叩く音が聞こえてくる。
礼美の悲鳴にも似た声がかすかに聞き取れた。
「意味のないことをする時間を一切与えず、勉強だけ押し付け虜囚のような扱いをする……だから、虫殺しを咎める友だちの一人も作れなかったんだ。中村さん。コウキくんが猫の首を狩りとったとき、理由を聞きましたか? 一方的にコウキくんを責めて殴ったのでは?」
無言。それは肯定だ。
「ゲームや漫画、アニメ、友だちと遊ぶ時間を一切与えられなかったコウキくんにとって、首を狩るのは娯楽だったんだ。虫や野良猫を捕まえて首を落とす。それに、殺す生き物に明確な基準がある」
秀樹がゴクリとつばを飲むのがわかる。
「要るか、要らないか。その二択だけ。貴方の教育方針は、コウキくんを最高にたちの悪い赤の女王に育て上げた。中村さんは、心のない人間を育てる天才だ」
これがどれだけ脅威なのか、秀樹は理解しているだろうか。
「野良猫は誰のものでもないから殺していい、殺すのは楽しいと、そう言ったんです。その価値観を正してあげないと、この先も、要らないと判断したモノの首を落とす。きっと次に狩る不要品はーー」
父との思い出は全くなく、顔を合わせるのも極わずか。
家族と認識しているのは、毎日ともに暮らしている礼美だけ。
「中村さんでしょうね」
トランプタワーが崩れ、静かな診察室の中に飛び散った。